危機感
『人を動かすには危機感を抱かせればよい』
人を指揮する立場の者ならば、幼少より習い聞かされていることだ。
『危機感』という人の心を揺さぶる感情を、迷宮都市や周辺領地の統率にうまく利用してきたシューゼンワルド辺境伯家は、その効果を十分理解している。迷宮という帝国全土に影響を及ぼすかもしれない危険に関して、立場や権力に応じてうまく情報共有することで、意思を統率し強固な協力体制を築いてこられたと言えよう。
人は満ち足りた環境では変化を望まない。それは人の本能と言ってよいかもしれない。
だから、満ち足りた人間は、迷宮都市でポーションが市販され魔の森を行き来できる可能性が高まったとしても、状況の不明確な初期段階で行動を起こす可能性は低いだろう。いつでも動き出せるように身構えながらも、状況を観察するに違いない。
だから今、迷宮都市を訪れている有象無象は、何らかの理由でひっ迫した状況にある者ばかりだろう。経済的にか、精神的にか、その他の理由によるものか。彼らを駆り立てるものはそれぞれ異なるだろうけれど、ポーションという名の橋が架かったとはいえ、それは崖にかかる一本の木橋のようなもの。何らかの理由で追い立てられ橋を渡ろうとするものに、冷静さがあるとは限らない。
ポーションという名の橋を求める者たちは迷宮都市の内外に数多いが、何をしでかすかわからないのは、我先にと木橋に群がるような彼らで、逆に言えば彼らさえしのいでしまえば、一定の秩序に基づいた運営が可能となってくる。
夜の灯火に群がる羽虫のように、ポーションを求める有象無象は、キャロライン・アグウィナスの周囲を今日も飛び回る。何匹も何匹も。はやく、はやくしなければ。誰かに先を越される前にと。
朝、アグウィナス家の屋敷を出て害虫駆除団子の工房に行き、その後、迷宮討伐軍の基地へ。夕刻に屋敷へ帰宅する。それはキャロラインの日々の行動パターンで、何日か張り込みを行えば容易に入手できる情報だ。
彼女を狙う有象無象は互いに互いを牽制し合い、あるいは協力し合って様子を窺っているのだろう。それすらも盤上の駒のごとく、ウェイスハルトはこらえ性のない一匹が灯火に飛び込むのを、今か今かと待ち構えていた。
「申し上げます! アグウィナス家の害虫駆除団子の製造工房が襲撃されました」
ウェイスハルトにもたらされたその一報は、重く立ち込めた積乱雲から雷鳴が轟くがごとく、衝撃的なものではあったけれど、ずっと空模様を見続けていたウェイスハルトにとっては、予測しつくされた、驚くに値しないものだった。
しかし、この一報が届いた瞬間を、まるで豪雨の前の落雷のようであったと、ウェイスハルトは後に思いだすことになる。
「状況は」
「は。襲撃者はDランカーらしき3人組。居合わせた商人および護衛の冒険者4人も共に捕縛したとのこと。マルロー副隊長の報告によりますと、単独あるいは末端の雇われだろうとのことです。尋問に奴隷商レイモンド氏の招へいを要請しています」
「招へいを許可する。尋問に移れ」
報告を終えて部屋を出ていく兵士を一瞥しただけで、手元の書類に視線を移すウェイスハルトの表情は、常と変わらぬポーカーフェイスでわずかばかりの動揺も見受けられない。害虫駆除団子の工房周辺を数日前からうろつく者がいることは把握していた。そろそろだろうと予想していたのだ。予想通りの襲撃に予定通りの鎮圧だ。驚くには値しない。力を見せつけ派手にやる様、マルローには指示をしている。これでしばらくは、工房周囲は静かになろう。
しかし、紅茶のカップに手を伸ばしたウェイスハルトのしばしの休憩は、香りすら楽しむ間もなく中断された。
「申し上げます! アグウィナス家の護衛隊より連絡! 先ほどアグウィナス家を覆面姿の一団が襲撃。 既に制圧し全員捕縛したとのことです。」
「工房の襲撃は陽動か? 少々手荒でも構わん。すべて吐かせろ」
「は! ニーレンバーグ先生をお呼び致しましょうか?」
「好きにしろ」
カップを手に持ったまま氷の視線を投げかけるウェイスハルトの表情は、立て続けに届けられた2報目の報告を受けてもいつもと変わりはしなかった。しかし、長く仕えた部下たちはわずかに漏れる彼の怒りを感じ取って、確実な尋問手段を提案し、許可を得るなり部屋を飛び出した。
(組織的な誘拐も予測のうちだ。生きたまま全員捕らえたのだ。じきに主犯が知れるだろう)
ウェイスハルトは紅茶を口にすることもなく、そのまま皿ごとカップを机上に戻す。
兵士とのやり取りにキャロラインの安否は含まれていない。報告するまでもなく無事であると分かっているからだ。
そうであってもウェイスハルトの心は強く掻き毟られる。キャロラインが無事であったとしても、彼女を狙う何者かが襲撃を仕掛けてきたというその事実は、闇を切り裂き耳をつんざく稲光のごとく、ウェイスハルトを打ち据えた。
ウェイスハルトは、口もつけずに冷めていく紅茶の面を一瞥すると、従者の一人に別のふれを命じた。
「先ぶれを」
「は!」
ウェイスハルトの一言に、どこへ向かうか察した従者は、主の来訪を知らせるために目的の場所へと走っていく。向かう先は迷宮討伐軍の基地の敷地内。高官用の宿舎や迎賓施設として建てられた、基地の中で唯一それなりの品位を備えた建物だ。基地の正門近くに建てられた館は、兵士の往来が多くて静かであるとは言い難いけれど、その分安全でウェイスハルトの執務室からも臨めるほどの距離にある。
ウェイスハルトが軽く髪を整えている間に、先ぶれに行った従者が戻ってきたようだ。バタバタと廊下を走る音が聞こえてくる。
(そこまで急ぐ必要はあるまいに。このところ、感情を読まれ過ぎだな……)
そんな風に考えて、ウェイスハルトが襟元をただした丁度その時、ノックもせずに従者が部屋に飛び込んできた。
「げ……、迎賓館、襲撃されておりました!」
「なんだと! キャル……、キャロライン様は!?」
「それが、お姿、確認できず……!!」
ガタン! と大きな音を立てて椅子が倒れるより早く、迎賓館へと駆け出すウェイスハルト。その顔には、長く彼に仕えた者たちが一度も見たことのない表情が浮かんでいた。
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「基地の門を封鎖し、侵入者を調べあげよ! 迷宮都市の門もだ! 誰も街の外に出すな! 迷宮に潜っている諜報部隊を呼び戻し、街の捜索に当たらせろ! とらえた襲撃者の尋問を急げ! 迷宮討伐軍基地への侵入者だ! 決して逃がすな!」
迷宮討伐軍に矢継ぎ早やに指示をだすのは、騒ぎを聞きつけてやってきたレオンハルトだった。とらえた襲撃者たちに拷問をしてでも情報を聞き出さんばかりの弟ウェイスハルトを、
「少し落ち着け、お前らしくもない。冷静に考えを巡らせろ」
とたしなめたレオンハルトは、唇をかみしめ、血がでるほどに拳を握りしめた弟の肩をたたくと、迷宮都市に厳戒態勢を敷くよう命令した。
(だれだ……、一体だれが!?)
ウェイスハルトはポーション市販後に迷宮都市を訪れた人間を思い返す。
このところ、ガラの悪いCランク以下の冒険者たちがたくさん迷宮都市にやってきていた。彼らが起こしたトラブルの報告書は、日々ウェイスハルトの元へも届けられている。
帝都や近隣の町から商人たちも何組も訪れているという。魔除けポーションがあるといってもやはり恐ろしいのだろう。魔の森をぬけるために、何人もの護衛を従えた商人たちだ。
ガラス職人を筆頭に生産スキルを有した職人たちも、黒鉄輸送隊などの私設の輸送隊や商人たちに同行し迷宮都市に入っているという。
新たな住人たちの数は多くて、とても全員の素行を調べることなどできないけれど、アグウィナス家の周辺をうろつく連中の調査は万全を期してきたはずだ。だから、今日の工房の襲撃も、アグウィナス邸の襲撃も予測し問題なく鎮圧できたのだ。万一に備え、迷宮討伐軍の基地内にある迎賓館にキャロラインと彼女の父、ロイスも数日前からかくまっていた。
(まさか、迷宮都市内部の犯行か?)
そもそも、キャロラインが迎賓館にいること自体、限られた者しか知らぬのだ。彼女をかくまっていた数日間も、いつもの時間にアグウィナス家から工房へ、そして基地へとキャロラインの身代わりをのせた馬車は走っている。よほど迷宮都市に熟知した住人でもない限り、気づかれるはずはないのだ。
(迷宮都市内のめぼしい貴族家にはちゃんと餌をばらまいたはずだ。このタイミングで離反して利益があるとも思えん……。
やはり、脱獄したロバートか? しかし、奴は脱獄の際に使った呪いの反動で身動きもかなわぬはず。よしんば呪いを回避したとして、妹を攫う意味などあるまい……)
一体誰が。
まとまらぬ思考に定まらぬ容疑者。
がむしゃらに迷宮都市を走り回ったとして、キャロラインが見つかる道理はない。
しかし、キャロラインは貴族令嬢。狼藉者に誘拐されたという事実だけでも名に傷がつくのだ。
既に迷宮討伐軍の兵士が迷宮都市の門へと走り、事態を解決すべく人員の召集を行っているが、誘拐の事実を知るものは少数に限られる。
何とか噂が広まる前に、キャロラインを救出せねばならない。
過ぎる時間の1秒さえももどかしい。焦るウェイスハルトにもたらされたのは、場をさらなる混乱へと導く伝令だった。
「申し上げます! ロック・ウィール自治区よりクンツ・マロック殿が面会したいと。すでに領を出立し、明後日には到着する予定とのことです!」
「マロックだと? なぜこのタイミングで……、いや、今だからこそか」
ロック・ウィール自治区は、迷宮都市の北西に位置するドワーフたちの街で、迷宮都市のヤグー隊商が険しい山を越えて最初にたどり着く街でもある。
迷宮都市からヤグーで険しい山道を抜けて1週間、帝都からは3週間でしかも1週間は馬車の通れぬ山道を行かねばならない辺鄙な土地だ。こんな場所にドワーフたちが集まった理由は豊かな鉱脈。オリハルコンなどの希少な金属は産出しないが、鉄だけでなくミスリルもふんだんに採れるし、他の金属の種類も豊富で水も豊か。しかもこの辺りには魔物もあまり現れない。
土地が痩せているせいで、食べ物と言えば獣の肉かイモばかり、迷宮都市以上に娯楽の薄い場所で、普通の者ならば3日ともたずに飛び出したくなるような場所だけれど、酒が飲めて鉄が打てればそれなりに幸せだというドワーフ連中からすると、快適な場所であったのだ。
ロック・ウィール自治区は、長く険しい山道を抜けてようやくたどり着いた者が、安価で名剣を手に入れられる場所と、若く貧しい冒険者たちの口の端に上った場所でもあった。
しかし、ロック・ウィール自治区が貧しかったのも、名剣を安価で入手できたのも、すべては遥か昔の話。今では豊かな鉱物と希少な魔物素材で作られた優れた武器防具の産地として栄えている。
ロック・ウィール自治区の繁栄は、一つは定期的に訪れる迷宮都市のヤグー隊商によるものだろう。ヤグー隊商によって迷宮の素材や帝都の品々がもたらされ、ドワーフたちの生活は見違えるように向上した。
そしてもう一つ。ロック・ウィール自治区の繁栄を決定づけたのは、ロック・ウィール自治区を治め、ドワーフの工芸品の売買を管理する、ドワーフ・ハーフの歴代領主たちだった。
ドワーフという種族は、こんな辺鄙な場所に住むことからもわかるように、物を作ることに喜びを感じる職人気質な性格をしている。良い品を、最高傑作を作りたい。その途中でできてしまった失敗作に興味はないから、ツブして原料に戻してしまったり、欲しいと望む者がいれば二束三文で売ってしまう。
それが、帝都では高値で売れる良品であったとしても、酒代以外は金にさえ頓着しない人たちなのだ。もちろん商売など、とんと向かない。
いくら職人気質といっても頭が悪いわけではないから、帝都から商人がやってきては安酒と引き換えに失敗作を持っていき、帝都で高値で売っていることを気づいていないわけではなかった。
「もう少し、いい酒が飲みてぇ」
そんな些細な交渉さえも、丸め込まれてうまくできない。
ドワーフたちの感性は独特で、モノづくりに関しては極めて尖っているのだけれど、交渉や商売などは全くもって向かないのだ。そう、生粋のドワーフならば。
そんな彼らを救ったのは、一人のドワーフ・ハーフの男だった。ドワーフの気質と商売のセンスを併せ持ったその男は、ドワーフたちをまとめ上げ、失敗作を適切な価格で取引し、やがて自治区の領主となった。不思議なことにドワーフの血が薄まり過ぎるとドワーフたちと考えが合わず、人の血が薄まり過ぎると政治も商売も上手くいかなかったから、ロック・ウィール自治区の領主は世襲ではなくて、最もバランスの良い者が選ばれてきた。
その筆頭が現在の領主、クンツ・マロックで、その老獪さは歴代随一の男である。
ロック・ウィール自治区から迷宮都市に来るには1週間の時間がかかる。先ぶれが知らさせた到着予定は明後日。先ぶれも出さずにすでに出立しているということだ。
ロック・ウィール自治区は200年にわたりヤグー隊商の宿営地として交流があった。出立前ならいざ知らず、迷宮都市を訪れてレオンハルトやウェイスハルトが面会しないわけにはいかない。
なぜ、このタイミングで。
それは、分かり切ったことだろう。
魔物除けポーションで魔の森を通行できるようになれば、ロック・ウィール自治区を通るヤグー隊商は激減する。
ロック・ウィール自治区のドワーフたちにとって、ポーションの市販開始は看過できない状況なのだ。
ざっくりあらすじ:犯人だーれだ?




