更なる衝撃
その夜は眠ることが出来なかった。
ジークムントの眠りは浅い。長い奴隷生活の名残でわずかな物音でも目が覚めてしまうのだと、彼はそう思っていた。彼を長らく虐げた傴僂の商人は、重労働で疲れ果てていようと主の前で眠る奴隷の無防備な体をこれでもかと傷つけたからだ。
夜の明け切らぬ寝室は沈みかけた月明かりだけでは薄暗く、ジークの隻眼では少ない家具の輪郭が判別できるくらいだ。ベッドの上で壁にもたれかかるように片膝を抱えて座るジークは、身動き一つせずに夜明けの音を聴いていた。
夜は無音ではない。『木漏れ日』のある一角は治安の悪い場所ではないけれど、真夜中に出歩く者はほとんどおらず、夜はとても静かで暮らしやすい。それでも風が吹けば木々の、葉の揺れる音が聞こえるし、虫の鳴き声や夜目の聞く鳥の羽音も聞こえてくる。
夜明けが近づくと早起きな鳥や小動物が動き出す。どこか遠くで窓や扉をあける音。朝食の時間に間に合うようにパン屋が仕込みをはじめているのだろうか。
自分の心臓の音さえ聞こえそうなほどに息をひそめて耳をそばだてていれば、街が眠りから覚めていく様子が音となって聞こえてくる。
遠くで鳥の囀り。
(あの鳴き声はモルゲナか……)
夜明けより早く活動を始める鳥だ。モルゲナの囀りは夜明けが近い事を教えてくれる。
(これは、父さんが教えてくれたんだった)
ジークの父は狩人だ。彼は狩人の血筋。弓矢を背負い獲物を追って何日も森で狩りをするのだ。今まさにジークがしているように座ったまま森の中で体を休め、息を潜めて夜を過ごす。場合によっては目を開けたまま眠る者も先祖にはいたらしい。
父に連れられ狩りに出て初めて森で夜を明かしたとき、父が教えてくれた全てのことは、ひどく簡単に身に付けることが出来た。あの頃は学の無い父の教えは簡単なものばかりで、教師に教わった学問や礼儀作法の方がよほど難しいのだと思っていたが、そうではない。今ならばわかる。父の教えた全てはジークムントに流れる血に脈々と受け継がれていたもので、だからこそ高度な技術にも関わらず容易に習得出来たのだ。
ジークの眠りが浅い事だって、本当は奴隷生活の、傴僂の商人のせいではなく、生まれ持っての資質に近い。
(わかっている……)
ジークは脇に置かれた弓を抱える。
空手で膝を抱えるよりも、ミスリルの剣を抱えるよりも、弓が一番しっくりくる。
これが、本来の自分のエモノなのだ。
弓を抱え、森の樹を洞窟の壁を背に夜を過ごす。今は部屋の壁に背を預け、こうして夜明けを待っている。
けれど、あの時は。マリエラを逃がすためリンクスと二人デス・リザードを引き付けて闘ったあの時は、リンクスがジークの背を守っていた。
誰かに背中を預けるなんて、誰かの背を守り、守られ戦うなんて、ジークにとっては初めての経験だった。敵は前面に現れるものだけ。命をかけて戦っているのに、背後に何の不安も無い。そんな経験は初めてで、変わりたいと、なりたいと願ったものになれた気がした。
(あの時、弓が使えていれば……)
弓さえ使えていれば、リンクスは死ななかったに違いない。一撃でデス・リザードを射殺すことが出来なくとも、わずかにひるませることが出来たなら、そのわずかな時間の猶予はリンクスにデス・リザードの凶刃を受けるのではなく跳ね返す余裕を与えたに違いないのだから。
いや、使い始めてたった半年程度の剣がこれほど使える様になったのだ。もっと早く弓と向き合っていたなら、自分の力でマリエラを守れたかもしれない。
あの日を思い返すたび、後悔は尽きない。
迷宮討伐軍の治療技師でもあるニーレンバーグが不在の日だったのだ。迷宮で何かあると考えるほうが無難だろう。そんな日に迷宮に潜らなければ。
どれほど安全な階層であっても、ポーションを手元に持っていれば。
ジヤなどという忠心の無い荷運び奴隷を連れ歩かなければ。
そんな、もしもの話をしたところで、過去を、その延長にある現在を変える事などできはしないと、過酷な奴隷生活を生き延びたジークムントは誰よりも良く分かっていた。
「もしも、あの時」そんな後悔をどれほど繰り返したか知れないのだ。
けれどそのすべては全く無意味で、死の淵にまで転がり落ちたジークムントを救ったのは、偶然に出会ったマリエラだった。
だからこそ、二度と間違うことがないように、間違いだらけだった過去の自分と決別してしまいたかったのに。
過去の自分は既になく、マリエラに助けられた新しい自分として、マリエラに与えられたこの剣で生きていこうと思っていたのに。
マリエラを守る事すら出来はしなかった。
マリエラを守ったのはリンクスで、背を預けられる大切な仲間で親友だったのに、そんな彼さえ失ってしまった。新しい自分になどなれはしなかったのだ。
薄っすらと東の空が白んできた。これならば、裏庭の壁に取り付けた的が何とか見える。ジークムントは練習用の矢筒を背負うと弓を片手に立ち上がる。
もしもあの時。どれほど後悔しても過去を変える事は出来はしない。憂うだけ無駄というものだ。フレイジージャの言うように、誰か一人だけが悪いというものでないことも理解している。
けれど、『弓を使えていれば』という思いだけはどうしても打ち消すことが出来なかった。
ジークムントは、マリエラと出会ってからのこの半年を思い返す。
「だーっ、もう、ちょこまかと! ジーク! 弓使えよ、お前ほんとは弓使いだろ!」
冬のアーリマン温泉で、ニードルエイプを相手取りながら、リンクスがそう言った。
ワイバーン狩りの時だって、冒険者と距離をとり襲ってこないワイバーンに弓があればと思わなかったわけではない。
エルメラの夫、ヴォイドにだって指摘されていたではないか。
その全てに言い訳をして、弓を、過去の自分を遠ざけてきた。
(失う訳にはいかない。マリエラだけは、絶対に……)
ジークの腰にはマリエラに貰ったミスリルの剣。そして、リンクスから借りたままの短剣がある。
『マリエラを守れ』という、リンクスの思いごと預かった短剣だ。
もう、返すことは出来ないのならば、何処までも抱いていけばいい。どうせ変われなかったのだ。大銀貨2枚の価値しかなかったこの身だ。錬金術師に相応しい護衛でありたいなどと、出来すぎた願いだったのだ。
わずかでもマリエラの助けになれるなら。師と再会し、再び前を向いて歩き出した彼女のそばに少しでも長くいられるのならば。
ジークムントは静かに裏庭へでて、朝もやにけぶる的へと弓を引き絞るのだった。
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「ふぃ~、めまぐるしい一週間だったね、ジーク」
「あぁ……」
暖炉のある居間でぐったりとつっぷすマリエラとジーク。
「めまぐるしいって、目がぐるぐるしそうな時に言う言葉なんだって始めて実感したよ……」
師匠の襲来から1週間。あの師匠が来たのだ。忙しくならないはずはない。
わかっていたけれど、この一週間は本当に忙しかった。
まずは、『木漏れ日』の常連さん達への紹介。
これはスムーズに行った。少なくともマリエラはそう思っていた。
師匠はマリエラの『帝都の錬金術師』設定にも乗っかってくれたし、少なくともたいそうにこやかにみんなと挨拶を交わしていた。
一通り挨拶を終えた後、「結構、バラエティーに富んでていいじゃん」とにんまりと笑う師匠にちょっぴり寒気を憶えたけれど、少なくともこの段階ではマリエラの平和はまだ保たれていた。
問題はレオンハルト、ウェイスハルトらシューゼンワルド辺境伯家に招かれてからだった。
師匠が来た翌日に、ウェイスハルト自ら『木漏れ日』にやってきて、師匠と丁寧な挨拶を交わした後、夕食へと招待してくれたのだ。師匠、マリエラ、ジークの3人が地下大水道を通ってシューゼンワルド辺境伯の屋敷へ到着すると、以前よりも更に豪華な食事に高級な酒が用意されていて、レオンハルト、ウェイスハルトの迷宮都市のツートップが自ら歓待してくれた。迷宮都市の成り立ちや迷宮討伐の話など、遠方からの貴人に対してするような話を織り交ぜながら懇親を図る二人。
二度目であっても恐縮するマリエラとは対照的に、師匠ことフレイジージャは遠慮の欠片も見せず大いに食べて、高い酒をこれでもかと飲みまくっていた。
「フレイジージャ殿。そのお名前は聞いたことがある。現れた方角といい、マリエラさんの師であることといい、貴殿は200年前の魔の森の氾濫の際に、魔の森から溢れる高位魔物を焼き滅ぼし、一帯を焦土に変えたという炎災の賢者 フレイジージャ殿ではございませんか?」
師匠に酒がたっぷりと回った頃合を見計らって、ウェイスハルトが師匠に尋ねる。
「へぇ、あたしの名前、伝わってんだ」
あっさりと200年前の人物であり、炎災の賢者である事を肯定するフレイジージャ。
「! ……やはり! これぞ天の導きやもしれん。フレイジージャ殿、迷宮討伐のためそのお力を我ら迷宮討伐軍にお貸しいただきたい!」
ウェイスハルトと顔を見合わせたレオンハルトは、フレイジージャに助力を請う。しかし。
「無理だね。あんたたちの望むような助けにはなれんよ」
まるでレオンハルトらの申し出を見透かしていたように応えるフレイジージャ。
「我々の望む助けになれないとは、どういうことでしょうか?」
フレイジージャの無礼とも取れる発言に、機嫌を損ねた様子もなくウェイスハルトが聞き返す。
「戦力にはなれないって事。あんた、ウェイス様だっけ? あたしの人探しの呪文、聞いてたろ? 気付かないか?」
師匠の物言いにウェイスハルトの瞳がほんの少しだけ揺らぐ。無礼な物言いに気を悪くしたのではない。カイト隊長とフレイジージャのやり取りをスキルや魔法で聞いていたのは事実だが、気付かれているとは思わなかった。
会話を盗み聞くなど貴族の社交では良くあることで、だからこそ盗聴ありきで防御を行うものだし、盗聴自体ばれないように幾重にも隠匿するものだ。昨日使ったスキルや魔術もそういう物で、やすやすと見破られるような術ではなかった。それに気付いた上で、カイト隊長の前で術を使ったということは、わざと聞かせたということだ。フレイジージャが唱えた呪文は正しくウェイスハルトの耳に届いている。
「……、不埒なまねをしました。謝罪を。あれは初めて聞く呪文でした」
フレイジージャの金の瞳を見つめ、ウェイスハルトが謝罪する。この相手に虚偽や下手な言い訳は悪手だろう。
「別に聞き耳を咎めている訳じゃない。当然の対応だろ。あの呪文はね、精霊魔法だ」
気にした風もなく、師匠は応える。けれどそれを聞いたウェイスハルトの表情は大きく揺らぐ。
「精霊魔法!? まさか……。失伝したはずでは……。だが、そうか。だからこそあれだけの数の火柱を同時に……」
初めて驚愕の表情を浮かべたウェイスハルトをみたフレイジージャは、楽しそうに笑う。
「もともと使えるヤツが少ないからね。でも問題はそこじゃない。精霊魔法は精霊の力を借りる。だから、精霊の力が弱まる迷宮の中じゃ、大して威力は出ないんだ。ウェイス様の方が戦力になるだろうよ」
精霊魔法。聞きなれない単語だ。師匠がそんな物を使えたなんて、マリエラはちっとも知らなかった。
突如として形成されたシリアス空間に、マリエラとジークはシールドではじかれたように入れない。もっとも入りたくなかったが。晩餐のテーブルはレオンハルト、ウェイスハルトの対面に師匠とマリエラが座っている。料理は前回同様、気軽に楽しめるようにビッフェスタイルになっていて、ジークの席も用意されていたのだが、護衛だからと辞退している。シューゼンワルド辺境伯家としてもマリエラの意向を尊重して席を用意していた様で、ジークの辞退はすんなり通ってジークはマリエラの後ろに控えて立っている。
つまり、話についていけないマリエラは、ジークと目配せする事も出来ず、ただひたすらにデザートを貪るしかなかった訳だ。
感情を見せないウェイスハルトが驚きを露わにしている事からも、精霊魔法が使えるということは軽く流せる事ではないのだろう。けれどその事実を開示した上で戦力にはなれないとフレイジージャが言っているのだ。『協力する気はない』と暗に断っているのだろうかとレオンハルトは考える。
(ならば、なぜ精霊魔法などという切り札を見せる? いや、そもそも炎災の賢者と呼ばれた御仁だ。思惑を図ることこそ無礼やもしれん。)
レオンハルトらの前に座るフレイジージャという女性が、Sランクに相当する能力を持つものならば、そもそもたった一度歓待したくらいで助力が得られるはずもない。Sランクというのは一人で大隊規模とも師団規模とも言われる戦力なのだ。推定戦力に大きな開きが見られるのはSランカーの多くが世に出ることなく隠遁を選んで、その実力が噂の域を越えないからだ。そんな人物が錬金術師の師として現れた。レオンハルトはその事実に符合にも似た運命を感じずにはいられなかった。
(今は何らかの形で繋がりを得られるだけでも十分な成果といえよう)
そう考えたレオンハルトは、黙々とデザートを口に運ぶマリエラを見た後、フレイジージャに尋ねる。
「戦力にならぬと言われるが、御身はマリエラの師匠であると聞く。ならば、錬金術師としてご助力いただけぬものか」
レオンハルトにチラ見されて、デザートを食べ過ぎたかと焦ったマリエラは、口の中に広がるクリームの甘さを飲み込もうと紅茶を口に含む。
「あー、それなんだけどね。あたし、中級ポーションまでしか作れないから」
「ぶっは! 師匠!?」
衝撃の事実にマリエラは見事に紅茶を噴きだした。
レオンハルト、ウェイスハルトも石化の呪いにかかった様にピシリと固まって動かない。給仕がわたわたと布巾を持ち出して、ジークがマリエラの口元を、給仕がテーブルを拭っている。
そんな事も構わずにマリエラは続ける。シリアス空間は師匠の衝撃の告白で脆くも崩れ去ったらしい。偉い人と会話中に口を挟んではいけないだとか、そんなマリエラの常識さえも崩壊させる破壊力だ。
「えぇ!? ほんとに? 中級って師匠、なんで? 師匠なのに!?」
そりゃ驚くだろう。確かに師匠は今まで重要な事からどうでもいいことまで何でもかんでも教えてくれたけれど、中級までしか作れないなんて初耳だ。確かに説明は口頭で、目の前で実演してくれた事はなかったけれど、まさかそんなことが。
「あれー? 言ってなかったっけ? ま、作れなくても教えれるんだから問題ないだろ?」
「そっ、そういう問題じゃ無いでしょう? あ、まさか私が地脈と契約した時?」
マリエラが地脈と契約したとき、師匠のスキルをだいぶ使わせてしまった事を思い出したマリエラは自分のせいかと慌てる。
「いんや~。もとから。だってさ~、錬金術ってちまちまちまちまポーション作んないといけないじゃん。メンドーだから。性に合わないんだよね。だからあんま上げてない」
「はあぁぁぁぁぁ!??」
信じられない。まさかそんな理由とは。いや、この上なく師匠らしくはあるのだが。
開いた口が塞がらないマリエラと、同じく石化が解けないシューゼンワルド兄弟。二人の口もちょっぴり開いたままになっていて、整った顔立ちが台無しだ。特にウェイスハルトは普段のポーカーフェイスは何処へやら、見た事のない間抜けな表情をしている。大惨事だ。
間抜け面をさらす三人を面白そうに眺めた師匠は、グラスの酒を飲み干すと、
「あたしも辺境伯に話があるんだ」
とにんまり笑ってそう言った。
ざっくりあらすじ:シリアスさんも、茶も噴く勢い




