二人の夜
黒鉄輸送隊が立ち去った『木漏れ日』は、薄暗くとても静かだった。いつの間にか夜の帳が下りていて、天窓からは薄く月明かりが差し込んでいた。どうやら雨は止んだらしい。
二階の扉が開く音が聞こえて、ジークは急いで階段を昇る。
「起きたのか、マリエラ……」
『幻睡香』は薬液を通して水煙管で吸えば良い夢が見られるが、そのまま香のように焚けば短時間の深い眠りを与える。香の効果が切れたのだろう。起き出したマリエラが廊下に立っていて、ジークをぼんやりと眺めていた。
「ジーク、リンクスは……?」
「ディック隊長達が連れて帰ったよ」
「そう……」
幽鬼のように佇むマリエラは、暫らくジークのほうを見つめた後、屋上に続く扉へとゆっくり歩いていった。
「雨、止んだんだね」
ふらりと屋上へ向かうマリエラの後を、ジークは毛布を抱えて追いかける。
ビヨォ、と春の風が吹きぬける。
上空ではもっと強い風が吹いているのか、あれほどの雨を降らせた雨雲は、散り散りに吹き飛ばされている。先ほど『木漏れ日』の店内に降り注いでいた月光は、月が雲間に隠れたせいでほとんど見えない。
ひどく暗い夜の屋上に、ジークはマリエラが夜に連れ去られてしまうような、そんな気持ちになってマリエラの傍に歩み寄った。
「マリエラ、まだ夜は冷えるから」
そう言って、手に持った毛布をマリエラを包み込むように掛ける。ジークを見上げるマリエラの顔は暗くてはっきりとは見えないけれど、痛々しい表情をしている事がわかって、ジークの胸を締め付ける。
「ジーク、私……」
マリエラが口を開く。こういう時は話を聞いてやるのがいい。全部吐き出させたほうがいい。そんな事はわかっているのに、マリエラが言おうとする言葉をふさいでしまいたいとジークは思う。マリエラが、ひどく自分自身を傷つける言葉を言おうとしているのがわかったからだ。
「わたしのせいだね」
「そんな事、あるわけが無い」
リンクスの死がマリエラのせいでなど、あるわけが無い。マリエラだって殺されかけたではないか。
「わたしが、自分の身も守れないのに薬草採取に行きたいなんて言ったから」
「違う。Bランクが二人もいたんだ。23階層なら過剰な戦力だ。前回だって難なく帰ってこられた。こんな異常な湧きが起こるなんて、誰にも予想つくはずが無い」
マリエラの自責を遮るように、ジークは言葉を尽くす。
「わたしのせいだよ。ポーションだって渡してなかった。私が持ってても直ぐに使うことも出来ないのに」
「必要ないと判断したのは俺たちだ。俺たちの判断ミスで、マリエラは何も悪くない」
客観的にみてもマリエラは悪くないのだ。ジークたちは護衛で、マリエラは依頼主。非があるのはマリエラを危険にさらしたジークたちで、マリエラはむしろ被害者だ。
けれど、マリエラはうつむいて、ふるふると頭を振る。
「ちがう、ちがうよ、ジーク。わたし、わたし……」
マリエラは顔を上げてジークを見つめる。その双眸にこぼれそうなほど涙を湛えながら。
「わたしが、街で静かに暮らしたいなんて、望んだから――」
溢れた涙をぽろぽろと零しながら、マリエラは続ける。リンクスを失った強い喪失感は、全てを失った200年前の魔の森の氾濫の日の事を思い出させていた。
「魔の森が氾れた時、わたし、一人で逃げた。魔物から誰かを助けるなんて出来ないし、誰も助けてくれなかったから。ううん、違う。みんな、逃がしてくれたんだ。防衛都市に残ってても助からないってわかってたから。わたし、一人で逃げて、わたし一人助かったんだよ……」
あの時も、季節は春だった。
魔の森でたった一人過ごす冬は、心まで凍てつきそうなほど寒くて寒くて、ようやく春がやってきたと思ったのに、魔の森の氾濫が全てを奪ってしまった。
仮死の眠りという凍てついた時間の果てに目覚めてみれば、200年もの時が経っていて、何も残ってはいなかった。きっと、たくさん、たくさん死んでしまった。
わずかばかりいた知り合いも、防衛都市に確かにあった自分の居場所も、師匠が残してくれた魔の森の小屋さえも、全部時の流れに押し流されてしまった。
やっと冬が終わったと思っていたのに、季節は秋で、また冬がやってくる――。
けれどマリエラは一人にはならなかった。
リンクスが一人にしないでいてくれた。
偶然魔の森で出会ってから、ずっと隣にいてくれた。迷宮都市についてからも『ヤグーの跳ね橋亭』を、街を案内してくれた。自分の知り合いを何人も紹介してくれて、くだらない話をしてはたくさんマリエラを笑わせてくれた。
街の人たちもみんな、みんな優しかった。よそ者のマリエラを迎え入れてくれた。『木漏れ日』に毎日のように通ってきてくれる常連さんだっている。薬を買いに来てくれるのは嬉しいけれど「顔を見に来た」と言ってくれるのはもっと嬉しかった。
初めは意地悪だった薬師達だって、今ではマリエラを仲間扱いしてくれる。「世話になったから」と貴重な情報を教えてくれる。マリエラのほうがずっとお世話になっているくらいだ。
友達だって出来た。キャル様にエルメラさんやアンバーさん、シェリーちゃんにエミリーちゃん。お姉さんみたいな人から妹みたいな子達まで、みんなみんな大好きだ。女の子同士のおしゃべりや、一緒に作る食事があんなに楽しいものだなんて、マリエラは知らなかった。
そしてジーク。
ずっと傍にいてくれる。ずっと気に掛けてくれている。
一緒にいるのが当たり前すぎて、アーリマン温泉に行ってしまった時は、ジークがいる事に慣れきっていた自分に驚いたくらいだ。
「毎日が楽しくて、嬉しくて。
だから考えたりしなかった。わかっていて、目を逸らしてた。何とかなるんじゃないかって、そんな風に考えてた。『木漏れ日』の工事を手伝ってくれた怪我をした冒険者達みたいに、ポーションが無くて困っている人がいるのをわかってて、名乗り出なかった……」
アグウィナス家の地下に並んだ棺に、200年前魔の森の氾濫を生き残った錬金術師たちが何をしたのか、気付いていたのに。
命を賭して、ポーションを作り続けて来た事を知ってしまったのに。それでも『木漏れ日』での生活を手放せなかった。
「迷宮討伐軍にポーションを卸しても、民間には出回っていないんだよ。迷宮都市にはポーションを必要とする人がたくさんいるのに。毎日上級ポーションを100本作っても、魔力はまだ残っているのに!
『木漏れ日』で過ごす時間の全てをポーション作りに費やすべきだったのに!」
自分だけ、魔の森の氾濫をのうのうと生き延びて、迷宮都市でもまた自分だけ楽しく暮らしてしまった。
「あの人、あの時、私に言ったんだよ。『オマエノセイダ』って。きっとわたしが錬金術師だって気付いてた。わたしが自分の事ばっかりで、助けられる人も助けてないって、知ってたんだ」
だから、きっとこれは罰なんだと思う。自分が受けるべき罰をリンクスに肩代わりさせてしまったんだと、マリエラはそう思う。
「だから、これは……。リンクスが、死んでしまったのは……。きっと、わたしのせいなんだよ」
悲鳴のような独白に、ジークは思わずマリエラを抱きしめる。
「違う。違う。違う! マリエラのせいじゃない。マリエラは悪くない。
マリエラは俺を助けてくれたじゃないか! あの冒険者達だって、怪我が治って迷宮に戻れてる。マリエラの薬で助かった人だってたくさんいるんだ!
あんなヤツの言うことなんて真に受けないでくれ。自分の弱さを、不幸の原因を誰かに押し付けたいだけの、そんな人間の言うことなんて聞く必要は無いんだ。
マリエラ。俺たちは、リンクスは、マリエラが錬金術師だから助けたわけじゃない。
リンクスは、マリエラだから助けたんだよ。
俺だって、ポーションなんて無くたって、怪我が治っていなくたって、生きてさえいれば変わらずマリエラに仕えてた。マリエラが治したのは体の傷だけじゃないんだ。
だから、マリエラ。そんな風に言わないでくれ。自分を責めたりしないでくれ。
リンクスの想いを無駄にしないでくれ。俺は、俺達は……」
その言葉の続きを、ジークは伝えることが出来ない。
Aランクになったらマリエラに告白すると言ったリンクスが、その想いを伝える日はもう永遠に来ないのだから。
「ジーク……」
泣き続けるマリエラを、ジークムントはただ抱きしめ続ける。
「ジーク、わたし」
意を決したように、マリエラは言葉を紡ぐ。
「わたし、迷宮を斃したい」
迷宮を斃せ、リンクスは最後にそう言った。それがリンクスの望みなら叶えたい。迷宮は200年前にエンダルジア王国を、防衛都市を、マリエラの居場所を奪った魔の森の氾濫の成れの果てで、リンクスを奪った敵なのだ。
「そのためにポーションを作るよ。わたしは闘えないから、迷宮討伐軍に名乗り出て、ポーションを作る。もう、誰もなくしたくないから」
例え二度と『木漏れ日』に戻ってこられなくても。持てる全てを費やして、それで迷宮が斃せるのなら。それは誓いにも似た強い決意だった。
それでも。それほど強く心を決めても尚、マリエラは一人にはなりたくなかった。ただ一人迫りくる死の恐怖の中、仮死の魔法陣を起動したあの時のように、たった一人で暗い墓穴のような場所に行くのはひどく恐ろしかった。
だから。
「ジーク、お願い。わたしを、わたしを一人にしないで……」
振り絞るようなマリエラの懇願は、ジークを甘く縛り付ける。
「もちろんだ、マリエラ。俺は、俺のすべては、貴女のものだ……」
マリエラの懇願は隷属の《命令》などではない。そこにはわずかばかりの魔力も篭められてはいない。
マリエラがジークにした《命令》は一つだけ。『錬金術師だと言わないで』くれというたったそれだけ。
ジークの命を魂ごと救っておいて、彼女は何も望まなかった。穏やかな日常に、家族のような愛情に満足し、ジークの自由を心から願ってくれた。
そんな彼女をどれほど渇望した事だろう。どれほど望まれたいと祈ったことだろう。
マリエラが望む情がどのようなものかは関係が無い。
例え深く傷つき、一時の癒しを求めてこの手の中に堕ちて来ただけであっても、今確かに感じているこの腕のぬくもりを離さずに済むのならば、なんだって構いはしなかった。
弱く震えて泣き続けるマリエラを、ジークムントは抱きしめる。
雲間から覗く月は、欠けていたのか満ちていたのか。
風が雲を送り、僅かな月明かりさえ失われた暗闇の中、二人の夜は静かに更けていった。
シリアスさんが過労死寸前。
二人がこのまま一線を越えたと思われる方、シリアスエンドがいい方は、次話飛ばして「登場人物紹介」へ。
シリアスお腹一杯な方は、「現れた月は」へどうぞ~。




