97.恐慌
内に死霊を抱える避難者の前に、ついにあの巫女が現れます。
これまで伝説をまともに信じてすらいなかった人々に、その姿はどう見えたでしょうか。
脅威でないものに無駄に怯えてしまうのは、ホラーではよくある話です。
朽ちて崩れたドアの向こうに立っていたのは、一人の女であった。
しかし、彼女は生きた人間ではない。骨と皮ばかりにやせ細り、皮膚は血の気を失って青白く、しかしその姿に似合わぬほどしゃんと背を伸ばして立っている。
その目には、異様な闇が宿っていた。
深い恨みと憎しみを煮詰め、さらにその向こうからぞっとするような暗い意志がのぞいている。
だが、彼女は人間が着るような神聖な衣装をまとっていた。
土ぼこりと血に汚れた、黄ばんだ着物に赤いはかま。頭には、金箔のはげ落ちた儀礼用の冠。
その手には、暗い炎をまとった宝剣を握っていた。
「野菊様……なのですか?」
恐れおののく村人たちの中から、タエが一人進み出て問う。
「そうよ。覚えていてくれたのね」
彼女は……恐るべき死霊の巫女は、あっさりと答えた。その時、彼女の暗い表情が少しだけ緩んでほころんだ気がした。
しかし、村人たちはそれどころではなかった。
「の、野菊だと……死霊の親玉でねえか!?」
「何でこんな所に来るのよ、私たちをどうする気なの!?」
野菊は村人たちにとって、伝説上の化け物と同じだった。
人知の及ばぬ化け物を従え、この世のものならぬ神通力を使い、人を容易く黄泉に引きずり込む魔女。
そんなものが目の前に現れて、冷静でいられる訳がない。
部屋の中は、一瞬で恐慌状態に陥った。
老人たちは自分たちが何をしたのかと天を呪い、若い母親たちは愛しい我が子を抱きしめて泣き叫んだ。
ただ一人、タエだけが気まずそうにそれを眺めていた。
当の野菊は、そんな村人たちを前に悲しみと落胆半々のため息をついた。
「騒がないで、私の話を聞いて」
野菊はそう言って、部屋の中に一歩踏み出す。
その途端、
「いええぇ!!」
階段を守っていた男の一人が、杖を振り上げて野菊に襲い掛かる。血走った目を見開き、獣のように口をくわっと開いて、まさに猫に追い詰められたねずみの様相だ。
だが、野菊はさっと宝剣を上げて杖を受ける。
それに触れた途端、宝剣がまとっている炎が杖に燃え移った。ゆっくりと燃え広がる炎の中で、杖は腐って折れ始める。
「杖を放しなさい……この炎があなた自身に達する前に」
野菊は、男を上目遣いに見上げてささやく。
その意味に気づいた男は、悲鳴を上げて杖を放り投げた。杖は床にぶつかった衝撃で腐ったところから真っ二つに折れた。
それを見て、また部屋中から悲鳴が上がる。
戦って抗おうにも、人の力では太刀打ちできない。これではもう、死の刃を首に突きつけられたも同じではないか。
「クソッ……鉄砲使いが残っとりゃあ……!」
老人が歯ぎしりとともに呟くが、あいにくここに銃はない。
銃があれば、さっきのように頭を撃ち抜けたかもしれないが……。
唯一の猟銃使いである田吾作は、生き残るために神社を去ってしまった。他の三人の猟師は、既に死霊に食われている。
今ここに、野菊に立ち向かえる戦力はない。
それでもどうにか皆の命を助けようと、重役の男が野菊の前で床に頭をこすりつける。
「どうか……どうか我々をお助けください!お許しください!
何か無礼があったのなら謝ります。どうしても許せぬ罪ある者がいるなら差し出します。だから、どうか罪なき者は……」
「ええ、助けるわ」
野菊の返事は、ひどくあっけないものだった。
「私は、そのためにここに来たもの」
野菊は呆れたように、重役の男を見下ろしていた。
「え……?」
一瞬、村人たちの中によく分からない空気が流れる。
物語の中の存在だと思っていた化け物が自分たちに迫って来て、てっきり殺されると思っていたのに……これは一体どういうことだ。
戸惑う村人たちに、タエが声をかける。
「落ち着いて、野菊様の言う事を聞いておくんなさい。
取って殺しやしませんて。……その証拠に、野菊様はさっきから一人だって人を傷つけておりゃあせん」
その言葉に、村人たちははっと気づいた。
言われてみれば、野菊は目の前にいるのに誰も怪我一つしていない。
野菊はとんでもない神通力を持っているのだから、その気になればすぐにでもここにいる全員を葬るくらいできるはずだ。
なのにしていないということは、その気がないということ。
さっき杖は一本折ったが、それはこちらから攻撃したせいでやむなく防御しただけ。こちらは本気で打ちかかったのに、野菊は反撃しなかった。
要は、こちらが一方的にパニックを起こして騒いだだけ。
それに気づくと、村人たちはしゅんと静かになった。
そんな村人たちに、野菊は寂しそうに呟いた。
「ずいぶん、遠い存在に思われてしまったのね……。
まあ、無理もないわ。前回が前回だったし、あれから六十年も経つものね」
その言葉に、老人たちは悲し気に目を伏せる。自分たちが辛かったのと周りの評判を気にして、野菊と死霊をただのおとぎ話扱いにしてしまったのは彼らだ。
恐ろしいから、悲惨だから詳しく伝えず、そのまま風化してしまえばいいとさえ思っていた。
何事もないまま忘れ去られて、消えてしまえばいいと。
しかし、野菊はそんな村人たちを助けに来てくれた。どんなに拒絶されても踏み込み、手を差し伸べてくれた。
この優しく気高い巫女に何ということをしてしまったのかと、村人たちは恥ずかしくて顔から火が出そうだった。




