95.二人の覚悟
身近に死霊が出た時、一番動けるのは経験がある人間です。
しかし、積極的に動くことは危険を冒すことでもあります。
前回の災厄を生き残った二人は、今の危機を前に……。
「ぐぁっ……!」
上がった悲鳴は、嗄れた男のものだった。
驚きに目を見開いたタエの胸元に、ポタポタと温かい血が落ちる。
「大丈夫か、タエ……」
覗き込んでいるのは、夫の二郎だ。
二郎は、子供を後ろから抱きかかえてタエの体から離していた。その手は子供の口に当てがわれ、真紅の血が垂れていた。
子供の小さな歯が、二郎のしわだらけの手に食い込んでいる。
「あ、ああ……そんな、二郎さん……!」
涙を浮かべるタエの目の前で、二郎は痛みに耐えながら子供を抱き上げる。子供が口をもごもご動かすたびに、二郎は眉を寄せて悲鳴を噛み殺す。
「守ると、言うたじゃろ……タエ……。
おまえが、ここで死んじゃいかん。そんな事は……くっ……このわしが許さん。一生守ると言うたのに……先に逝かれちゃ示しがつかん」
二郎はそう言いながら、じりじりと窓際に寄った。
「わしがこのまま、この子と一緒に飛び降りる。
そうすれば、ここは安全じゃ」
その言葉に、村人たちの間に一気に悲壮感が広がる。
死霊となってしまった子供と噛まれてしまった二郎がいなくなれば、もうこの二階に危険はなくなる。これ以上誰も噛まれなくていい。
ただし、率先して助けに入った二郎の犠牲によって。
もし他の誰かがこうなる前に複数で子供を取り押さえていれば必要なかった、勇気ある犠牲と引き換えに。
誰もが内心安堵しながらも、己のふがいなさを呪った。
しかし、もう取り返しはつかない。
二郎も、噛まれてしまったのだ。このままでは、二郎もそのうち死んで他の誰かを襲うようになる。
皆の安全のために、二郎ももはやここにいてはいけない人間だった。
二郎は、子供を抱き上げたままゆっくりと窓を開け放った。
外には、家を囲む黒々とした人影と赤い月。温度だけは爽やかな風に乗って、吐き気を催すような腐臭が侵入してきた。
出て行かなければならないと分かっていても、怖気づきそうになる。
こみ上げる恐怖を噛まれた手の痛みで紛らわし、二郎は外に出ようとした。
だが、その服の裾を掴む者があった。
「待って……そこまでする必要ないでしょ?」
それは、死霊となってしまった子供の母親だった。
母親は泣きだしそうな顔で、二郎に深々と頭を下げて言う。
「うちの子が乱暴してしまって、本当に申し訳ありません!今度こそちゃんと押さえてますから、どうか返してください。
二郎さんも落ち着いて……そんな傷で死ぬ訳ないじゃないですか。
夜が明けたら、一緒に病院に行きましょう」
その言葉に、二郎も思わず泣きだしそうになった。
母親は、必死で子供を助けようとしている。子供が明らかに人に噛みついていても、それでも希望を捨てきれずにいる。
母親は、精一杯の笑顔を作って二郎に語り掛ける。
「ね、大丈夫ですよ、きっと……。
二郎さんだって、一生タエさんを守るって誓ったんでしょ?だったら置き去りになんてしないで、側にいてあげなきゃ」
その言葉に、二郎の心はひどく揺さぶられる。
二郎だって、タエを置いて逝きたい訳がない。これからもタエの側にいて可愛がって、変わらぬ日常を過ごしたい。
望んではいけないと、分かっているのに……。
これは狡猾な言い方だ。
しかし、それ以上誘惑が続くことはなかった。
「ふざけないで、あたしら全員殺す気か!!」
目を血走らせた他の母親が、その母親の髪を掴んで後ろに引き倒したのだ。まだ無事な自分の子の命がかかっているのだから、こちらも必死だ。
自分を殺しにくる死霊を、そして死霊になる者を守られてたまるか。
恐怖に駆られた人々の足が、拳が、哀れな母親めがけて振り下ろされた。
「やめんか!!」「やめて!!」
二郎とタエの叫び声が重なる。
その声に、暴力を振るおうとしていた者たちは何とか我に返った。今この母親を痛めつけても、いい事は何もない。
それでもどうしていいか分からない皆の前で、二郎が静かにその母親に声をかける。
「なあ、わしもこの子ももう助からん。それどころか、放っとくと他の大事な子に食いついて命を奪ってしまうんじゃ。
わしもこの子も、そんな事はしたくない。
わから、わしとこの子を罪から守ると思うて、行かせてもらえんじゃろうか?」
その言い方にはっと息を飲んだ母親に、今度はタエが後ろから寄り添ってささやく。
「……あたしは、置いていかれたって二郎さんを恨みゃせん。あたしよりもっと未来のある大勢を守った、立派な夫です。
あんたも、その未来ある一人だから。
あんた、まだ上の子が二人おるでしょう。その子たち置いて、一緒に黄泉なんかに行っちゃいかん」
母親の肩が震え、目からぽろぽろと涙がこぼれた。
二郎もタエも、別れを恨まず他を守る覚悟ができている。二郎を傷つける原因を作った自分のことも、許して守ると言っている。
それなのに、自分は何ということを……。
母親は観念して泣き崩れ、座り込んだ。
それを見て、二郎とタエは涙をこらえて視線を交わす。
「……急な別れになってすまんのう。わしの分まで長生きせいよ」
「ええ。あんたこそ、未練がましく戻ってこんでくださいね」
お互い、言いたいことは山ほどある。交わしたい言葉がどんどん浮かび上がって胸が詰まって、全部言うには時間が全然足りない。
だが、あまり時間をかけてはいられない。二郎の腕の中の子供が、いつその手を振りほどいて他に襲い掛かるかもしれないから。
名残惜しいが、もう行かなければ。
二郎はタエから視線を外し、窓枠に手をかけた。




