92.善か悪か
野菊に怒りが向くのには、そうさせるだけの根拠がありました。
そして、それを否定したい老人たちの記憶にも……前回、何が起こりましたか?
その時の経験者である老夫婦は、それぞれに忘れられない思いを抱いていました。
「なっ……!」
老人たちは、絶句した。
今、若い母親たちは何と言ったのか。
今の自分たちの状況について、一番悪いのは野菊だと言ったのだ。かつて村を救おうとした野菊を、諸悪の根源と断じたのだ。
老人……特に農家の者たちは、眉をひそめて言い返す。
「おい言葉を慎め、野菊様はこの村を思って自分の命すら捨てただぞ!
それを今自分が辛いからって……」
「そうだ、野菊様が白菊姫一味を殺して後の禍根を断たなんだら、わしらの祖先は何度水を断たれたか分からん。
そうしたら、今の村人の大半はこの世に生まれとらんわ!
おまえらが今抱いとる、その子たちもな!」
老人たちは伝統と共に、野菊への畏怖と感謝も受け継いできた。
あの最初の災厄で野菊が禁断の力を使っても白菊姫を止めなければ、白菊姫は何度も同じ無道を繰り返し、どれだけの村人が死んだか分からない。
今の自分たち、そして自分たちを生み出した先祖があるのは野菊のおかげ……代々そう言い伝えられてきたのだ。
しかし、目の前の我が子と自分の危機に怯える母親たちにとって、そんな事はどうでもいい。
「はあ?そのおかげで今私たちが割を食ってんでしょうが」
「ずっと残った呪いのせいで、どれだけの人が死んだのかしらね。
たった数十年の繰り返される無道を消す代わりに、数百年もの間災厄が繰り返されてるのよ。本末転倒もいいとこ!
それに、江戸時代にその手の権力による悲劇なんてありふれた話じゃない。
ありふれた苦難を取り除くために、有り得ない呪い残してんじゃないわよ!!」
そのありふれた苦難がどれだけ辛く理不尽なものであったか、食糧難を知らない若い母親たちは伝わらないのだ。
とどめを刺すように、一人が窓の外を指差して言う。
「それに、今あの化け物の群れは村の敵でしかないじゃない!
罪とやらがあろうがなかろうが、誰構わず食い殺してた。あんなのを生み出した奴が、悪じゃなくて何だって言うの!!」
その一言に、老人たちは押し黙った。
間違いない、これは事実だ。
野菊は大量の死霊を連れてここに来た。そしてなだれ込んで来た死霊は、何の罪もない無関係の村人を次々手にかけた。
その中には、ここにいる老人たちの大切な人も含まれている。
なぜその者たちが食い殺されねばならなかったのか……その無念の問いは、老人たちの胸の中にも根を張っていた。
「いや、しかし……言い伝えでは、野菊は罪ある者だけを狙うはず。
こんなに犠牲が出た災厄はこれまでに……」
「……そうとも限らんぞ。
前回を、思い出してみい」
それでも野菊をかばおうとする一人に、別の一人が剣呑な目をして声をかける。
「前回……ああ、思い出したくもねえ。あの忌々しい喜久代の時だ。
あの時も、村にかなりの被害が出たじゃろ。喜久代の親父が兵隊を使って、神社に逃げ込めんように封鎖したおかげでな。
……にしても、野菊と死霊が罪人のみを狙うならそれ以外に被害が出ることがおかしい。
二郎さん、あんたも家族をやられたろ?」
そう言われた老人……畑山二郎は、青ざめながらうなずいた。
あの夜、二郎の父と兄、妹が死んだ。
ずっと一緒にいた家族だから、自信を持って言える……誰もあの傲慢な軍人の味方になどなっていなかった。
それなのに、夜が明けた時、誰も生きて戻らなかった。
二郎は、あの時のショックを今でも忘れない。しばらく放心状態で何も手につかず、半世紀以上経った今でもたまにその時の悪夢を見る。
周りは、同じように大切な人を失った悲しみにあふれていた。
そして今また、同じように無差別に降りかかる惨劇が……。
「やはり、野菊……か」
突きつけられた二度目の事実に、老人たちの無念も矛先を野菊に変えていった。
だが、そこになお一石を投じる声があった。
「待って、野菊様は……そんな方じゃない!!」
それは、畑山二郎の妻にして一生守ると誓った女性、畑山タエだった。彼女も、前回の災厄を経験している。
その時、彼女は野菊と遭遇していた。
日が昇る前の、薄暗い道。
ぞろぞろと列をなして白菊塚から冥府に帰っていく死霊たち。……その中には、見知った顔もいくらか混じっていた。
それを監督するように、佇む野菊。
その背中に向かって、思いのたけを叩きつけるように叫んだ。
「どうして、こんな事をなさったのですか!?」
振り返る野菊。骨と皮ばかりにやせ細った、死者の顔。
二人の間を、腐臭混じりの風が音もなく吹き抜ける。自分も死霊に襲わせる気かと、タエは身構えた。
次の瞬間、野菊が口を開いた。
「ごめんなさい……こんなはずじゃなかったの」
野菊は、深々と頭を下げていた。
「え……?」
考えもしなかった反応に、タエはあっけにとられた。
気が付けば、野菊はもうそこにいなかった。死霊たちも、いなかった。そして白く輝く稜線から注がれる、太陽の光。
野菊と死霊たちは、黄泉に帰ったのだ。
タエは、その時の野菊の声と表情を忘れられなかった。
悲しみと後悔に押しつぶされそうな……すすり泣くような声。顔は一瞬しか見えなかったが泣きそうで、肩はわずかに震えていた。
それが演技であるようには、とうてい思えなかった。
理由は語られなかったが、その言葉に嘘はない……タエは、そう思わずにいられなかった。今もずっと、そう思い続け、信じ続けていた。




