89.希望の先は
絶望の中でも、罪人たちは明日以降のことを考えていました。その希望に満ちた計画が、他人にさらなる絶望を押し付けることなどお構いなしに。
また、叶うと思っていた希望の幻が消えかける者もいます。
これで白川鉄鋼は一区切り、次回から舞台が変わります。
その後も白川鉄鋼には、続々と避難者が現れた。そのたびに白川鉄鋼は門を開いて受け入れ、ついでに集まってきた死霊を掃討する。
受け入れられた避難者は社員たちの手で噛み傷がないかチェックされ、無傷であればそのまま社員たちと合流する。
もし疑わしい傷があれば、拘束され隔離される。
この措置に反対の者は、受け入れない。
といっても、事務長と石田が事情を説明すると、ほとんどの者は納得して従った。せっかく辿り着いた安全地帯を失いたくないからだ。
傷が腐ってきたり噛まれたと申告したりした者は、もちろん殺される。
これも反発は意外なほど少なかった。神社から逃げてきた者たちは、死霊に襲われる恐怖を骨の髄まで刻み込まれていたからだ。
ついでに、竜也の指示に従うという念書を書かされた。
避難者たちは、安心して気が抜けたせいもあり、素直にサインしていく。
その念書には、死霊への対応において必ず竜也の指示に従うこと、それを守らない者は保護しない旨が記されている。
独裁に従えという内容だが、命が惜しければサインする他ない。
避難者たちにとって、今のこの村にここより安全な場所などないのだから。
それに、ここに逃げてきたのは元々白川鉄鋼の関係者がほとんどだ。竜也の命令に従う事は日常であり、違和感も反発もない。
そうでない村人も少し混じっていたが、彼らの心も今は白川鉄鋼に傾いていた。
「何が神社は安全だよ、嘘ばっかりじゃねえか!」
「条例まで定めて大丈夫って宣伝しといて、あんな目に遭わせやがって……。
伝統守って人の命を守らんような奴らなんざ、もう信用できるか!」
伝統的に安全だと言われていた場所で手酷く裏切られたことで、彼らはもう何を信じていいか分からなくなっていた。
そうなると、必然的に目先の安全に飛びつくしかなくなる。
よもやこの白川鉄鋼の主が自分たちを裏切った張本人と手を組んでいるなどとは、夢にも思っていなかった。
「上々の結果ね」
社長室に次々と運ばれてくる念書の束を目にして、清美はうっとりと呟く。
「この念書さえ書かせてしまえば、もうこっちのものだわ。こいつらはずっと、あなたに逆らえやしない……夜が明けてからもね。
こうすれば、この会社も安泰でしょう?」
清美に言われて、竜也は参ったというように肩をすくめた。
「やれやれ、ずいぶんうまい手を考えてくれたものだ。
さすがの私も、保身にかけては君に敵う気がしない」
竜也は少し皮肉を込めたが、清美が気を悪くした様子はない。だって清美は、こういう能力も自分の命をつなぐ大事な才能だと思っているから。
「ふふふ、まあね……伊達に頑固者だらけのこの地で立ち回ってきた訳じゃないのよ。
でも、それもきっと今夜で終わる。
うまくいけば、これからこの村は私とあなたのものになるんだから」
清美は、そう言って妖艶に笑った。
竜也と清美は、この夜を生き残った後のことも考えて作戦を立てていた。
この災厄さえ生き残ればいいというものではない。その後に大切なものを失って生きていけなくなったら意味がない。
竜也は、この夜が終わった後にひな菊への調査を跳ね除けられる、もしくは禁忌破りが発覚しても追い出されない権力が欲しかった。
もしこの土地と工場をタダで失うことになれば、自分はそれだけで大損し一文無しだ。
そのうえ災厄の犠牲者の賠償を請求されたら、まともに生きていくこともできない。
清美は、職務怠慢で神社を追い出されるのがとてつもなく嫌だった。
神社の広大な敷地と最低限の務めで金や物が集まってくる立場を失うことは、その甘い汁に浸かりきった清美には耐えられない。
それにもし村から出て職を探しても、ここまでの災厄を起こしてしまった清美を雇う神社はおそらくないだろう。しかし、清美はそれ以外の仕事を知らないのだ。
何としても、この神社にしがみつくしかない。
そんな二人は、力を合わせて自分たちを守る恐るべき未来図を描いていた。
「簡単な話よ……他人のルールを押し付けられたくないなら、私たちがルールになればいい。
私とあなたで、この村を制圧してしまえばいいのよ!」
清美は、強い力のこもった目で竜也を見据え、言い放った。
「あなたは村を経済的に支える工場主として、私たちの平坂神社を存続させる。私たちは神職として、村の守り手としてあなたの会社を支える。
それなしで、村が回らなくしてしまえばいい!」
そこからさらに、清美は具体案を語った。
白川鉄鋼は村の雇用と財政を盾に、自分たち平坂家を保護し、しっかり監視するとの建前の下宮司を続けさせる。
平坂神社はその見返りとして、死霊の声を聞く能力と災厄から守ることにより白川鉄鋼を支え村での便宜を図る。
そして、両方からの力で伝統派の農家たちを屈服させる。
こうすれば、自分たちは誰にも害されることなく村に君臨していられる。
その案に、竜也も渡りに船とばかりに飛びついた。
「良い考えだ。そうすれば、ひな菊にも楽をさせてやれる」
竜也が何を一番優先するのかと言えば、他でもない一人娘のひな菊だ。
清美の案に乗れば、ひな菊に十分な資産を与えてやれるし、ひな菊を文字通りこの村の女王にしてやれる。
そうなれば、もうひな菊が村八分になることもないだろう。
その計画を現実のものとするため、竜也は既に村人たちを絡めとり始めていた。
避難してきた村人たちを保護する時に書かせた念書には、期限が定められていない。つまり書面上、災厄が終わった後も有効なのだ。
災厄が終わった後も死霊関係の対応は竜也に従う事を約束させられ、逆らったら保護されない……次の災厄で平坂神社に入れてもらえない。
従わなければ、いつ死霊に食い殺されるか分からないということだ。
その念書を、多くの村人にサインさせた。
さらに清美は、平坂神社の方を見つめて呟く。
「あとは、伝統派の人間が巻き添えでどれだけ減ってくれるかね。
神社に死霊が押し寄せてきた時、最前線にいたのは安全地帯を信じ切ってる伝統派が多かった。だから、既に数十人くらいの被害は出てるはず。
後はそこから広がって……白川鉄鋼の関係者より数が少なくなればベストね」
そう言ってむしろ死霊に期待する清美は、もうどう見ても村の守り手ではなかった。
災厄の後の事は、他の者もそれぞれに考えていた。
ホールでは、死霊を次々倒している男と死霊から仲間を守った女が並んで拍手喝さいを浴びていた。
そこに、陽介が満面の笑みで飛び込んでいく。
「すげえや!さすが父ちゃん、母ちゃん!」
並んで皆に讃えられていたのは、陽介の父と母だった。夫婦そろって肉体派のこの二人は、この非常時に比類なき戦力となったのである。
「猛さん半端ねえって!あの恐ろしい死霊を一撃で沈めるぜ!」
「楓さんの身のこなしもすげえぞ!流れるように死霊の動きを封じるんだ!」
避難者の受け入れと同時に行われた死霊掃討で、二人は大戦果を挙げている。
妻の楓が寄って来る死霊を素早く転ばせて動きを止め、夫の猛がそこにハンマーや枝切狭を振り下ろしてとどめを刺す。
このコンビネーションで、既に十数体の死霊を停止させていた。
当然、とどめを刺した猛には工場内の分も含めて二百万円を超えるボーナスが約束されている。
これだけの金があれば、もう日々の暮らしを切り詰めることもなくなるだろう。そうなれば我慢することが減って、家族全員が笑顔になるはずだ。
これで父と母は仲良くなって幸せな未来が待っていると、陽介は信じていた。
だが、父の猛は陽介にこうささやいた。
「どうだ、これだけの金があれば好きな暮らしができるぞ!
毎日好きなもの食って飲んで、何ならもっと若くてかわいい女だって……。
そうだ、この金をあのケチ女に分け与えることなんてねえ!あいつと別れて、新しいもっといい女と一緒に暮らそう!
おまえも、その方がいいだろ?」
陽介は、答えられなかった。
これまでずっと、お金があれば何もかも楽になって両親が仲良くなると思って、その一心で禁忌破りまでして父を出世させようとしたのに……。
金が入った結果がこれでは、何と言っていいか分からない。
それでも陽介は、ここまでやったんだから報われないものかと思っていた。実際に金を手にして楽になれば考え直すはずだと信じた。
母の楓ももう父の顔をまともに見ようとしないことからも、必死で目を逸らしていた。




