77.唯一の希望
電話が通じなくて慌てる白川鉄鋼ですが、通信手段は他にもあります。
救急隊の一人が救急車に取りに行った、たった一筋の希望が。
それは、吉と出るのか、凶と出るのか……。
ホールの皆のすがるような視線の中、竜也は開口一番、指示を飛ばす。
「誰か、すぐ110番と警備会社に連絡しろ!」
「そ、それが、電話が一切通じないんです!」
竜也の指示は、今ここで遂行できないものだった。
社員たちの言葉に、竜也はぎょっと目を見開く。ホールにいた中で地位の高い者が、何とかしてくれとばかりに状況を説明する。
「何だと、それでは救援が……」
竜也は額に汗を浮かべて、後ろについてきた者たちに目をやる。
社員たちもそちらに目をやり、ある姿を見つけて破顔した。
「おい、救急隊がいるじゃないか!!
早くこいつらを助けて……」
だが、その期待は一瞬でしぼんだ。竜也の後ろには確かに白衣の救命士が三人いたが、皆怪我をして苦悶の表情を浮かべている。
白衣は、今さっきついたばかりの血痕にまみれていた。
救命士の二人は手を布で押さえ、冷や汗を流しながら歯を食いしばっている。もう一人は顔の半分を真っ赤に染まった布で社員に押さえてもらい、もう息も絶え絶えだ。
これでは、他人の救助など行える状態ではない。
「え、い、一体何があったんですか……?」
予想だにしなかった状況に、ホールの社員たちは唖然とする。
途中まで見聞きしていたひな菊も、これには驚くばかりだった。
傷ついた女が二人怪我をさせたところまでは知っているが、それからさらにひどい事が起こったというのか。
しかも、ここにいる救命士は三人だ。ひな菊が部屋を出る時に竜也が救急車に待機している者も呼ばせたため、全員来たならもっといないとおかしい。
社員は全員逃げてきているのに、救急隊が欠けているなんて……。
その事情を知らなくても、この状況は社員たちをひどく動揺させた。
「社長、これは一体……?」
不安で一杯の社員たちが、竜也に説明を求めた。
ホールが、竜也の説明を待って静まり返る。
だが、竜也はなかなか口を開かなかった。当然だ、あの部屋であった事をはいこうですよと素直に説明できる訳がない。
ひな菊にも分かる。この件は、爆弾だ。
まず第一に、ただでさえ訳が分からない事が起こってみんな不安がっているのに、あそこであった惨劇はさらに不安と恐怖を煽るものでしかない。
皆、竜也にすがれば何とかなると思っているからこそ、まだ大人しくしているのだ。それが竜也にもどうにもできないと知ったら、どうなるか。
さらに、救急隊を呼んだ理由もまずい。
おかしくなって帰ってきた傷ついた女は、元々ひな菊が禁忌破りの証拠隠滅のために外に出したのだ。
ここには、その当事者のひな菊と陽介がいる。
何かの拍子に口を滑らせたら、一巻の終わりだ。
竜也は、自分たちと会社の未来をかけたギリギリの綱渡りを強いられようとしていた。
だが、その緊迫した空気を破るようにバタバタと大きな足音が響いた。見れば、ひとりの救命士が重そうな機材を持って駆けてくる。
どこにも血染めの布を当てていない、元気な救命士だ。
社員たちの目に、再び希望の光が灯った。
「お待たせしました、これが無線機です!
本部に状況を説明して救援を呼びますので、ご協力願います!」
そう言ってどかりと床に置かれた無線機に皆の注目が集まる。これが外と連絡を取れる、唯一の希望なのだ。
竜也も、ホッと一息ついて額の汗を拭った。
「そうか、ならまずはこちらの対応だ。
皆も聞いていてくれて構わないし、他に説明することがあれば言ってくれ」
これなら、救援を求めるのに必要ない情報まで説明することはない。相手があるから周りも無駄に口を挟みにくいし、救援の方に興味を引かれてくれるだろう。
期待のこもる竜也と社員たちの前で、年配の救命士がチャンネルを回した。
しばらく、年配の救命士が周波数を合わせて呼びかけていた。
すると、応答があった。
「こちら本部、状況を説明せよ」
その途端、ホールの空気がどっと沸いた。つなげたくてもつなげなかった外部と、ようやく通信がつながったのだ。
年配の救命士が、はきはきと状況説明を始めた。
「こちら原台地区救急隊の石田、応援を要請します。
救急要請により駆けつけましたが、錯乱した要救護者により救急隊に負傷多数……」
石田は、ありのままに起こった事実を分かりやすく説明していく。
ひどい傷を負った女を助けようとしたところ、錯乱していて噛みつかれた。それにより、まず救急隊の二人が負傷しうち一人は重傷。
その重症の一人が思わぬ負傷と失血による混乱で仲間に暴力を振るい、また一人が負傷。これも一刻も早い処置が必要。
さらにそれに気を取られた一人がまた例の女に噛みつかれ負傷。
「負傷者の数があまりに多く、無事な私だけでは対処できません。
よって、複数台の救急車を出動願いたく……」
他人に噛みついた二人の行動が似ているとか、二人とも脈がないのに動き出したとか、そういう事は伏せている。
話せば、信憑性が薄れてこちらの正気を疑われるだろうからだ。
しかし、それだけでも周りで聞いている社員たちには衝撃だった。助けに来た救急隊がそんな事になっていたなんて、予想はるか上を行く悪い事態だ。
それでも、これで救援が来てくれればと気を持ち直す。
「そうだ、他に別件で怪我人がいるんです。
その怪我をさせた奴はまだ外をうろついているので、警察の方にも連絡を……!」
社員の一部が、他の怪我人の事も懸命に説明する。とにかくこの惨状を説明して、十分な救援をよこしてもらうのが何より大事だ。
無線の向こうから息を飲む音が聞こえ、少し間を置いて返答があった。
「状況は分かった。落ち着いて聞いてくれ、救援は……」
「残念だが、送ることができない」
ホールの全員が、凍り付いた。




