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死霊一揆譚~白菊姫物語  作者: 青蓮
72/320

72.亡者の牙

 さあ、白川鉄鋼の地獄の始まりです。

 レッツ血の池地獄!

 助けに来た奴からやられるのは定番です。

「お願いします!この傷では、我々にはどうにも……」

 事務長がすがるように言って、救急隊を傷ついた女のところへ案内する。さっきまでの部下への高圧的な態度から見ると、見事な変わり身だ。

 救急隊も、女の傷を見るとさすがに目を丸くする。凄惨な重傷患者をよく見ている救急隊でも、ここまでのはこたえるのか。

 その時、女が唸って救急隊の方を向いた。

「まだ意識があるのか!?

 大丈夫ですか、話せますか!?」

 救急隊はすぐさま傷ついた女に駆け寄り、体に触れて状態を調べ始める。

 それから、女を押さえつけている社員たちに言った。

「そのように強く押さえられては血流の状態が分かりませんので、一度手を離してください。後は我々に任せて」

「し、しかし放したら暴れて……」

「今、鎮静剤を打ちました。数秒で効いてくるはずです」

 救急隊の一人が、女の腕から注射器を引き抜く。

 社員たちは、不安そうに顔を見合わせた。この女が錯乱して何をしたかは、自分たちが身をもって知っている。

 本当に放してもいいのか、伺うような視線を竜也に向ける。

「救急隊に従いなさい」

 竜也はあくまで、世の中の常識に従って指示した。

 それを聞いて、社員たちはごくりと唾を飲み、一斉に傷ついた女から手を離す。そして、逃げるように慌てて距離を取る。

 女の手が、自分の腹を覗き込んでいる救命士の肩に触れる。

 だが救命士は気にすることなく、胸と腹に手を当てて懸命に調べている。

「大変だ、有効な呼吸も脈もないぞ!」

 救命士が叫び、慌てて女の体を床に寝かせる。

「早く、AEDを!!」

 女を囲んでいた三人のうちの一人が、近くに置いた機器を取りに離れた。

「心臓マッサージ開始!人工呼吸頼む!」

 救命士の一人が女の胸に手を当て、てきぱきと救命処置を始める。さらにもう一人が、人工呼吸のために女の口に顔を近づける。

 破れた頬から空気が漏れないように、女の口に補助具を当てる。

 だが、それを当の女が払いのけた。

「え、あれ?何で動けて……」

 救命士二人は、思わず目をしばたいて動きを止める。

 女のバイタルサインは、手順に従ってしっかり確認したはずだ。有効な呼吸も脈もなし。この手で確かめた。

 そんな状態の人間が、動けるはずがない。

 仮にそれが一時的なもので血流が再開したとしても、それはそれで鎮静剤が速やかに回るはずなので動けなくなるのに。

 予想外の事態に固まってしまった二人の下で、女はわずかに身を起こす。

 そして、女の顔が救命士の首に近づき……


「ぐわっ!?」

「あ?」


 いきなり、人工呼吸をしようとしていた救命士の動きが止まった。それからぶるぶると震え出し、悲鳴が絞り出される。

「ぐげっ……ごげえええ!!!」

 濁った嗚咽を放ちながら、必死で身を捩る。

 周りで見ていた者たちは、その光景に言葉を失った。


 傷ついた女が、救命士の首に食らいついているのだ。

 さっき確かに呼吸も脈もなしと診断された女が、救命士の肩を抱くようにしがみついて首に歯を立てている。

 救命士が必死で身を捩って振り払おうとしても、頑として離さない。

 誰も予想だにしなかった、現実的に考えて有り得ない事態だった。


「おい、やめるんだ!!」

 周りが固まっている中、心臓マッサージをしようとしていたいち早く行動を再開した。女の口に指を突っ込み、こじ開けようとする。

「くそっ……何て力だ!

 ぐ、いってぇ……指じゃ、無理……何か、器具……!」

 指を突っ込んだ救命士の顔がみるみる痛みに歪み……ブチブチゴリッと鈍い音がした。

「ぎええええ!!!」

 救命士の悲鳴とともに、スプリンクラーのように鮮血が飛び散る。首に噛みつかれていた救命士が前のめりに倒れ、べしゃっと血だまりを作った。

 さらに、指を噛まれていた救命士が半狂乱になって手を振り上げる。その手には、人差し指と中指がなかった。


 傷ついた女が、救命士の首を別の救命士の指ごと食いちぎったのだ。


「わ、わあああ!!」

「一体、どうなってるんだ!?」


 あっという間に、部屋の中はパニックになる。

 仲間を助けるために呼んだ救命士を、仲間が噛んで大怪我を負わせてしまった。しかも、救命士の一人は死にそうなくらいの重傷だ。

 もう一人も指を食いちぎられて、他人を助けられる状況ではない。

 それに対して無事な救命士は、たったの一人。重傷者がこんなにいるのに、明らかに助ける手が足りない。

 もはや、どこからどうしていいか分からない。

 一体どうしてこうなった。自分たちは正し対応をしたはずなのに。

 突如始まった血の地獄に、社員たちは恐れおののき戸惑うしかなかった。


 その時、後ろで器具を用意していた無事な救命士が血の海に飛び込んだ。そして、首を噛まれた救命士の体を引きずって女から離れる。

 指を噛まれた救命士も、自力で女から距離を取った。

「皆さん、この女性から離れてください!危険です!!」

 無事な救命士は、首を噛まれた救命士の傷を圧迫しながら叫ぶ。しかし首の傷は深く、当てている布にどんどん血がしみてしたたる。

 その手を血で染める無事な救命士の額に、汗がにじむ。

 当然だ。いくら凄惨な現場を見慣れていようとも、目の前で同僚が死にゆこうとしているのに冷静でいられる訳がない。

 指を噛まれた救命士も、自らの止血で精いっぱいだ。動脈ごと噛み切られてしまったため、血の勢いが強く片手での止血は難しい。

 そんな二人に、傷ついた女がギロリと白い目を向ける。

 脈も呼吸もないと言われたばかりなのに、驚いたことに女は立ち上がった。そして、ゆらゆらと救命士たちの方に歩み寄っていく。

「おい、あの女を止めろ!!」

 事務長が叫ぶ。

「止めるったって、どうやって……そうだ!」

 事務員の一人が、力の強い男たちと協力して折り畳み机を持ち上げ、それを女に押し付けて壁際で動きを封じる。

 だが、女はなおも抵抗している。

 竜也はひな菊の目を塞いだまま後ずさり、後方で震えていた女の事務員に声をかけた。

「ひな菊を安全なホールへ連れて行け。それから、救急車に待機している隊員を呼ぶんだ。

 ひな菊……振り返らずに走るんだ、いいな」

 父に背中を押され、ひな菊は部屋から出る。

 しかしその時、閉じられるドアの隙間から見てしまった。清潔だった部屋にばらまかれた大量の血、そしてなおも血を流す救命士たちの苦悶の顔を。

「ひっいやっ……何よ、何なのよこれええぇ!!!」

 引きずられるように走るひな菊の絶叫が、冷たいリノリウムの廊下に響いた。

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