69.塞がれた耳
怖いのは、外に出た人が帰って来ないことではありません。
危険を持ち帰って来てしまうことです。帰らない方がまだましです。
白川鉄鋼には、危険について助言できる者がいるのですが……上が聞く耳を持たないと意味がありません。
ゾンビ災害では、現実を熟知している、現実的に物を考える人ほど初期対応を誤りがちですよね。ゾンビそのものが現実的じゃないですから。
五人を外に出して十分ほど後、竜也の携帯電話が鳴った。
「どうした……ほう、一人と合流できたか!」
電話の向こうから告げられた事実に、竜也は少し頬を緩めた。救出隊は、二人のうち一人をきちんと見つけてくれたらしい。
だが、次に聞こえてきた話に眉をひそめた。
「なに、怪我をしていて治療が必要だと?」
「はい……体中血だらけで、しかも錯乱しているようで……いきなり噛みついてきたんです。
取り押さえる時に二人噛まれて、一人は出血がひどいです。
取り押さえた子とそいつは病院に行かせた方が良さそうなので、救急要請をお願いできますか。二人を連れて、一度工場に戻ります」
「分かった。気を付けて帰ってこい」
報告を聞いて電話を切ると、竜也は渋い顔でため息をついた。
危険な状況にある仲間を助けようとし、助けに行った者にさらに被害が出てしまった。災害ではよくある話だし、一応想定はしていた。
だが、まだまだ危険を甘く見ていたということか。
「……対策はしたつもりだが、襲ってくるのが同僚では武器も振れんな。
しかし噛みつくとは……薬物か何かか?向こうが使った証拠を掴めれば、ひな菊の薬物の件を相殺でもみ消せるかもしれんな……」
異常事態でも冷静に解決策を考えながら、竜也は救急要請をした。
といってもこの村には消防署がないため、到着するのに十分以上かかる。これもまた、このど田舎の不便なところだ。
が、それゆえに時間の余裕も生まれる。
「搬送先の病院を、懇意にしているところに指定するべきか?
ただあそこはさほど大きな病院ではないから、怪我の具合によるな。普通に隣町の病院に運ぶより時間もかかるし……。
そうだ、どうせ搬送するなら……」
ここで竜也は何かを思い出し、人気のない通路に向かって身を翻した。
従業員たちが集まっているホールから少し離れた、薄暗い通路の先にある一室に、竜也は入った。
「少し落ち着いたか?」
声をかけると、すがりたいような信じられないような何とも複雑な視線を向けられる。竜也が視線を返すその先には、椅子に座る若者の姿があった。
ひな菊が禁忌破りの囮に使い、死霊が出たと喚きながら帰ってきた若者だ。
今は余計な混乱を防ぐために、ここに閉じ込めてある。
「社長、私は……」
「ああ、君に嘘をついているつもりはなさそうだ。君はおそらくそう認識させられ、言わされているだけだろう」
そう言ってやると、若者の顔がひどく辛そうに歪む。
大切な社員がこんな顔をするのを見ると、胸が痛む。
だが、この若者の言うことを素直に真に受けることはできない。だってこの若者が言うことは、現実的に考えて有り得ないのだから。
ただ、状況から考えてそう見える何かが起こっていることは確かだ。だからその予想を立てるために、一応素直に話を聞いてやっただけ。
ここに連れてきてそう言ってやったら、裏切られたような顔をされた。
もっとも現実からかけ離れたことを言って社員たちの恐怖を煽る時点で裏切者はそちらだが……本人にも自覚できない状態でさせられているなら、本人に罪はない。
むしろこの若者をこんな風に仕立てた何者かに、憤りを覚えた。
そして今、救出隊の負傷と引き換えにその魔手の一端が見えた。
「もうすぐ、ここに救急車が来る。
君もそれに乗せて、病院に連れて行ってやる」
「病院……?わ、私はおかしくなってなんか……!」
「うむ、そう言ってしまうのもきっと何らかの薬物と洗脳の結果なのだろう。きちんと検査して原因を突き止めてあげるから、安心しなさい。
実は君以外にも、薬物にやられたと思しき被害者が出てね。君はうまくキマッたようだが、彼女はひどい事になっているらしい。
錯乱して、助けに行かせた同僚に噛みついたそうだ」
それを聞いた瞬間、若者の表情が変わった。
「は……噛みつい……た……?」
驚愕し、そのうえひどく怯えるような不安げな表情。
竜也は、現状を知らせるようにさらに告げる。
「ああ、一人にひどい出血を伴うような怪我をさせた。しかも、本人も怪我をして体中血まみれになっているらしい。
可哀想に、君のようにうまくキマらず暴行でも受けたのだろうな。
全くもって、血も涙もない……」
「うおおおぉ!!やめろおぉ!!」
突如、若者の叫び声が竜也の言葉を遮った。若者はいきなり椅子から立ち上がり、竜也を押しのけて部屋を出て行こうとする。
「おい、社長に何するんだ!?」
若者の監視をしていた社員が、若者を取り押さえる。
しかし若者はなおもひどく暴れ、口から泡を飛ばして喚いた。
「い、嫌だ!そんな奴と一緒に救急車なんか乗りたくない!!
そいつはもう人間じゃない!一緒にいたら、俺も食われるんだあぁ!!」
若者は、罠にかかった獣のように我を忘れて逃れようともがく。
竜也はしばし面食らっていたが、少し冷静になると気づいた。若者には、何か思い当たる事があるようだ。
「何か知っているのかね?」
竜也が顔を覗き込んで問うと、若者は涙を流しながらすがるように言った。
「お、お願いです……聞いてください……。
人に噛みつくのは、死霊のやることです。死霊は、生きている人間を食うんです。死んで腐っても、動いているんです。
それに、死は伝染するから、噛まれた奴は側に置くなって言われました。
だからきっと、噛みついてきた奴は死霊に噛まれて自分も……」
「情報源は?」
「田吾作さんです」
その答えに、竜也はフッと失笑を漏らした。田吾作と言えば頑迷な古株の筆頭なんだから、そんな奴の言う事を信じても無駄だ。
現実のことならいざ知らず、明らかに有り得ないことを言っているのだから。
「ああ、今ので犯人の目星がついたよ。
君はおとなしく正気が戻るのを待ちたまえ」
竜也は、若者を哀れに思いつつ感謝して去ってしまった。後ろから若者がさらに必死で訴えても、聞くことはなかった。
「違うんだ、本当なんだ!信じてくれ!!
俺は、本当に人が食われるのを見たんだよおぉ!!!」




