57.切り捨てて
命が惜しい逃亡者がいろいろと切り捨てるのはお約束です。
聖子と清美は、何を切り捨てるのか……。
ただし切り捨てられる側も自業自得なことはあります。
清美は、さっきよりずっと冷めた目で達郎を見ていた。
できる事なら、一緒に逃げたかった。先が見えない中でも愛し合い、支え合いたかった。
だが今のこの男は……この荷は、自分たちには重すぎる。
(今、こいつ何しようとした……?)
達郎は、必死で逃げようとする清美の動きをふざけて封じた。清美と聖子がどんなに訴えても相手にしてくれず、放してくれなかった。
村の重役が来て引きはがしてくれなかったら、どうなっていたか。
(私も聖子も、確実に死んでたのよ……?)
いや、危機は今も止まることなく二人に迫ってきている。こうしている間にも、二人が逃げきれる確率は下がり続けているのだ。
達郎は、止めに入ってくれた村の重役と今も不毛な押し問答を続けている。死霊がいるいないの、実物を見ないと終わりそうにない議論。
今の達郎では、死霊を見ても食われるまでそれと認めないかもしれない。
一緒に逃げようと説得すれば、またさっきと同じ事になるのは目に見えている。
(達郎には今までたくさん支えてもらった、愛し合って幸せだった。一緒に生きればきっとこれからも、私の支えになってくれるはず。
でも、結局私が生きてないとこれからもクソもないのよね……)
こんな所で死ぬなら、どうしてあんなにたくさんの村人を囮にしてここまで逃げてきたのか。自分も村人たちも無駄死にじゃないか。
そうして愛情を消そうとしている清美の手を、聖子がむんずと掴んだ。
「お母さん早く行こう!
今なら逃げれるよ!!」
娘の言葉に、清美は驚いて尋ねる。
「パパは……いいの?」
それを聞くと、聖子はものすごい勢いで首を縦に振った。
「いいよあんな奴!
だいたい、パパのせいで私も立場もお母さんの立場もなくなったんだから。あんな奴と一緒に死ぬことなんてないよ!」
実の父を振り返る聖子の顔は、恨みに染まって鬼のような形相になっていた。
正直、聖子にとって達郎はそれほど大切な存在ではなかった。
もちろん実の父親だしいつも可愛がってもらっていたが、聖子は達郎との間にいつも溝があるのを感じていた。
一番大きな溝は、死霊の声が聞こえるか否かである。
いくら父として共に過ごしても、常に死霊の声が聞こえる聖子の苦労は達郎には分からない。むしろ時々対応を間違えたり的外れなことをして聖子を怒らせてしまう。
二番目は、達郎から未だに都会の感覚が抜けないこと。
聖子が暮らしているのは田舎なのに、都会感覚のアドバイスをして結果事をこじらせる。今回の件でひな菊との仲がこじれてしまったのも、まさにそれだ。
それでも達郎に悪気はないため、聖子は行き場のない怒りを蓄積させていた。
その点、母の清美とはいろいろなものを共有して分かり合える。だから聖子の中で、達郎と清美の大切さには大きな差があった。
そして今目の前で、達郎は誰よりも大切な清美をふざけて止めた。
誰よりも自分を分かってくれて、自分が助かるのに必要不可欠な母を。
聖子がどのような判断を下すかは、火を見るより明らかだった。
「大丈夫、お母さんが気に病むことなんてないよ!
だってパパが悪いんだもん!!」
清美の迷いを打ち消すように、聖子が清美の手を引く。清美は一度達郎の方を見たが、すぐに聖子の方を向いてうなずいた。
「そうね、悪いのはパパだもんね」
聖子の手を強く掴み、夫に背を向ける。
「パーパが悪いんだぁ!!」
声を揃えて叫びながら、二人は脱兎のごとく逃げ出した。
「んん~?何だよぉ、二人ともぉ……」
達郎は、自分が置かれた状況に気づいてもいない。だが逃れられぬ死を前にして、それはむしろ幸いであった。
清美と聖子は、もはや足音を消すこともなく全速力で自宅に駆け込む。
耳を澄ますと、遠くから悲鳴や怒号のような声が聞こえてくる。もう既に、外では村人たちに混乱が起こっているのだろう。
それはすぐにでも波のように押し寄せてきて、ここも飲み込まれる。
一秒でも早く逃げ出さなければ、命はない。
二人は息を切らしながら、ガレージに転がり込んだ。
「聖子、シャッター開けて!」
清美が車のエンジンをかける間に、聖子がガレージを開ける。外には、表とは違う濃い闇が垂れこめていた。
(早く早く早く!!)
焦れば焦るほど、手が汗で滑ってうまく動かない。
一度鍵を足下に落とし、心臓が馬鹿みたいに跳ねるのに耐えて何とか拾い上げ、どうにかエンジンをかける。
助手席に、聖子が飛び込んできた。
その後ろから追いかけてくる、清美を呼ぶ慌てた声。
「捕まってたまるもんかあぁ!!!」
清美は、一気にアクセルを踏み込んだ。途端に車が急発進し、清美と聖子の体はシートに押し付けられる。
車の勢いに翻弄されながらも、清美は必死でハンドルを操った。
間一髪、ガレージに人影が見えた時には、車はガレージから出ていた。そのまま脇目も振らずに、神社の周りを回るように作られた私道に飛び出す。
その時、社務所に向かって多くの人が駆けて来るのが見えた。
(やっぱりこうなったか……。
でも、もう追いつけないわ!)
人間の足だろうが死霊の足だろうが、車に追いついて自分たちを引きずり出すことはできない。
大勢の村人を囮に、二人は己の罪から逃げ出した。
後には、偽りの守りをはがされた地獄が残された。




