56.巫女逃走
自分の怠慢をごまかすために、野菊までも打ち倒させた清美ですが、結界がないことはもはや隠し切れません。
そこで清美は、家族だけでも脱出を図りますが……。
クズは仲間のクズに泣く、ということです。
赤い月の下、一発の銃声が響く。
放たれた弾丸は狙いを違えることなく野菊の頭を撃ち抜いた。
野菊がのけぞり、そのままゆっくりと後ろに倒れていく。死者ゆえに血は飛び散らず、乱れた髪だけが体に引かれてなびいた。
野菊は参道の石畳の上に倒れ、動かなくなった。
その目はカッと開かれたまま、血の色の月を見上げていた。
村人たちは、固唾を飲んでそれを見守っていた。
「……これで良かったんじゃな、清美さん?」
田吾作が、首に伝う汗を拭いながら尋ねる。相手は化け物らしいと分かっているものの、やはり人を殺してしまったようで気分が悪い。
「ええ、これでひとまず大丈夫よ」
清美は、心から嬉しそうにうなずいた。
しかし、すぐまた顔を引き締めて言う。
「でも、野菊も大罪人と同じで時間が経てば蘇ってしまうの。
だから今夜中は動かないように、これから私が封じの儀式を行うわ。ただ、それに必要なものがここにないのよ」
清美はそう言って、神社の奥に向かって歩き出した。
「今から聖子と一緒に取ってくるから、皆さんは結界から出ないように」
しずしずと聖子の手を取り、次の瞬間ものすごい勢いで走り出した。
「あ、え……き、清美さん?」
村人たちは驚きながらも、見ていることしかできない。
いきなり走り出して面食らったが、理由におかしいところはない。野菊の体がまた起き上がる前に、急いで封じないといけないのだから。
それに、黄泉について清美以上に知っている者は今ここにいない。
だから清美に任せておけば、それが最善のはずだ。
それでもどこか取り残されたような不安を覚えながら、村人たちは離れていく清美と聖子を見送っていた。
「はぁっはぁっはぁっ!!」
清美は、必死で聖子の手を引いて走っていた。いつもは優越感を覚える広い敷地が、今は憎らしい。
どんどん近づいているはずの社務所と自宅が、いつもより遠く感じる。
一秒でも早く着きたくて、走っている間にももどかしさが募っていく。
「お母さん、死霊って封印とかできるの!?」
尋ねてくる聖子を、苛立ち紛れに怒鳴りつける。
「できる訳ないでしょ!!」
さっきから村人に言っていたことは、全くの出まかせであり方便だ。野菊を一時的にでも黙らせて、自分たちが逃げる時間を稼ぐための。
「逃げるのよ聖子……裏口から車で!
とにかく死霊にも人間にも捕まる前に、ここから逃げるの!!」
結界がないことが分かっている以上、神社に留まる理由はない。
野菊を黙らせた時に死霊も一緒に倒れて止まってくれないかと期待したが、そう都合よくはいかなかった。
このままでは、すぐにでも死霊は神社に侵入してくるだろう。逃げなければ、食われて死ぬだけだ。
そのうえ、二人の敵は死霊だけではない。
だまされた、裏切られたと気づいた村の人間が一番厄介なのだ。気づいた時点で、彼らは理性など軽く吹き飛ばすほどの怒りと恨みに支配されるに違いない。
こんな奴らを相手にしたら、後先考えずに何をされるか分からない。
さらに野菊も、もし蘇れば自分たちを狙ってくるはずだ。動けない今のうちに、少しでも距離を取らなくては。
(私は生きるのよ、こんな所で死んでたまるもんですか!!)
いろいろと後のために考える事はあるが、とにかく今は今を生きることだ。
清美と聖子は息を切らしながら村人たちの間を走り抜け、いぶかしむ視線を振り切って社務所に駆け込んだ。
社務所の中には、雑談の声がわずかに響いていた。
避難して来た村人のうち幼い子供や体の弱った老人は、この社務所にある待合室で休んでいる。
寝ていてくれたら楽だったが、どうも不安で寝つける状態ではなかったようだ。
清美は廊下を走りだそうとする聖子を制し、少しの間一緒に息を整えた。いつもと様子が違うことに、気づかれると面倒だ。
(とにかく、車の鍵を探さなきゃ)
そう考えて、頭が痛くなった。
車の鍵は、べろべろに酔っている夫の達郎が持っている。
(はぁ~……あいつ、連れて行かなきゃダメかしら?
そもそも原因はあいつが儀式用の神酒を飲んだことだし、素面ならともかく今のあいつは何の役にも立ちそうにないわ。
むしろ足手まといになるかも……)
しかし、かといってすっぱり切り捨てられる訳もない。
清美は、こちらの表情が見えないように聖子の様子を伺う。
(今は何もできそうにないけど、私が選んだ男だし……何より聖子にとっては血がつながったパパなのよね。
やっぱり、切り捨てるのは無理かしら?)
自分の家族に対してだけは人間らしく迷いながら、清美は達郎がいる奥の部屋に向かった。
清美と聖子が部屋に入ると、酒の臭いが鼻をついた。
達郎は赤ら顔で、大きないびきをかいて眠っていた。清美が揺り起こすと、達郎はとろんと目を開けた。
「んん……どうしたぁ清美ぃ?」
「あなた起きて、一緒に逃げるのよ。死霊が出て、結界を張ってないことがバレそうなの!」
清美としては、できるだけ簡潔に事情を伝えたつもりだった。
だが、酒浸りの達郎がそれを正しく理解できるかは別問題である。
達郎は少しボーッとして考えていたが、得心がいったようにうなずいた。そしていきなり楽しそうに笑い、清美の腰にすがりついてきたのだ。
「え、ちょっと……!?」
「うへへへへ清美ぃ、こんな日にそーいうプレイとか不謹慎だぞぉ」
「ち、違うの、今本当に死霊が……!」
「ははっ死霊なんかいる訳ないだろぉ?それよりぃ、せーっかく面倒くせえお祭りが終わったんだからぁ……」
達郎は、清美の言葉を遊ぶための冗談にしか取らなかった。ずっと酔って寝ていた達郎は外の騒ぎを知らないし、達郎はそもそも死霊の存在を信じていないのだから当然だ。
だが、清美と聖子はたまったものではない。
死霊は現実に今自分たちに迫ってきているし、死霊よりもっと恐ろしいモノも刻一刻と近づいてきている。
こんな所で足止めを食う訳にはいかないのだ。
「お願い放して、信じて!でないと私たち大変な事に……」
「本当なのパパ!お母さんを放してーっ!!」
「んー……聖子ぉ?子供は寝る時間だぞぉ」
聖子も加わって必死で訴えても、達郎は全く本気にならない。それどころか、面白がってますます強く清美に巻き付く。
さらに悪い事に、その騒ぎを聞きつけて村の重役がかけつけてきた。
万事休す、と蒼白になる清美。
しかし、村の重役が叱りつけたのは達郎の方だった。
「おい、何やっとるんじゃコラ!
清美さんは今忙しいんじゃ、何も手伝えんならせめて邪魔になるな!さっさと離れんかい!!」
村の重役は達郎を殴り、清美から引きはがしてくれた。
それもそうだ、死霊だらけになった村で頼れる守り手を酔っぱらいの役立たずが襲っていたら、誰だってぶん殴りたくなる。
結界がないことがまだここまで伝わっていなかったのが幸いした。
引きはがされた達郎がもんどり打って倒れ、その拍子に車の鍵が入った財布が飛び出す。
それを聖子が、目ざとく拾う。
これで清美は、自分たちが逃げるのに必要なものを手にした。車の鍵と、そして自らの体の自由。
そして目の前には、今や完全に枷と化した夫の姿があった。




