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死霊一揆譚~白菊姫物語  作者: 青蓮
44/320

44.誤算

 ヨミ条例の発動に誰より驚いたのは、ちょうどこの夜初めて役目を放棄した平坂神社の一家でした。


 聖子と達郎は知りませんが、清美は死霊の声が絶える意味を母から聞いて知っていました。

 そして恐怖におののきますが、もはや後には引けず……。

 緊急放送に一番驚いたのは、当の平坂神社だった。

 平坂家の三人は、祭りの片付けを終えて手伝ってくれた村人たちを帰して、のんびりとくつろいでいた。

 今日もつつがなく勤めを終えた。

 中秋の明月の夜に行う結界の儀式では、酒を水にすり替えてしまったが……周りの村人にバレなければ咎められることもない。

 むしろ何事も起こらずこれを数年続けた後で実はこうでしたと明かせば、何の効果もない無駄な仕事を一つ減らせるだろう。

 それに、何より聖子と清美を苛んでいた死霊の声が消えた。

 これまでどんなに煩わしくても逃れる事ができなかった呪いのような苦しみが、きれいさっぱり消え去ったのだ。

 その前に一時頭が割れそうにうるさくなったが、あれが最後のあがきだったのだろうか。

 そう思うと、ざまあみろと思えてくる。

 聖子は昼間とはうって変わった上機嫌で、父の達郎に酒を注いでいた。

「神酒を飲んで死霊を追い払っちゃうなんて、パパすごーい!

 神様なんかより、パパの方が救世主だよ!」

 さっきあれだけひどく罵ったのと同じ口で、聖子は達郎をほめたたえる。その顔は、この上ない解放感と喜びに満ちていた。

 聖子は、達郎が神事用の酒を飲んだことで死霊や黄泉の神が去ったのだと思った。

 だから今はこの父が、誰よりも偉大なのだと信じて疑わなかった。

「そうだぞお聖子、パパはすごいんだあ~。

 だからもっと注いでくれよ、今夜は飲み明かすぞぉ~」

 達郎もすっかりいい気になって、しかもすっかり酒が回ってべろべろだった。しかし今の聖子にとって父は誰より素晴らしい恩人で、この喜びを分かち合うことしか考えられなかった。

 そんな喜色満面の父子の側で、清美だけはどこか怯えた顔をしていた。

 死霊の声が消えたのは確かに喜ばしいこと。しかしそれについて昔亡き母に言われたことが、清美の心に影を落としていた。

 そんな時だ、村に緊急放送が響き渡ったのは。

『防災放送、防災放送!

 菊原村条例43条に定められた緊急事態が発生しました。村民の皆さんは即刻、平坂神社の境内に避難……』

「ええっヨミ条例!?しかも避難先がウチじゃん!」

 聖子は、驚いて立ち上がった。

 この条例が発動されたことは自分の人生で初めてだし、母の清美も経験がないと言っていた。

 平坂神社が避難場所に指定されているのは知ってたが、どうせ実際に発動される事などないだろうとたかをくくっていた。

 しかも、よりによってこんな喜びに水を差すタイミングで。

「ねえ母さん、これって……」

 迷惑極まりないという顔で母に尋ねようとして、聖子はぎくりとした。

 ふと目を向けた母の顔は、血の気が引いて真っ白になっていたからだ。しかもその表情は、明らかに恐怖に染まっていた。


「死霊……ヨミ条例……」

 清美は確かに、ヨミ条例の発動を体験していない。しかしそれが発動された時に何が起こるかは、実際に体験したという母に聞いていた。

「いいかね清美、私たちに声が聞こえているのは安全の証なんだよ」

 母は、しわがれた声で何度も清美に言ってくれた。

「死霊が私たちに声を届けるのは、現世で何もできないからだ。体が黄泉に閉じ込められているから、私たちに言いに来るんだ。

 でも、死霊が肉体ごと現世に顕現した時は違う。

 白菊塚の禁忌が破られ、黄泉への道が開かれた時、死霊たちは現世に災いをもたらし死を伝染させるためのイザナミの手先に変わる。

 だからね……」

 母は、一段低い声で警告するようにささやいた。

「死霊の声が聞こえなくなるのは、死霊が塚からあふれた時なんだよ。

 だからそんな日は、一生来ない方がいい」


 清美は母の言葉を思い出し、小刻みに震えていた。

 死霊の声が聞こえなくなった時点で、このことを思い出してはいた。しかし信じたくなかったので、今まで黙っていたのだ。

 だが、今村には条例43条の発動を知らせる放送が流れている。

 白菊塚の禁忌が破られ、死霊が出た時にのみ流れる緊急放送が。

(そんな、嘘でしょう……!?

 でもこの放送、死霊の声が消えたタイミング……まさか本当に!!ああ、だとしたら……今夜、私たちがしたことは……!)

 清美は、夕方の事を思い出した。


 結界を張るのに使うはずだった神酒を、飲み干して水に替えてしまった。

 つまり、今夜は正しく結界の儀式が行われていない。


 母は清美に、そうなった時に神社が果たす役割についてもしつこく教えていた。

「もし死霊の声が突然途絶えたら、その時こそこの神社の真の役目を果たす時だ。この神社は、その時のために受け継がれて守られているんだから」

 母は、悲しい目をして続けた。

「中秋の明月の夜に、結界の儀式をやるだろう?あれは、黄泉の存在がこの神社に入れないようにする大切なものだよ。

 だからあれさえ絶やさなけりゃ、死霊が出てもこの神社は安全だ。

 もっとも、私の時はここに人を入らせないようにする馬鹿な軍人がいてね……まあ戦争が終わって軍部が解体されたから、もう大丈夫だとは思うけど……。

 とにかく、ここに避難すれば安全、そうしておくことが私たちの一番大切な使命なのよ」

 そう言う時の母の顔は、目頭を押さえて涙を流していた。

 清美も幼い頃はそれを本当だと信じ込んで使命感を覚えていたが、自由になっていく世の中を知って伝統に反感を持つにつれ信じなくなっていった。

 都会でロックを覚え達郎と出会ってからは、打破すべき偽りとしか思わなくなっていた。

 それが、使命を捨てた途端に事実であることを証明する事態が起こるとは……。


 清美は、恐ろしいものに遭遇した幼子のようにがたがたと震えていた。家族を前に助けを求めることもできず、はらはらと涙をこぼしている。

「え、、あの……お母さん?」

 これには、聖子もどうしていいか分からない。

 母清美のこんな顔は、初めて見た。いつもは村の伝統や無駄にしか思えない神事に、眼光鋭く果敢に立ち向かっていたのに。

 今までになく弱く打ちのめされた母の姿に、聖子も不安を覚えた。

 まるでこれまで自分がやってきた事信じてきたものが、間違っていたような……。

 だがうろたえる聖子の前で、達郎が清美の肩を抱いた。

「そんな顔するなよ清美ぃ……おまえはいつだって、強くてブレない女だろぉ?俺はそこに惚れたんだよぉ。

 俺が側にいるからさあ、一緒にうまく乗り越えてこうぜ」

 達郎の動きは千鳥足で息は酒臭かったが、それでもかけた言葉には素直な清美への愛情がこもっていた。

 その温かい抱擁に、清美の目に光が戻る。

「で、でも……今からここに押し寄せてくる村のみんなには……」

「ああ、まあ茶でも出して一晩居させとけばいいんだろ?

 俺らが結界を張るヤツやってないなんて、俺らにしか分からないし。それに死霊うんぬんが嘘なら、結界なんて確かめようがないだろぉ。

 要は、落ち着いてそれっぽく対応しときゃいいんだよ」

 その都合のいい言葉は、今の清美にとって救いだった。

 そうだ、まだ自分の考えが間違っていると決まった訳じゃない。本当に死霊が出たかは分からないし、本当は儀式なんかしなくても死霊は聖域に入れないかもしれない。

 どちらにしろ、もう今から結界を張り直している時間はないし、このことを村人に自ら明かすなどまっぴらごめんだ。

 清美は愛する夫の手を強く握り、この酔っぱらいの言葉に全てを賭けることにした。

(そ、そうよ……あんな煩わしいものが大切なんて、この目で見るまでは認めない!

 村は広いんだから、そんなにたくさんの死霊が押し寄せてくるとは限らないし。数が少なければ、見つけ次第猟銃持ったジイさんたちに頭を撃ってもらえばいい。

 結界がなくたって、人が死ぬとは限らないんだから……!!)

 あらん限りの希望的観測をもって、清美は己を奮い立たせる。

 もはやその楽観の一部が崩れていることなど、今この家族には知る由もなかった。

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