4.菊畑の姫
江戸時代のパートに入ります。
この物語で最も重要なキーパーソンとなる、白菊姫の登場です。
菊を育てることにただならぬ情熱を注ぐ姫は、元々そんなに悪い姫ではありませんでした。そんな彼女が、いかなる状況でいかなる過ちを犯してしまったのか。
昔、まだ侍が世の中を支配していた頃、村に一人の姫がいた。
姫といっても大名の娘などではなく、この村に広い土地を持っている武家の娘である。
彼女の名は、白菊といった。
白菊姫はその名のとおり、大輪の白菊のような凛とした美しさをもっていた。艶やかな長い黒髪に、菊の花びらのようにすべらかな白い肌、そして黒地に白菊模様の着物を好んで着ていた。
白菊姫は、自分の名の元になっている菊をこよなく愛した。
そして、村に大きな菊畑を作って見事な菊を育てた。
実際、白菊姫には天才的な菊作りの才能があった。
幼い頃から部屋に活けるのは菊の仲間が主で、もっときれいなのがほしいからと自分で菊を育てることにやっきになった。
年頃の娘になった頃には、菊作りの名人として国中に名が知れていた。
その美貌と特技がよく合っていたので、白菊姫の名はよく知れ渡っていた。
白菊姫の家は裕福だったが、白菊姫は決してぜいたくな姫ではなかった。
あまり旅行にも行きたがらず、錦の着物や金銀宝石のかんざしも欲しがらず、それはそれは金のかからない姫君だった。
「旅行に行っている間は、菊の様子を見られませぬ。
錦の着物や金のかんざしより、良い肥料を菊のために買うてください。
菊のための良い畑と水だけが、わらわの望みでございます」
白菊姫はただ、菊を育てることだけに情熱を注いでいたのだ。
この時代、土地は開墾すればいくらでもあったし、この山間の村には川も湧水もあって水は豊かだった。だから、白菊姫が欲しがるものは、欲しいだけ手に入った。
それでも村には特に影響がなかったので、村人たちも白菊姫の好きなようにさせていた。
姫も、村人たちのことを気にする事はなかった。
白菊姫はただ、菊のことだけ考えて日々を過ごしていればよかった。
しかしある年、梅雨の時期だというのに雨が全く降らなかった。
それでも村人たちは、楽観的だった。
この村には川と豊富な湧水がある。以前一ヶ月くらい雨が降らなくて隣村が大被害を受けた時も、この村は大丈夫だったじゃないか。
白菊姫もまた、いつものように菊作りに熱中していた。
「今年の菊も、よく育っておる。
枯れてしまわぬように、たっぷり水をやるのだぞ!」
しかし、その年の旱魃は、一ヶ月ではすまなかった。
梅雨が過ぎて、雨が降らぬままかんかん照りの夏になった。
空気はカラカラに乾き、毎日水をやってもやっても農民たちの畑はひび割れ、作物は枯れ始めた。
あれほど豊富な山中の水もついに底をつき始め、川の水量はだんだんと少なくなり、泉は日を追って小さくなってきた。
ここで初めて、農民たちは危機感を覚えた。
昨年も少し気候がおかしかったせいで、今年は食糧の蓄えが少ない。このまま作物が枯れてしまったら、食べるものがなくなってしまう。
農民たちは村中で寄り合いを開いて、水を節約し始めた。
それでも、川や泉の水はどんどん減っていく。
それもそのはず、白菊姫は大切な菊を枯らしてはならぬと、夏になってますます水を大量に使い始めたのだ。
「わらわの手塩にかけて育てた菊、枯らしてなるものか!
水路をもっと深くせよ、水のある泉から水をどんどん持って来い!」
白菊姫は相変わらず、菊だけを見ていた。
自分以外の畑や民のことなど、元から眼中になかった。
だって、今まではそれで何も問題なく暮らしてこられたのだから。
村に暮らす自分以外の民の事など、気にする必要もなかったのだ。
村人たちはついに、白菊姫の屋敷に訴えにやって来た。
白菊姫は百姓たちのかっこうを見苦しく思い目をそむけたが、一応話を聞きに出てきた。
「姫様、村一同のお願いがありますだ!」
大勢の村人たちが一斉に頭を下げるのを見て、白菊姫は少したじろいだ。
白菊姫は決して頭が悪いわけではないし、菊以外のことでは人の言にも耳を貸す方だ。白菊姫にも、これが尋常でないことは分かったのだろう。
「何じゃ、申してみい?」
困ったように首をかしげる白菊姫に、村の庄屋は深く頭を下げ、申し上げた。
「お願いいたしますのは、水のことにございます。
姫様もご存じのとおり、今年は雨が降りませぬ。
このままでは田畑の作物が枯れてしまい、食べるものがなくなってしまいます。
そうならぬためには、田畑に少しでも水を回さねばなりませぬ。そのために、どうか姫様にも協力していただきたいと……」
「ほう、それはいかんな……して、わらわは何をすればよい?」
白菊姫の返事に、村人たちはほっと胸を撫で下ろした。
庄屋は村人たちの要望を、白菊姫に手短に伝えた。
「姫様の菊畑で使っている水を、どうか我々の田畑に回してくだされ。
菊は一度枯れても、地下の根が生きていればまた翌年芽を出します。しかし、畑の作物は実らねば村を養えませぬ。
どうか、今年は村のためにご辛抱を……」
そこまで言いかけて、庄屋ははたと口を止めた。
白菊姫の表情が、さっきとはうって変わっている。
きょとんとしていたはずの目はつり上がり、唇を噛みしめて、ひざの上の拳は怒りにわなわなと震えている。
「貴様らぁ……どこにでもある田畑のために、わらわの菊を枯らせと申すのか!?」
その瞬間、庄屋は交渉の失敗を悟った。
白菊姫は、菊のことになると見境をなくしてしまう。
白菊姫は当然のように、田畑の作物よりも自分の菊をとったのだ。
「お、お待ちください姫様!
我らに死ねとおっしゃ……」
慌てて必死に頭を下げる村人たちの前で、白菊姫はすくっと立ち上がった。
そして、側に控えていた部下たちに命じた。
「この不届き者どもを、つまみ出せ!!」
とたんに、刀を帯びた侍たちが村人たちの腕をつかみ、引きずり出そうとする。
村人たちは、逆らえなかった。
白菊姫の家は広い土地を持っているだけではなく、配下の武士も数十人いる。しかもこの時代、武士にそれ以外の者が無礼を働いた場合、斬り捨て御免にしてよかったのだ。
下手をすれば、殺される。
村人たちは涙をのんで、白菊姫の屋敷から逃げ出していった。




