39.避難指示
引き続き田吾作と囮の若者です。
菊原村には、万が一の事態が起こった時の対応が既に定められていました。
村人はそれに従って迅速に避難を開始しますが……避難先がどうなっているかは、皆さんこれまでの流れを思い返してみてください。
体制ができていても、それを台無しにするのは意外と簡単なことなのです。
「ど、どこへ行くんですか?」
手を引かれて走りながら、若者は問う。若者はこの村の地理をよく知らず、そのうえ暗くて視界が悪いので不安この上ない。
田吾作は、息も切らさずに言った。
「まず手近なところで連絡だ、それから平坂神社に行く。
そこなら、奴らは入って来られないはずだ」
そうしてすぐ近くにあった民家に、田吾作たちは駆け込む。
「あれまあ、こんな遅くに……」
「緊急事態だ、電話を貸せ!
それからあんたは、すぐ家族と一緒に平坂神社に逃げろ!貴重品も食糧もいらん、とにかく夜が明けるまで神社にいるんだ。白菊塚の近くは通るなよ。
若いの、おまえは外を見張れ!奴らがここから二つ目の街灯まで来たら教えろ!」
田吾作は手早く指示を出すと、玄関にあった電話をかけて何か話し始めた。
話を聞いたそこの家人も、みるみる青ざめて慌てて家族を呼びに行く。家族は何事かとポカンとしていたが、最年長と思しきおばあさんは必死で訴えた。
「お願いだから、言う事を聞いて!
一夜だけだから、朝になったら帰ってこられるから!」
「そうは言ってもなあ……逆にその程度なら、行かなくてもいいじゃないか」
乗り気でない家族の前で、おばあさんはいきなり自分に包丁を突き付ける。
「行かないなら、あたしゃここで自分の首を切って死ぬよ!この歳で子や孫が死ぬのを見るぐらいなら、そっちの方がよっぽどいい!」
それを見て、家族は慌てふためいて玄関に出る。
「わ、分かったよ!
とりあえず一晩だけなんだな、それくらいなら……」
その家の家族たちは、どやどやと外に出て行った。電話を終えた田吾作が家から出ると、家に鍵をかけて平坂神社の方へ向かう。
若者は何が起こっているか分からないまま、呆然と見ていることしかできなかった。
連絡を終えると、田吾作は再び若者の手を取って走り出した。
「この分なら、平坂神社には無事たどり着けそうだな。
あそこで一晩じっとしとれば、おまえさんも安全だ。朝が来れば、生きて家に帰れるだろうよ」
田吾作の言葉に、若者はますます気分が悪くなる。
さっきの家の人たちもこの猟師も、あの異様な群れが何か知っている。知ったうえで、普段なら考えられない強引な行動を起こしている。
歩み寄って来る人影に銃を向けたり、避難のために自分の命を人質に取ったりと、明らかに世間一般の常識的な行動ではない。
一体、何が彼らをそうさせているのか。
自分は巻き込まれているのに、未だにそれが何なのか知らないのだ。
「あ、あの、俺たちは一体何から逃げて……」
若者が問いかけると、田吾作は話すつもりがあるのか足を緩めた。しかし田吾作がそれに答えようと口を開きかけた時……大音量の放送が響き渡った。
『防災方法、防災放送!
菊原村条例43条に定められた緊急事態が発生しました。村民の皆さんは即刻、平坂神社の境内に避難してください。
白菊塚には絶対に近づかないでください。途中で家族や友人と離れても、合流しようとしないで平坂神社を目指してください。人影を見ても、近づかないでください。
これは訓練ではありません、皆さんの命を守るために今すぐ避難してください。
繰り返します、防災放送……』
暗い空に、村の各所にある広報塔から放送が流れる。内容は、先ほど田吾作が民家で話していたのと同じだ。
電話で連絡していたのは、このためだったのか。
いや、それよりもあの異様な群れはこの村の条例にまで定められているのか。この村には一体、何があるんだ。
若者は、一人異界に放り込まれたように放送を聞きながら立ち尽くした。
「足を止めるな、死ぬぞ」
呆然としている若者の手を、田吾作が引っ張る。混乱して返事もできない若者を歩かせながら、田吾作は言う。
「奴らの動きは鈍い、だが追いつかれれば死ぬ。
際限なく飢えた死霊たちに捕らわれ、体を食いちぎられて殺されるのだ。さっき塚の前で、わしの仲間がそうなったように」
その言葉を理解した途端、若者の全身が粟立った。
確かにさっきから、生きるとか死ぬとか物騒な言葉を聞かされた気がする。あの異様な群れに取りつかれた三人の猟師の様子も、普通ではなかった。
あれは、食い殺されていたのか。
心の底では、薄々勘付いていたのかもしれない。しかしそれを考えようとすることを、頭が拒否していた。
他人に言われて認めた瞬間、すさまじい恐怖が襲ってきた。
つまり自分は今、人を取って食う恐ろしいものに追われているのか。自分の後ろには、今もそんなものがうごめいて追ってきているのか。
捕まったら食い殺される、命がけの鬼ごっこ。
なぜ自分は、そんなおぞましいものに巻き込まれてしまったのか。
「そ、そんな……でもあんな奴ら、さっきまではいなかったじゃないか!
一体どうして、どこから……!?」
慌てふためく若者に、田吾作はぞっとするほどの憎しみがこもった目を向ける。若者がその目に気圧されて黙ると、田吾作は一言言った。
「中秋の名月に、塚に白菊を供えたからだ」
その言葉は、銃弾のように若者の胸を撃ち抜いた。
自分はついさっきまで、何を持っていた?
それを持って、自分はどこにいた?
頭の中でパズルのピースがぱちりとはまり、若者の周りの世界が真っ暗になった。




