301.仕込まれた毒
宝剣に力を込めるだけで……どういう条件で、遠隔で呪いをすすめることができましたか?
喜久代の戦いで、同じ目に遭った子がいます。
そして、いつそれがひな菊に仕込まれたのか。
目の前に命の危機が迫る戦いの最中、本人もそれほど気にできなかった小さな痛みは……。
その絶望的な状況に、竜也は……。
いくら味方を容赦なく撃ち殺せる冷血漢でも、可愛い身内となると……ゾンビあるあるです。
「あ……ひいぃっ寒い!気持ち悪い!
助けてパパぁ!!」
宝剣が触れてもいない車の中で、ひな菊は悲鳴を上げた。少しでも暖を求めるように体を丸め、ぶるぶると震え出す。
「どうしたひな菊!?」
予想だにしない事態に、竜也は驚愕する。
ひな菊の様子は、明らかに恐怖で震えているだけではない。
ひな菊の肌からはみるみる血の気が引いていき、息遣いは喘ぐようになっていく。震えも、さっきよりずっと激しく、痙攣のようだ。
「なぜだ!?おまえは呪いなど受けていないはず……」
戸惑う竜也の前で、ひな菊は弾かれたように靴を脱ぎだす。
「い、痛い!かゆい!ここから……ここがぞわぞわする!!」
「見せろ!!」
ひな菊が必死に靴を脱ごうとする足を見て、竜也はぞっとした。
ひな菊の靴の裏は、それなりに厚かったゴム底がボロボロに劣化していた。しかし、かろうじて破れてはいない。
だがそこに、ぽつんと赤く丸いしみがある。
靴を脱ぐと、その下の靴下にははっきりあった。赤い血が染みた、丸が。
その靴下をひっぺがすと、足の裏にはほんの小さな傷があった。
血が出ていなければ見過ごしてしまいそうな、小さな穴。針のような細い尖ったものが、刺さったような跡。
そこを中心に、足が黒紫色に変色していた。穴からは血汁が流れ、周辺がぐずぐずとただれて腐ったような臭いを発している。
見ている間にも、その変色とただれは広がっていく。
間違いなく、ここが呪いの侵入点だと見てとれた。
再会して車に乗った時点で、ひな菊はもう清浄ではなかったのだ。
「ひな菊……これは、いつ……?」
青くなって問う竜也に、ひな菊は苦し気に答える。
「パパに、会いに、三階から下りてきて……そうしたら、派手な着物の女がいて……そいつが、落としたヤツ……モップでどけたのに。
そいつ、倒そうとしたら……何か、刺さって……」
その瞬間、竜也の脳裏にその時のことが浮かんだ。
あの時確かに、喜久代とぶつかろうとしていたひな菊の足がつまずいたようにもつれた。喜久代はそこに噛みつこうとし、竜也に撃たれた。
(その喜久代は、どんな戦い方が得意だった?)
思い出すと、空恐ろしくなる。
喜久代は自分の体液を、呪いの毒液のように使っていた。ありふれた道具にそれらをまとわせ、必殺の武器としていた。
たった一刺しで、相手に逃れられぬ呪いを与える罠使い。
竜也は喜久代がそれを仕込んで使うのが見えたため、慎重に戦うことができた。
しかし喜久代が、竜也と戦う前に二階の廊下にそれを仕掛けていたら。特に小さなものだったら、目の前に敵がいる状況で足下に注意などできないから……。
(喜久代―っ!!)
竜也の頭の中で、喜久代がいやらしく笑う。
喜久代は、そういう女だ。自分の願いを叶えるために、周到に準備をして戦う。その罠が、目の前で作られたものだけであるものか。
ひな菊は、まんまとそれに引っかかったのだ。
「パ……パ……あたし……呪われた、の……?」
ひな菊が恐怖に染まった目で、すがるように尋ねる。
竜也は、答えられなかった。だが、頭の中ではもう分かっている。正直に答えたら、ひな菊も自分も絶望しかないと。
ひな菊は、呪いを受けている。
そしてひとたび呪いを受ければ、もう助かることはない。
「ひな菊……ゆっくり、確実に呼吸をしろ」
竜也は、ひな菊の肩に手を置いて、必死で声の震えを抑えて言った。
「大丈夫だ、すぐ病院に連れて行ってやる。それに、すぐ夜が明ける。それまで死ななければ、きっと助かる!」
「パパ……」
竜也にしては、驚くほど根拠の乏しい希望的な言葉。
しかし、もはやそれにすがるしかなかった。
だって助からないと認めたら、これまでしてきたことが全部無駄になる。必死に足掻いたことが、全て意味を失う。
自分の唯一の喜びにして生きる意味を、失うことになる。
竜也は、それだけは認めなかった。
だから全力で、希望にすがる。
こんな小さな傷が元で死ぬはずがない、自分たちが凡人共と同じになる訳がない。すぐに夜が明けて、こんな悪夢は終わりだ。
一方で、竜也の現実的な思考が叫ぶ。
このままでは、自分が危ないと。逃げ場のない車の中でひな菊が死霊化したら、自分も間違いなく噛まれると。
だが幸い、それを防ぐ手はある。
まだ残っている銃弾を、ひな菊の頭に撃ち込め。そうすればひな菊は永遠に囚われることも、自分を噛むこともない。
合理的に考えれば、最善の選択肢だ。
しかし竜也には、それができなかった。
むしろそうした方がという考えに、必死で抗った。
だって、愛しい妻を失った時に誓ったじゃないか。もう、こんな思いはたくさんだと。この娘だけは何としても、守り抜くと。
なのに、自分がそれを諦めてどうする。
この娘は、自分の全てなのに。
竜也は娘にしてやれる唯一のことを恐れ、ただ涙声で励ますことしかできなかった。




