291.最後の誇り
逃れられぬ死を突きつけられ、望みを失う喜久代。
それでも、野菊を前に失えないものがありました。
喜久代の凶行を支えていたもの、それはこの状況とは真逆の誇り。
しかし、それが全くの誤りであると突きつけられ……。
呆然とする喜久代の手から、小銃が引き抜かれた。
反射的に振り向くと、青白い肌と濁った目をした少女がいた。矢羽模様の着物にはかま姿で、年のころは自分より少し上だろうか。
「クルミ……もう、遅いわよ」
恐るべき仇敵を見ても、もう喜久代は動かなかった。
だって、今さらこいつと戦って何になるのか。
自分はもう、呪いを受けてしまった。どう足掻こうと、もうすぐ死ぬのだ。あまつさえ相手は倒しても復活するのに、もう戦う意味なんてない。
仲間はみんな死んだ。
野菊は倒せなかった。村を清浄にはできなかった。
そのうえ、自分ももうすぐ死ぬ……二度と、父に会うことはできない。
「あーあ……何も、できなかったなぁ」
喜久代の口から、自嘲の言葉が漏れた。同時に、そうして自分を笑うだけでは抑えきれない悲しみが涙となってあふれ出す。
「う……ううっ……あああぁん!!お父様ああぁ!!」
死に満ちた家に、たった一人生きている主の慟哭が響く。
それを聞く者すら、もう生きている者はいない。
喜久代がここまで戦ったことを、認めて労わってくれる者はいない。お国と村のために全力で戦ったと、伝えてくれる者もいない。
戦いの意義すら分からぬ百姓どものことだ、きっと自分の父と神国に殉じる戦いを正しく評価してはくれないだろう。
自分が死んだのをいいことに、この家と土地を奪い、外地で懸命に戦いを支える父が帰ってこられなくしてしまうだろう。
何も、残せなかった。
父に報いられなかった。
それが、喜久代にとって何より悲しかった。
そうしてしばらく座り込んでいると、野菊がやって来た。
「あらあら、私やこの子が手を下すまでもなかったわね。それに、そんなに泣いて……少しは自分のしたことが分かったかしら?」
その言葉に、喜久代はゆっくりと顔を上げた。
そして、野菊の濁った目をにらみ返して、しゃんと背筋を伸ばして言った。
「負けは認めるわぁ、これ以上の抵抗はいたしません。
でも、心は絶対に屈しない!
あたしは、神国の地を邪悪より取り戻し、この地の人々を災いから救うために戦いました。いかなる死の淵にあろうと、その心は絶対に折れません。
守れなかったけど、最後に……大日本帝国万歳!お父様に、幸あれ!!」
喜久代は腹に力を込めて、最期の言葉を言い切った。
負けを覆すことはできないけれど、せめて心は最期まで国と父の側にいよう。それだけが、今喜久代にできる唯一の報い方なのだから。
この邪悪な黄泉の使いに、それが通じるかは分からない。
いや、きっとこの化け物に人間の愛と誇りなど分からないだろう。自分の信徒を襲って手駒に変えて、使い潰すような奴には。
だが、だからこそ屈しない。
今ここで死にゆく自分だけでも、最後まで守れなかった村のために祈る。
自分が黄泉を苦戦させただけでも、意味はあると信じる。黄泉が自分たちを害すると分かれば、村人たちも邪悪な信仰から離れるかもしれない。
そうすれば、自分はたとえ時間がかかっても、村人たちの目を覚ました殉職者として認めてもらえるだろう。
父が生きているうちにそうなれば、少なくとも父に帰る場所を残すことはできる。
「今は、邪な勝利に酔っていなさい!
でもいつか必ず、あたしが暴いたあんたたち自身の本性が、あんたたちを追い詰めるわ。あんたが殺した人々の恨みが、あんたに罰を下す。
世の中はねえ、あたしほど甘くないんだからぁ!!」
負け惜しみと取られても構わない、言うべきことは言っておく。
こいつが己の罪に気づいた時、思い出して後悔させるために。何一つ悔いることのない自分と違う、苦悶に満ちた最期を与えるために。
それが、村の守り手たる自分の最後の使命……。
曇りなき喜久代の目に、野菊の白く濁った目が近づく。その醜く痩せこけて腐った指が、喜久代の頬に触れた。
「あなた……本気でそう思っているの?
今夜死んだ人々が誰を恨んでいるか、分からないの?」
野菊の冷たく固い指が喜久代の顎を掴み、周りを見るように動かす。
喜久代を囲んでいる、死の穢れに侵されて黄泉の尖兵となった者たち。大部分は、国民服かもんぺに防空頭巾……昨日まで生きていた村人たちだ。
それを見ても、喜久代の心は動かなかった。
だってこいつらがこうなったのは、死霊に噛まれたからじゃないか。どう考えても黄泉と死霊が悪いし、それに抗おうとした自分は正義だ。
しかし、頑なにそう信じる喜久代に、野菊は諭すようにささやいた。
「あのね……あなたが禁忌を破らなければ、この人たちは死なずに済んだのよ。
誰も死霊に噛まれなかったし、死に別れに胸を潰されなかったし、親しい人を泣いて手にかけることもなかった。
違う?」
(え……?)
喜久代の胸が、びくりと震えた。
確かに、結果だけ見ればそうかもしれない。禁忌を破ってこの地に死霊を呼び出したのは、間違いなく自分だ。
「で、でもそれは村人たちが……あんたなんかを信じて、言うことを聞かないから!
それに、そもそもこんな呪いを残す方が悪いんじゃないのぉ!」
喜久代は必死に、言い返す。
折れてたまるか、認める訳にはいかない。だって認めてしまったら……自分がこんなに人を殺したことになるじゃないか。
しかし野菊は、動揺した喜久代の目の奥を見透かすように言い切った。
「私は、きちんと呪いが村を傷つけないようにできるだけの備えはした。呪いが発動する条件をとても分かりやすくして、安全地帯も設けた。
死霊だって、私が統率できる間は罪なき人を襲わせなかった。
その安全装置を全部壊して台無しにしたのは、あなたとお仲間じゃないの!」




