278.黄昏
ついに決行の日、白菊を手に塚に向かいながら、喜久代は何を思うのか。
喜久代は決して、ずっと頭が悪かった訳ではありません。一応喜兵衛の血は引いていて、年齢とともに少しは考えられるようになっていたのです。
ただ、もう後に引ける段階はとうに過ぎ去っていました。
大罪人たちは皆、それぞれ素晴らしい輝くものを持ってはいるんです。ただ、その発揮する方向がね……。
山に秋風が吹き渡り、村が色とりどりの菊に彩られ始めた頃、ついに決行の日が訪れた。
喜久代は父がくれたかんざしと、黒字に色とりどりの菊模様の着物をまとい、白菊の束を持ってしずしずと白菊塚に向かう。
その周りは、銃で武装した軍人家族たちが固めていた。
喜久代自身も、懐に拳銃をしのばせている。
「ああ、お祖父様、お父様……ついにこの日が参りました」
喜久代は遠い目で、高い高い空を見上げて呟く。
「この同じ空の下で、お父様も銃後のあたしたちを思って戦っていらっしゃるのでしょう。ならば銃後の安全のため、喜久代も戦います。
お祖父様の代で退ける事しかできなかった汚らわしい敵を倒し、地も人も清らかになった地でお父様をお迎えいたします」
西日の金色の光の中で佇む喜久代の姿は、息をのむほどに美しかった。
か弱い女の身なれど、父の留守を守らんと自ら武器をとり覚悟を決めて戦う、主がいない城を守る戦国大名の娘のよう。
その折れぬ心と戦う意志は、日本の花といえる姿も相まって、演劇か何かならばそれはもう美しく人の心を打っただろう。
実際、軍人家族たちにはそう見えていたし、喜久代もそのつもりだった。
そこには、確かに芯の通った武家の魂があった。
……だが、戦う相手が守るべき村人と、村の恩人では、台無しだ。
どんなに美しい覚悟も風景も、虚しいものでしかない。
落ちていく日に照らされながら、喜久代は塚への道を進む。見つめる先には、白菊姫の事件を伝える石碑が墓石のように立っている。
その前まで来ると、喜久代はその石碑にも一礼した。
「姫君、その無念、あたしが晴らして差し上げます。
どうぞ、見守っていてください」
石碑は何も返さない。
喜久代は白菊姫の激励を聞いた気になって、薄暗い黄泉の口へと下りた。
黄泉の口は日が落ちたせいで影になって、いかにも不気味だった。しかし懐中電灯で照らすと、すぐ行き止まりになっているのが分かった。
(本当に、ここが黄泉につながるのかしら?
……ああ、お祖父様を疑うのは良くないわ!)
見たところ普通の穴だが、ここが普通でないことは喜久代も知っている。
ここは地下に下りていく入口のような形から、防空壕にしようという話があった。しかし、鉄格子の向こうは掘ろうとしても掘れないのだ。
岩はそれほど固くないはずなのに、なぜか掘っても進まない。ダイナマイトやドリルを使っても、周りが崩れてきて気が付くと元の深さに戻っている。
近くに別の防空壕を作ってこことつなげようと試みても、見えない何かに阻まれるようにこの周囲だけは掘れない。
この事実に、喜久代はつくづく思う。
(お国の土地を人が使えなくするなんて、本当に邪悪で意地悪だわ。
ここが本来誰のものか、分かってないのかしら!
防空壕がここになかったせいで人が死ぬのを、望んでるんだわ。こんなのを信仰するから、人の性根まで歪むのよ!)
防空壕ならもっと他の土地がたくさんあって、既にたくさんできているが、喜久代はそんなことでは納得しない。
黄泉なんてものが生きている人の世にしゃしゃり出て、正しい統治の邪魔をするのが問題なのだ。
(……もしかしたら、こういう妨害を受けている場所は他にもあるのかもしれない。
ここで勝って黄泉に思い知らせて、軍人を引き込むのをやめてさせて、日本のいろんな所から手を引かせれば……日本は勝てるかしら?
そうしたら、お父様は笑顔で帰っていらっしゃる!)
目の前の怪異と自分の願いを、喜久代はそんな風に結び付けた。
最初の一言は喜久代本来の頭の良さによるものだが、それをここまで肥大させて風が吹けば桶屋が儲かるようなところまで妄想するのは、父への妄執ゆえ。
お父様と自分を引き離す要素は全部敵か障害、自分と父を邪魔する者は全部お国と人の敵。
だからそれさえ消し去れば、全て自分の思うようにいくと信じた。
……信じなければ、立っていられなかった。
山の端に夕日が落ち、辺りが暗くなっていく。代わりに薄青色の空に、ぽっかりと明るい満月が昇る。
しばし休憩していた喜久代は、感傷を振り払って立ち上がった。
「さあ、黄泉の連中をおびき出すわよ!」
へつらうような笑みを浮かべる軍人家族が、喜久代に白菊の花束を差し出す。
喜久代は、それを受け取ってごくりと唾を飲んだ。
いよいよ、これを供えたら、もう戻れない。
二度もこの村の躍進を阻み、統治者を殺した邪悪の権化と、自分たちは戦う。(クメの件はさすがに殺されて良かったと思う)
今まで誰も勝てたことのない、神の尖兵と。
正直、喜久代にも絶対に勝てるかは分からない。
自分にはそう言い聞かせているけれど、他の軍人たちも勝てると言うけれど、本当に勝てる保証はない。
尖兵の野菊を倒して、それで終わる保証もない。
もっと強大な背後にいる者が、出てくるかもしれない。
……それでも、喜久代に止まる気はなかった。
このまま父が本当は何をしているか分からぬままただ従うだけなど、耐えられない。かといって本当に父に手を伸ばせば、現実を知ったら、二度と立ち上がれなくなるかもしれない。
喜久代は成長して賢くなるにつれ、そう思うようになっていた。
だから、父の心に響く大きな事をして、少なくとも自分を納得させて気を引いて……。
(たとえ負けても……このままでいるよりは。
お父様が戻って来なくて村からも見放された今、あたしは死んだも同然……)
命懸けの大勝負を前に、つい押さえつけた本音が顔を出す。だがそれも、喜久代の背中を押すものでしかなかった。
「お父様、お守りください……いざ、開戦!!」
手の中のどこまでも純粋な白菊の束を、喜久代は闇の底に落とした。




