264.無の守り
人間不信のマフィアなどが周りを武器で固めている描写はよくありますが、作者は「ん?」と思うことがあります。
本当に他人を信じられないのであれば、他人にそもそも武器を渡すでしょうか。
武器がその辺に転がっている外国ならともかく、銃が身近にない日本で銃なんて危ないものを……。
それを竜也とひな菊はどう考え、事務長はどう解釈してしまったか。
あればあるほど守れる訳じゃない場合もある。
「おやおや~……これは残念だなあ」
事務長はおどけた調子でこう言って、ゆっくりとひな菊を振り返った。
「え、どうしたの事務長さん?」
首を傾げるひな菊の襟首を、いきなり事務長の筋張った手が掴む。驚き怯えるひな菊の顔に眼鏡がつきそうなほど覗き込んで、事務長は当て擦るように告げる。
「銃がさあ、僕の分がないんだよぉ~!
君を守りたくてもねえ、守れないの!!」
「ええっ!?」
ひな菊は床に落とされた衝撃もあって目を見開いたが、すぐ納得したような顔になった。
「そっか……じゃあ、弾だけでも持って早くパパの方に行こう。
あいつがここまで来る前に……さっき見たところ、この区画にはまだ他に死霊はいなかったのよね?なら、非常梯子を下ろして一階まで下りれば……」
ひな菊は、何としても生き残るために勇気を振り絞って考える。
さっきは派手な音と大罪人という肩書に驚いて恐怖に飲まれそうになったが、よく耳をすませば、それ以外の音はほぼ聞こえない。
それに、棟の中でもこの社長室がある区画は外からしか入れない……他の工場区画と中で分けられている。
ならば、いくら工場のカメラに死霊が映っても、この区画が危険になるまではまだ猶予があるはず。
幸い、社長室には一階に通じる非常脱出梯子がある。
これを使えば、今なら悪代官と会わずに降りられる。
幸か不幸か悪代官がいろいろな扉を壊したため、たとえ死霊と鉢合わせても自分たちの逃げ場も多いはずだ。
「銃がなくても、パパは逃げ道を用意してくれてる!
だから、一緒に夜明けまで逃げよう!」
ひな菊は己を励ますようにそう言って、非常脱出口を覆っていたじゅうたんを外す。
ここに予備の銃がなかったことの意味を、ひな菊は理解していた。パパはきちんと、自分が守られるか、少なくとも生きていられるようにしてくれた。
なら、そんなパパのためにも逃げる努力をしなければ……ひな菊は、最愛の父のことを誰よりも信じていた。
しかし、事務長は信じていなかった。
非常脱出口の蓋にかけたひな菊の手を、事務長は踏みつける。
「な~に言ってんの?銃がねえ、無いんだよぉ!
そんな事して、もし一階の出口近くに死霊がいてみろ。逆に上って来られたら、僕たち終わっちゃうじゃないか!
んな事も分からないの!?だから見捨てられるんだよ!!」
事務長の最後の一言に、ひな菊ははっきりと言い返した。
「パパが……あたしを見捨てる?そんなこと、絶対にないもん!!
あんたこそ、いい加減にして!」
ひな菊は、さっきまで冷静だった事務長がなぜ突然こんなに荒れているのか分からない。
しかもひな菊と竜也にとって、見捨てるなんて言われることは最大の侮辱だ。二人とも、お互いのために生きているようなものなのに。
だが、事務長は悪鬼に取りつかれたようにひな菊をあざける。
「ああん?君こそ現実を見ろよ。
誰よりも大切な君を守る僕に、社長は銃をくれなかったの!
つまりこれって、どっちも死んでいいってことだよね?君も僕も、所詮社長にとってその程度ってことだよ!」
「違う、パパは……」
ひな菊は何かを言いかけたが、言葉が続かない。
それを見ると、事務長は呆れたようにひな菊を見下ろして言う。
「ほーら、君も反論できないだろ。
それとも何かね、僕は君のために命を捨ててもいいとでも思われているのか!?ハッ、とんでもない人使いだ!
僕は、その手に乗らん!
こうなったら、君をどう使っても生き延びてやるぞ!!」
事務長はひな菊を乱暴に蹴飛ばし、腕を掴んでひねり上げる。もはや事務長にとってひな菊は、自分が生きるための生贄でしかない。
「だからよ……だからパパは、予備の銃を持たなかったのよ!」
苦しい息とともに、ひな菊は悔し気に漏らした。
竜也がひな菊を守るために全力を注いでいた、それは事実だ。
社長室の頑丈な扉や壁、それに他人が知らない非常脱出口はその表れだ。他にも、竜也は過剰とも言える防御をひな菊のために施している。
非合法なことを行う元犯罪者の部隊や反社とのつながりだって、ひな菊のための装置だ。こちらは、攻撃は最大の防御とかいう方だ。
だが、銃だけは話は別だ。
竜也は、最後の切り札とも言える銃をたった一挺しか用意しなかった。
これは、別にひな菊を守る優先度を下げたとかそういう話ではない。むしろ竜也は、ひな菊のためにこうしたのだ。
なぜなら、銃はとても強力な諸刃の刃だから。
建物の防御は基本いくら固めても、ひな菊を害することはない。
元犯罪者や反社は少しそのリスクがあるが、自分無しで生きられないようにしたり、逆に適度に距離を置いて難を逃れることができる。
しかし、銃は……本当に簡単に、一瞬で人を殺す。
そんなものがひな菊に向けられたら、どうなるか。
竜也は、それを何より恐れた。
そして銃は、使い手を選ばない。安全装置が外れて弾が入っていさえすれば、素人でも簡単に人を殺せてしまう。
そんなものを、自分の手に収まる以上に用意しておいたらどうなるか。自分以外が使えるようにしておいたら、どうなるか。
銃口が向くのは、ひな菊の敵ではないかもしれない。
ひな菊自身かもしれない。
もし自分やひな菊を恨む者にそれが渡ったら、ひな菊の命は簡単に失われる。いや、情報だけでも警察に漏れれば、社会的に終わりだ。
妻を人の恨みで失ったことで、竜也はそのリスクを身に染みて分かっていた。
だから、たとえ非常時にひな菊を守る者が銃を持てなくなっても……竜也はその最強の矛を自分の分しか用意しなかった。
「さあ、大人しくしろ、お飾りの疫病神が!」
髪と両腕を掴まれて扉の前に引きずられながら、ひな菊は思う。
(パパ、ありがとう……こいつが銃を持たなくて、本っ当に正解!
危ない時ほど、人間なんて信じられるもんじゃない……パパの言う通りよ!)
銃は平時でも危険と隣り合わせだが、非常時にこそ使い手による危険は比べ物にならない程増す。
非常時に、自分が瀬戸際に追い詰められて冷静でいられる人間は多くない。
平時は信頼できる人間でも、非常時にその保証などないのだ。
この事務長も平時は沈着冷静な切れ者だが、調子に乗ったり強い危機感に晒されると判断を誤ることが時々あった。
竜也は、事務長がこうなる可能性もきちんと考えていたのだろう。
もしひな菊を狙う者を相手に危険な状況になった時、ひな菊を守り手の手で殺してしまえば守り手は助かるから。
特に今宵の黄泉との戦いにおいて、それは非常に有効だ。
野菊が狙うのはひな菊と陽介、事務長はあまり関係ない。だからひな菊が死ねば、野菊は陽介を狙いに行って事務長は助かる。
もちろんそうなればもう竜也について行くことはできないが、死ぬよりはましだ。
そしてこのような状況で事務長の手に銃があったら……ひな菊は、一瞬で命を散らされていただろう。
それがここにないから、ひな菊の死は猶予されている。
竜也の判断は、本当にこの上なく正しかった。
ひな菊も、今夜どんどん味方を失っていく中でそれを実感していた。陽介も聖子も気のいい社員も家政婦も、誰も自分の下に残らなかった。
結局、信じられるのは自分と最愛の父のみ。
それが事務長の裏切りで決定的となり、ひな菊の他人にすがる弱さを削ぎ落した。
(……結局、パパを信じて一人で逃げるしかないのよ!
パパ、あたし死なない……こいつを死霊に食わせても、絶対パパと一緒になるから!)
首に力を込めて扉の方をにらみつけ、ひな菊はカッと牙をむいた。




