259.幻の女性
竜也とひな菊が今のようになったきっかけの、幻になってしまった女性の話。
幻にしてしまったのは……。
仕事ができすぎて楽しい男の人は、ともすればこうなってしまうのではないでしょうか。余裕があるからこそ妻子と一緒にいようとは、竜也は思いませんでした。
そして起こった、取り返しのつかない悲劇……ここで気づけば良かったが。
小山たち、元犯罪者で構成される竜也の私兵といっていい部隊。
竜也が意のままにならぬ事を強引に動かすために、法を侵してもその身を張って力を振るう尖兵。その存在そのものが、ひな菊のためだった。
「俺たちは知っている、社長がなぜ俺たちのようなのを飼ってるのか。
名誉に関わることだから、言うなっていわれてるけどさ……この期に及んだら、もういいだろ。
むしろあんたたちには、知っておいてほしい。社長がどうしてあそこまでやるのか。そして、知ったうえで社長の罪を考えてほしい」
小山の顔には、同病相憐れむような祈りに似た何かがあった。
ひな菊も、初めから母親がいなかった訳ではない。
この村に来るずっと前、ひな菊が幼い頃、一家は父がいて母がいるごく普通の家庭だった。
ただし、社長の竜也は家にいないことが多く、ひな菊と母は豪邸で寂しく過ごしていた。金がたっぷりあることを除けば、ある種よくある家庭だった。
竜也は子供ができてからも、仕事熱心だった。
むしろ妻と子供に何不自由ない未来を与えてやれるようにと、ますます仕事に重きを置いてバリバリ働いた。
会社はうまくいき、一家はどんどん豊かになる。
それが竜也には何より家族のためのやりがいに感じられて、誇らしかった。
妻や子供と触れ合う時間は少なかったが、それ以上に他の男では与えてやれない富を与えてやれるのが優越感だった。
むしろ、それが男の価値だと思っていた。
家や子供のことは、妻に任せきりにしていた。
妻が疲れた顔で家のこと子供のことを相談してきても、専門家を呼ぶだけで自分は何もしなかった。
その方が、より効率よく解答にたどり着くと思ったから。
妻やひな菊や使用人たちが、もう少し家にいてはどうかと言っても、所詮素人の意見だと論破してますます稼いで見せつけてやった。
自分は会社も家庭も、完璧に支えていると思っていた。
そんなある日、悲劇が起こった。
いつものように社長として忙しく働いていた竜也は、会議中に血相を変えて家のことを報告しに来た部下を後にしろと叱りつけた。
そして仕事が一区切りついて、ようやく報告させたところ……妻の行方が分からないという大変な話だった。
竜也は慌てて家の使用人たちに連絡したが、もう遅い。
不満を持って家出したとか、そんな平和な話ではなかった。
保育園にひな菊を迎えに行こうとしたところでいきなり因縁をつけられ、相手の車に引きずり込まれて連れ去られたという。
程なくして、会社に脅迫状が届く。
莫大な身代金を求める内容で、応じなければ妻を殺すとも書かれていた。
しかし竜也は、良くも悪くも冷静に対処した。
こういう法外な事件を解決するのは警察の仕事であり、自分の役目ではない。竜也は捜査を警察に任せ、自分はいつも通り会社を回した。
ここは法治国家だ、悪い輩の言いなりになることはない。
ひな菊には警護を何人もつけたから、大丈夫だ。
会社として恨みを買っている可能性も探った方がいいと意見する者もいたが、竜也はそれを一蹴した。
だって効率が悪いし、自分に非はないと思っていたから。
妻を殺したって相手にいいことなどないのだから、実際に殺されるなどあるものか。相手はただ金が欲しいだけだ。
竜也がしたのは、ただ最善を尽くせと警察を威圧しただけ。
犯人が直接話をさせろと言ってきても、応じることはなかった。
……結果、警察が犯人の居場所を突き止めたところで、妻は死んだ。
犯人も、死んだ。
犯人は竜也の強引なやり方により、守るべきものを全て奪われていた。その恨みを晴らすために借金を重ねて反社を雇い、竜也の大切なものを奪ったのだ。
竜也は、愕然とした。
こんなに頑張って幸せにしようとしていた家族が、こんなに理不尽に奪われてしまうなんて。
悲しかった。これからずっと自分の家族として何不自由なく暮らすはずだった妻の未来が、消え去ったことが。
怒りを覚えた。自分は法に触れることなんかしていないのに、こんな違法な手段で害されたことに。
失望した。法治国家の安全なんてなかった。警察なんて、本当の修羅場では役に立たないはりぼてじゃないか。
胸が張り裂けるような感情の数々を、歯が軋むほど噛みしめた。
そして誓った。ひな菊だけは、この残酷な世界で必ず守り抜くと。
……しかし、己のやり方を省みた訳ではなかった。
実を言うと、竜也が危機に気づくチャンスはあったのだ。
妻はしばらく前から、嫌がらせを受けているのに相手が分からず怖いと訴えていた。それでも竜也は、どうせいつもの愚痴だと思って側にはいてやらなかった。
家の警備を強化し、ひな菊も心配なら家から出さなければいいと一方的に言った。
妻やひな菊が自分のいない寂しさを外で紛らわしていることなど、ただのわがままだと断じていた。
会社の方でも、かなり強引なやり方で恨みを買っていたのを放置していた。
法に触れていなければ、後は負けても文句を言うなとばかりに。
強引な回収や地上げで商売敵を倒産に追い込み、その会社の機材や建物まで安く買い叩くなどよくあること。
それで相手の家族が離散したとか聞いても、自分の勝利を味わって優越感に浸るだけ。
相手がどれだけ絶望するかなど、考えもしない。
絶望して全てを失った相手が、どんな行動に出るかも……。
竜也は、己に自信を持ちすぎていた。
自分の行動が相手にどんな思いをさせているか、分からなかった。
そういうものをすべて無視して己の思う甲斐性と誇りに突っ走った結果、竜也とひな菊はかけがえのない家族を失った。
それから竜也の行動は、ますます過激になった。
残ったひな菊を何が何でも守ろうと、側にいないのに過保護になった。
そして、ひな菊を敵がいない場所を作って安全に生かそうと考えるようになった。小さな社会を制圧し、そこの全てを使って守れるようにと。
その目的のために新工場と引っ越し先の候補を探し、白羽の矢を立てたのが菊原村。
外からの侵入経路が少なく、村の中で人の結びつきが強く、反社のような危険な勢力はいない。
あるのは生活必需品ですらない花を育てる、温厚な農業組合だけ。
おどろおどろしい伝説とそれに基づく誓約は求められたが、竜也はさほど気にしなかった。
そんなものが本当である訳がないし、一番怖いのは人間なのだ。
むしろこんな迷信塗れの古臭く愚かな連中ならば、都会で反社を相手にするよりよほど楽だ。金と力で、すぐ制圧してやると。
かくして、竜也は全く娘のためにならない村への侵略を開始した。
また、竜也は違法な奴らから娘を守る力を渇望するようになった。
蛇の道は蛇とばかりに反社とパイプを作り、会社の事業でもとにかく力と金を求めて裏で違法行為に手を染めるようになった。
法治国家なんてまやかしだ。警察なんて役に立たない。
なら自分もできるだけのことをしないと、手段を選んでいたら負けてしまう。
竜也のそんなやり方を諫める者もいたが、竜也はそういう者を敵とみなして排除した。だってこいつらは、自分の力を削ごうとしているじゃないか。
家のことを任せる使用人やひな菊の教育を任せる専門家も、自分の意見に沿わない者はことごとく切り捨てた。
自分の正しさを、傷つけられないように。
妻を失ったのが自分のせいではないと、思い続けるために。
そうして自分と娘を脅かす者に対抗するため、自らも違法な拳銃を隠し持ち、見つかるのを恐れて反社御用達の呪術師に霊眼封じを施してもらい……。
元から荒事に慣れた元犯罪者たちを、私兵同然に雇い……。
気が付いたら、竜也は真っ黒に堕ちていた。




