246.自由へ
楓さん、ついに地獄の扉を破って……。
引き留めようとする者はいろいろいますが、楓さんにとってその全てはうっとうしい鎖でしかありませんでした。
息子の陽介も、村人たちも……やったことを考えれば仕方ない。
祖母の代から受け継がれていた呪いの、一つの結末です。
タンッと軽やかに床を蹴り、楓は走り出す。
「くそっ待て!恩知らずが!!」
極悪な社長が何か言っているが、もうどうでもいい。こいつは自分が避けるべき理不尽な災難の一つ、ただそれだけだ。
「貴様ぁ、何も償わず逃げる気か!!」
村の老人が何か喚いているが、あれもどうでもいい。そもそも、おまえらがそうやって責めるばかりだから逃げるんじゃないか。
「てめえらが虐めたからだろうが!」
「どうすんだ!?てめえがウチの分の責任取れや!」
老人は、若い村人たちに逆に詰め寄られている。
だが、これもどうだっていい。むしろもっとやれ。
若い村人たちだって自分のことを影で笑うばかりで、助けてくれなかったじゃないか。だから今度は自分たちで押し付け合って、ボロボロになるがいい。
自分はもう何も引き受けない、何も背負わない。
希望を持ってアメリカへ渡った時のように、自由に飛び立つんだ。
楓は全てを振り切るように、ぐんぐんスピードを上げる。
しかし、それを追いかける足音と共に悲しい叫びが響く。
「行がないで!やべでぐれぇ!母ちゃーん!!」
残された唯一の家族、陽介だ。
あの忌まわしい暴力男に似た、自分の腹から来た息子。幸せな家庭が欲しくて、愚かにも禁忌を破り大勢の人を殺した罪人。
さっきは簡単に流されて、自分をいらないと切り捨てた。
そのくせ今はこの世の終わりのように、自分にすがってくる。
楓は、その時の絶望を返すように言い放った。
「おまえなんか、いーらね!!」
途端に陽介は体が動かなくなって、派手にすっ転んだ。だが、どうせ捨てるんだからもうどうでもいい。
楓は振り向かずに、流れるような動作で玄関の扉を開け放った。
自分を押し込めようとするように妙に重い扉を、渾身の力で押し開ける。
すると、その向こうにいた奴が尻餅をついて悲鳴を上げた。
「きゃあ!?」
黒字に色とりどりの菊模様の着物と、頭にきらきらと輝く簪。楓が猛に抗うきっけになった、初めて戦った大罪人の少女だ。
行きがけの駄賃とばかりに、楓はその頭から簪をむしり取る。
「イヤッお父様……の……!」
「うるさい、どけっ!!」
これまでのうっぷんをぶつけるように、これからの未来の足しに少しでもなるように、楓は死霊からすら金目の物をかすめ取る。
それをポケットに入れつつ前を見ると、同僚だった死霊たちがわらわらと群れていた。一緒に竜也にこき使われ、気づかぬまま死んでいった仲間。
「あたしは、あんたたちみたいにならない!!」
決別の言葉と共に、楓は最小限の動作で自分のためだけの道を開けさせて走る。
死霊たちは恨みがましく手を伸ばしてくるが、そんなものには捕まらない。自分は自分の生を生きると、決めたのだ。
(恨みは、社長に晴らしてよ!
あたしの分まで……食い散らかして!)
むしろ死霊たちにエールを送って、楓は死の手をすり抜ける。
目指すは、赤い月が照らす工場の塀。
それが今は、自分を閉じ込める監獄の塀に見えた。あれを越えれば、自分は何もかもから解放されて自由になれる。
高さ三メートル近い、コンクリートの塀。
月が西に沈みかけているせいで、近づくのを拒むような長く広い影ができている。
だが楓は、それをものともせず駆け込んだ。今さらそこに何かいて噛まれようが、知った事ではない。
今この状況から抜けられるなら、何がどうなってもい。
楓は棒高跳びの要領で棒を構え、目で距離を測って歩幅を整える。
そしてここだと思った瞬間、棒を勢いよく突き立てて地面を蹴った。
「たああぁーっ!!!」
気合の入った掛け声とともに、楓の体が高く宙を舞う。
空中でもしっかりと棒を握って力を伝えながら体勢を調整し、かつて新体操の星であった才能を見せつける。
だが、あと少しで塀に届こうかというところで、棒が折れた。
「あっ……!」
見ている者たちは、思わず目を覆った。
あんなひどい目に遭って逃げ出そうとしても、結局叶わず散ってしまうのか。黄泉の神が笑う今宵の運命は、かくも残酷なのか。
しかし、楓は諦めなかった。
全力で手を伸ばし、どうにか塀の上に爪をかける。だが次の瞬間、体の重さに耐えきれず爪がはがれる。
「ぎぃえええ!!」
叫びながらも、楓はそのわずかな間にもう片方の手を塀の上にかけていた。
それから自慢の脚力で塀を蹴り、強引に上半身を塀の向こうに押し込む。楓の体がくの字に折れ曲がり、ゆらゆらと揺れる。
「楓さん、頑張れーっ!!」
そこに、根津の声援が届いた。
楓は必死で膝を折り曲げ、上半身を伸ばして重心を外側にもっていく。
「あたしは……行くんだ!もう一回、飛ぶんだ……!」
ズルズルと楓の体が、外側に滑っていく。このまま落ちれば頭からいく姿勢だが、楓は恐れなかった。
(大丈夫、あたしなら行ける。ここから出れば、どこへだって)
皆が固唾を飲んで見守る中、楓の姿は高い塀の向こうに消えていった。
赤い月が導く呪いを振り切った、一人の強い女の脱出劇だった。




