234.真の罪
やりきれない罪を犯した白菊姫と野菊の、心の会話。
野菊がこんな状況でも良かったと思ったのは、何だったのでしょうか。
白菊姫が、自分の身に起こった惨劇を通して知った、人の弱さと本能による救いのない事態とは。
(大丈夫よ、白菊……あなたは悪くないわ)
野菊はまず、白菊姫を慰めた。
(お腹が空けば、人は持てる全てを総動員してそれを満たそうとする。当たり前よ、だって人間は食べないと死んでしまうんだから。
本来、知恵は生きるためのものだわ。
本能のために知恵を使うのが、生き物としてあるべき形なのよ)
そう言ってやると、白菊姫の中の自己嫌悪が和らいだ。
本能なら仕方ない、元々人間がどうなっているなら仕方ない。己の罪を軽くするその言葉は、白菊姫が何より欲しているものだ。
(ねえ……衣食足りて礼節を知るって言うでしょう。
裏を返せば、寒くてお腹が空いていたら人間らしいことなんて考えられないってこと。何としても衣食を得ようとして、ほとんどの人の心は獣になるわ。
あなたもさっき、そうなっていただけ)
すると、白菊姫の心から複雑な葛藤が伝わってきた。
それなら自分は悪くないけれど、自分が獣同然になったと認めるのもみじめだ。武士として教養人としてのプライドが、まだごねている。
そこで野菊は、もう一押し。
(だから悪いのは、あなたをそんな状態にした呪いよ。
人は飢えに抗えない、当たり前のこと。誰だって自分が生きたくて、生きるためには我を忘れるものだから。
みんな、同じ状況になれば多かれ少なかれそうなる。
それを分かっていて……ひどい呪いね)
この一言で、白菊姫の中の罪悪感がだいぶ軽くなった。
代わりに、猛烈な怒りが湧き上がる。
(そうじゃ、わらわは本来そんなひどい人間ではない!
わらわは、させられたのじゃ!こうなるように追い込まれて、罪を犯させられたのじゃ!人から生きる糧を奪って人の心をなくさせるとは、何たる邪悪な……)
そこで、白菊姫は烈火の如き怒りを野菊に向けた。
(わらわをそのように呪ったのは、おまえではないかえ!?
わ、わらわにこのような罪を犯させて、何が友達じゃ!貴様など、人の風上にも置けぬ鬼畜じゃ!
ひ、人に……こんなひどい思いをさせておいて……手を下していないからと、友達面など……!!)
白菊姫は、裏切られた思いで一杯だった。
野菊は友達だからと慰めてくれたが、そもそもの元凶は野菊ではないか。野菊がこんな呪いをかけなければ、自分は人を食い殺さずに済んだのに。
いくら本能だから悪くないと言われたって、自分が卑劣なやり方で恩人の命を奪ってしまった事実は消えない。
自分への失望や嫌悪、心の傷は消えない。
そんなものを自分に与えて、それでも友達面するなんて。
何て面の皮が厚い、人を人とも思わぬ極悪人ではないか。
こんな女を今まで友達だと思っていた自分が、馬鹿みたいだ。いくら自分に無知ゆえの罪があったとしても、ひどすぎる虐めだ。
(よくも、わらわにこんな事を!!
貴様など、友どころか同じ人間ですらないわ!鬼め!!)
だが、そう責められても野菊は落ち着き払っていた。
(ふふふ、そうね……我ながらひどい罰だと思うわ。
でもね、同じ人間じゃないってのは言い過ぎじゃない?だって私とあなたは、今は同類なんだもの)
(ど、どこが!?)
憤る白菊姫に、野菊は告げる。
(だってあなたも、あの時村中の民に同じことをしたじゃない。
あなたが水を独り占めしたせいで、何百人もの人間が同じ思いをしたのよ。でもあなたは笑って、貧乏人は心が荒んでるからとか菊を見ればとか言って取り合わなくて……。
何百人もそうしたあなたに比べれば、たった数人の私なんてまだまだよ)
(へぁっ!?)
その瞬間、白菊姫の世界が真っ逆さまになった。
だって、野菊の言っていることは正しい。自分は確かにあの時、村人たちの水も食べ物も奪って多くを死なせてしまった。
野菊に言い放った責めが、百倍になって自分に返ってくる。
そうだ、自分は既に……野菊の所業が足元にも及ばぬような、大罪人だ。
急に黙り込んだ白菊姫の心から、さっきとはけた違いの恐怖と後悔が伝わってくる。ようやく気付いたかと、野菊は思わず微笑んだ。
そして、必死で考えるのを止めようとしている白菊姫に突きつける。
(極限まで飢えると人はどうなるか、分かってもらえて何よりだわ。
あんな短い時間でも、あなたは我を忘れて恩人に無道を働いた。どんなに心で嫌だと思っても己を叱っても、止められなかった。
じゃあ、何か月も飢えていた村人たちはどんな気分だったかしら?
一時満たされて後悔して、それでもまたすぐに飢えて思考がねじ曲がって、それを何回も何回も繰り返して……)
その残酷なささやきに、白菊姫の心は激震のように震え軋む。
(ひっ……そ、そんな……わらわは、あのような思いを……!!)
(そうよ、村中のみーんなにさせたの。
それはもうたくさんの村人が、身内や大切な人につらく当たって自分を嫌いになった。
自分が生きるために、他の人から食べ物を盗んだ人もいた。腹を満たして我に返ったら、泣いて自分を捕らえて殺してくれと言ってきた。
空腹に耐えられず、泣いて大人にすがりついて親を餓死させた子もいた。自分に食べ物を譲ってくれる優しい人を、何人も。
自分の家族を守るために、そんな他の家の子供を叩き殺した人もいた。でも結局それでも足りずに一家全員飢え死にして……)
野菊にささやかれながら、白菊姫は思い出していた。
自分に何度も水を解放してと訴えに来た時、野菊はそれはもう痛ましい顔でそんなことを言っていた。
だが、自分は民の弱さと性根の悪さだと決めつけて呆れていた。
自分の菊でその荒んだ心を癒してみせると、見当違いな使命感を抱いていた。
自分がその元凶であることも、それをやめさせるものを握っていることも、どんなに辛い思いをさせているかも知らずに。
(わ、わらわは……何たる、おぞましい……残酷な、ことを……!!)
自分が同じ思いをして、ようやくどうしてそうなったかが分かった。
白菊姫は今、己の真の罪の重さを理解した。




