231.求めに応じて
中途半端な黄泉の力で、理性がありながら抗えない飢えに襲われる白菊姫。
何も考えられなくなることより、こっちの方が遥かに辛い。
そして、理性が残るということは解決法を考えてしまえるということ。
人とのコミュニケーションが取れてしまうということ。
それを人に……誤解されてしまうということ。
一方の白菊姫も、康樹の姿を見た途端すさまじい衝動に襲われた。
(あ、ああぁあ肉、あんなにぃ!!食いたっ……食わせろおぉ!!)
白菊姫の唇を、あふれた涎がてらてらと濡らす。体中が引きちぎられて消えてしまいそうな、圧倒的な飢餓感に思考が塗りつぶされそうになる。
(い、嫌じゃ嫌じゃ……来るな!
いや来い!……違うっ……食っては……食う訳には……!)
どんなに抗おうとしても、足は窓から離れようとしない。身を突き離そうと壁についた手は、かくんと曲がって顔を窓にすり寄せる。
生前は太った男など見苦しいと好きではなかったのに、今はあのでっぷりとしたお腹がたまらなく魅惑的に感じる。
あそこには、どれだけの血肉が詰まっているのだろうか。
歯を立てて食いちぎったら、どれだけ満たされるだろうか。
その瞬間が勝手に脳内で展開され、それを実現することしか考えられなくなる。
(い、嫌じゃ……わらわは、そんな……獣になど……!
き、菊……わらわが好きなのは……は、腹が満たされぬではないかぁ!そうじゃ、脂ッ気の多い肉は、菊酒によく合おうなあ……)
懸命に頭の中に思い描いた菊は、血肉の宴席の添え物になってしまう。
嫌なのに、おぞましいのに、はしたないのに……だから何だと食欲が全てを蹴散らしてしまう。白菊姫にとって、こんなのは初めてだった。
体から生じる欲が、言う事を聞かない。どうしても抑えられない。
どうしたらいいか分からない。
そうして窓に張り付いたままの白菊姫に、あろうことか中の男は寄ってきた。
男が近づいてくるほど、白菊姫の凶暴な衝動は増していく。すぐにでも手を伸ばして、あの豊かな肉を掴んでかぶりつきたくなる。
白菊姫は残った理性を総動員して、拳を握りしめた。だが次の瞬間には、腕がそれを窓に叩きつけようとする。
そんな白菊姫の心中などいざ知らず、康樹は声をかけた。
「もしや、白菊姫様ですか?」
不意に名前を呼ばれて、白菊姫ははっとした。
目の前のこの男は、自分を攻撃してきたり逃げ出したりしない。それにかつて仕えていた者たちのように、様付けで呼んでくれた。
この男は、自分を憎んでいないのか。自分が怖くないのか。
白菊姫の絶望に沈みそうだった心に、光が差した。
(あ、あぁ……こんなわらわに、寄ってきてくれる……食ワレテクレル……?
ならば、わらわをっ……この、苦シミヲ、ドウニカシテ……!)
半分飢えに支配された心から、白菊姫は叫ぶ。
「た、頼む……助けて!!腹が減って……後生じゃ!!」
もしかしたら、助けを求めたら助けてくれるだろうか。自分のこの飢えを、何とか満たしてくれるだろうか。
それとも、自分が飢えていることに気づいて逃げるだろうか。
どちらでも良かった。
飢えと人の心両者が前者を求めて、人の心は後者でも良かった。飢えは、とにかく気を引いて中に入れてくれさえすればとも思っていた。
すると、中の男は心配そうな顔をした。
「飢えている……やはりゾンビは、避けられないのか?」
白菊姫は、人としての安堵と飢えの不安に同時に襲われた。もしこれで引かれたら、相手を傷つけずに済むが自分の苦痛は消えない。
だが中の男は何かを決心した顔で、頼もし気に言った。
「いや、愛しの白菊たんが助けを求めているんだぞ!
それに、しゃべっているなら理性があるということ。
よろしい!ならば今から助けて差し上げましょう。姫様が人の言葉で助けを求めてくれたこと、無駄にはしません!」
そう言うと、男はくるりと向きを変えて大きな箱のようなものを開けた。中から取り出した肉色のものを、皿に載せて床に置く。
まもなく、白菊姫の側にある扉から鍵が外れる音がした。
「さあどうぞ、姫様!!」
飢えた獣を止めていた扉が、開け放たれた。
白菊姫がしゃべって助けを求めた時、康樹の胸に電流が走った。
(よっしゃあああ理性のあるゾンビキター!!)
康樹自身、ゾンビに対する警戒はしていた。もし理性のないゾンビだったら、ドアを開けたが最後、自分の命はないだろうと。
しかしどうやら、白菊姫はそのタイプではないように見えた。
しゃべるということは、人としての意識と思考が保たれているということ。これなら飢えもある程度我慢できるだろうし、人を食う以外の解決法を提示できる。
(確か、冷蔵庫に肉はあったな)
康樹はすぐに、白菊姫に与えられる食べ物のことを考える。
ゾンビである以上、一番欲しいのはやはり生きた肉だろう。だがゾンビ映画の中では、それ以外の肉を食っている場面もある。
死んではいるが、火を通していない牛か豚の肉ならある。どうせ停電で冷蔵庫は止まってしまったし、使っても文句は言われないだろう。
康樹ははやる胸の赴くままに、冷蔵庫から肉を取り出した。
(ハァッハァッ白菊たんに餌付け、いやごちそう!
これは愛のフラグですぞぉ!)
康樹の頭の中は、モンスター娘系のピンクな妄想で満たされていた。
ヒロインの求めるものを与えて好感度を上げるのは、ギャルゲーの定番ではないか。しかもその欲求が大きい程、好感度も大きく上がる。
ここで白菊姫を飢えから救ったら、自分をどれだけ好きになってくれるだろうか。
(ハッハアァ……白菊たんが、僕の与えるもので満たされるゥ!
そうしたら僕は、本能の恩人!
いっぱいお話ししてお写真も撮らせてもらって、できればお触りも……この世に神はいたのだぁ!)
康樹は完全に姫君を救う騎士の気分で、勝手口を開けた。
「さあどうぞ、姫様!!」
これが神の導きかと問われたら、確かにそうかもしれない。
しかし白菊姫の背後にいて力を伝えているのは、愛の神などではなく悪意と呪いにまみれた黄泉の神であった。




