230.夢の恋人
家の中にいた康樹が、白菊姫に食われてしまった驚きの真相とは。
呪われた夜のボーイミーツガール。
出会ってはいけない二人が、出会ってはいけない状態で出会ってしまった。
女に狂う男の情炎は、時としてあってはならない行動に男を駆り立てる。そしてこういう時でも、一夜限りという限定シチュは強力だった。
ともかくこれで、意図せず強烈な飢えに襲われた白菊姫が康樹を食ってしまったことが分かった。その後野菊が気づいて白菊姫に宿り、ここに来たことも。
だが、まだ分からないことはある。
「しかし……康樹は家に戸締りをしていたはずだぞ。
一体どうやって中に入ったんだ?その姫君の体に、窓やドアを壊すほどの力があるとは思えんが……神通力か?」
大樹の父は、涙を拭いながらも首をひねる。
康樹が自分たちと同じように外をうろついていたなら、ばったり遭遇してこうなることは十分考えられる。
だが康樹は、鍵をかけた家の中にいた。
白菊姫は、どうやって中に入って康樹を襲ったというのか。
その問いに、野菊はひどく悲しそうかつ気まずそうな顔をした。
「そうね、私もそこが考えられなかったのよ。白菊が飢えていても、人間が戸締りをして隠れていれば大丈夫だろうって。
でも、そうじゃない……いえ、むしろあんな事もあるのね」
野菊は少しためらって、告げた。
「信じてもらえるか分からないけど……この男は、自分で戸を開けて白菊を迎え入れたの。
白菊がしゃべって助けを求めたから、理性のあるゾンビは大丈夫だとか言って。
白菊の中に入った時、あの子は泣きながら自分の記憶を見せてくれた……私自身もどうにも信じられないのだけど」
それを聞いた瞬間、大樹と両親は唖然とした。
だが残念なことに、康樹に限っては想像できなくもない……いやむしろありありとその様子が目に浮かぶようだ。
康樹は常々美少女が大好きで、ゲームに溺れ夢ばかり見ていた。
そして前々から言っていたではないか……白菊姫とやらに一度会ってみたいと。
今宵の残酷な赤い月は、康樹のその願いを叶えた。そしてその代償に、康樹自身を黄泉へと引きずり込んでしまったのだ。
白川鉄鋼で野菊が倒れた時、白菊姫にぼんやりとだが意識が戻った。
(う、う……ここは?一体、どうなっておる?)
だが白菊姫が状況を考える前に、すさまじい空腹感が襲ってきた。
(ぐううぅ……は、腹が……に、く……肉を、食いたいいいぃ!!)
まるで腹の中が抉られ、虚無に吸い込まれていくような激烈な飢餓感。もはや空腹感とはかけ離れた、全く別の感覚のようだ。
だが、本能は理解して叫ぶ。
体が求める食物を腹に入れれば、このとてつもない苦痛は去ると。とにかく早く人間の肉と生き血を、貪って流しこめと。
(い、嫌じゃ……食いとうない!
わらわは、人間など……菊を育ててくれる、この村の人間は……!)
白菊姫は、必死で抗おうとした。
だが、今のこの飢えはさっきの比ではない。菊のことを考えようとしても塗りつぶされてしまうほど、それしか感じられない。
程なくして白菊姫は悟る……このままここにいれば、自分は飢えに負けると。
(ああぁ……離れねば!わらわが、耐えられなくなる前に!!)
ちょうどそこに、白川鉄鋼の死霊を誘導する車が出てきた。白菊姫は音と動きに反応する本能に身を委ね、他の死霊と共にそこから離れた。
だが、白菊姫が誘導されたのはご存知の通り住宅街である。
白菊姫はここが人の住みかであると分かって、戦慄した。
しかし、もう白菊姫の足はここを離れられなかった。そこここから漂ってくる人間の血肉の匂いに、蜜のように引かれてしまう。
白菊姫はだらだらと涎を垂らしながら、立ち並ぶ家の間をさまよった。
どこかに窓や戸の開いている家はないかと、他の死霊と同じようにガリガリ爪を立てながら。しかしわずかに残った理性で、そんな家はない方がいいと願いながら。
そうしているうちに、とある家の窓から漏れるチラチラ揺れる光を見つけた。
その窓から中を覗き込むと……中にいた男と目が合ってしまった。
康樹は真っ暗な家で、暇を持て余していた。
さっきスピーカーからの歌謡曲が途切れると同時に家が停電し、テレビもゲームも使えなくなってしまった。
これは康樹にとって非常事態だった。
いくら外をゾンビがうろついていようが家族が外にいようが、ゲームの美少女と付き合っていればいくらでも起きて暇を潰せたのに。
それができなくなってしまった。
愛しの美少女たちとの癒しタイムが、台無しにされてしまった。
「さて、どうするべきか……何もやることがないぞ。
外に出るのは論外だし、かといって眠ってしまうのももしもの時を考えると危険だ。そうだ、とにかく明かりの確保を……」
康樹は懐中電灯を取りに、一階に降りた。
それからついでにお菓子を取りに行こうと思い立ち、台所に行った。懐中電灯で辺りを照らしながら、棚の中を物色する。
その時、窓の方でコツン、と音がした。
「何奴っ!?」
さすがの康樹も、この時は驚いた。
一階にいるということは、ゾンビと同じ高さにいるということ。光源を持っているせいで、気づかれたかもしれない。
すぐ窓が破られることはないと思うが、それでも緊迫感で胸がバクバクした。
しばし冷や汗を流しながら息を潜めて、康樹はゆっくりと振り返る。
本当は振り返らずに退散するべきかもしれないが、本当に死霊なのか確かめておきたかった。それに、安全な所にいるからこその怖いもの見たさもあった。
前々から伝説があったとはいえ、本物が出るのはおそらく今夜だけ。神社では慌てすぎて、じっくり見ている暇などなかった。
高鳴る胸を押さえて康樹が振り返り、懐中電灯の光を向けると……白く濁った目と目が合った。
そしてその上には、一輪の白菊が挿してあった。
康樹は、思わずその姿をじっと見つめた。
血の気の抜けた白い肌を際立たせる、長い黒髪。そして窓からは上半身しか見えないが、まとっているのは黒っぽい着物。
それが怪しくはだけて破れて、胸のささやかなふくらみが見えかけている。
その肌には所々に傷が刻まれ汚れているが、それもまた背徳的な飾りのように見えた。
死んでいるとはいえ、基本は整った美少女。かつては大事に育てられていた姫がこうして乱れた姿は、それだけで無常を感じさせる風情がある。
康樹は、信じられない顔で呟いた。
「まさか、白菊たん……?」
いつの世にも、手の届かぬ女に恋をする男はいるものだ。
例えばアニメやゲーム、漫画の中の作られた女。他には、伝説上や既にこの世にいない歴史上の人物など。
そういう相手は、男の妄想でいくらでも美化されていく。
実際に付き合うことで突きつけられる面倒や幻滅がないから、どこまでも深く恋することができる。
ではそんな相手が、一夜だけ現実に出てきたらどうだろうか。
ずっと長くいるなら、少しは冷静になって考えられるかもしれない。だがたった一夜なら、狂喜して時を惜しむように手を伸ばしてしまう。
すぐ消えてしまうというのは、それだけで魅力になるものだ。
康樹の前に現れた白菊姫も、一夜で失われてしまう美しい花。
いや、明るい日の下で見れば腐乱死体の気持ち悪さがよく分かるかもしれないが……今村を照らすのは呪われた赤い月。
非日常の弱い光の中で、見えづらいからこそ美しく感じるものだ。よく見えなければ、そこは妄想が補完してしまうから。
思わぬ実物との遭遇に、康樹の胸は高鳴りっぱなしだ。
さすがに触れるのは危険だが、窓越しに見るだけなら大丈夫だろう。
康樹は集蛾灯に引き寄せられる虫のごとく、フラフラと白菊姫のいる窓に歩み寄った。




