196.母の本性
ついに家から追い出されてしまったクメですが、彼女はかえってせいせいしたと思っていました。
なぜなら、これで自分は自由になったから。
クメは娘思いで大人な女性ですが、これまでの言動でどこか違和感を感じませんでしたか?本当に子ども思いなら、クルミがあんな風になると思いますか?
クメの人格と子育てにも、実は見えていないだけで大問題があったのです。
クメは意外にも、素直に離縁を受け入れた。
クメ自身、何を言っても通じない夫と周囲が心底嫌になっていたからだ。だったらもう、あんな奴らいない方がいい。
わずかな金を渡されて司良木家を出て行くクメの顔には、笑みが浮かんでいた。
「ああ、ようやく私のやりたいようにやれるわ!
向こうが放り出したんだから、もう私は自由よ!」
クメは、足取り軽くかつての家族に背を向けて歩く。
「全く、私は幸せになるためにあんなに我慢してきたのに……いくら耐えたって、幸せになんかなれっこないじゃない。
我慢して尽くせなんて、男どもの都合のいい理屈でしかない!
あの人も優しいように見えたけど、クルミがちょっと言う事聞かなかったからってすぐ見捨てて……結局、望むように動かすことしか考えてないのよねぇ!」
クメの口からは、かつての夫や周囲への愚痴が止めどなくこぼれだす。
しかし、放り出されたというのにその顔は晴れやかだった。
だって、自分はもう我慢しなくていい。
自分が正しいと思う事を押し殺して、良妻賢母でいなくていい。もう誰のものでもないから、誰に口出しされることもない。
クメにとって、それはとても開放的で喜ばしいことだった。
クメはいつも、我慢させられていた。
少しやんちゃなことをしようとすると、すぐ父に殴られて心が折れるまでなじられた。母も、それを止めてくれなかった。前時代の武家は、だいたいこんなものである。
ずっとそういう育て方をされて、クメは怒られるのに怯えて大人しくなった。
父も母も、そうして大人しくしていた方がよほど幸せになれるからと言った。
だからその両親に金目当てで商人とくっつけられた時も従ったし、武士より劣ると思っている商人の夫にも従った。
実際それでいろいろなことがうまくいったし、幸せな家庭を築けたから。
しかし、クメの中で自由に生きたい、やりたいようにやりたいという思いはずっとくすぶり続けていた。
そんな中生まれたのが、長女のクルミだ。
クメは娘を腕に抱きながら、この子には自分のような思いをさせたくないと思った。
幸い、夫は寛容だった。娘の育て方についても、旧態依然の従うだけの人形にするのではなく、自ら学び時代と共に進化するよう育てたがった。
「ああ、そんなに縛り付けるつもりはない。
多少の失敗ややんちゃは構わんよ、そこから学ぶことに意味があるんだ。
僕はね、クルミにも主体性を持って成長してほしいんだ。僕たちが埋められる程度の失敗なら、させても構わんさ」
それを聞いた時、クメは天からの光を見たようだった。
クルミは自分と違い、理不尽に押し潰されることなくのびのび育つことができる。
ならば、自分はクルミが自由でいられるように精一杯頑張ろう。クルミにはかつての自分の分まで、自由を謳歌してもらおう。
クメは、自分の押し殺してきた思いをクルミに託したのだ。
この時から、クルミはクメにとって自由な自分の分身になった。
クルミが天真爛漫に振舞うのを見て、クメは自分のことのように嬉しかった。
だからクルミが何か失敗した時、できるだけクルミが辛くならないように自分が駆け回って頭を下げて尻拭いをした。
クルミがひどく怒られてしょげているのを見ると、昔の自分を思い出して辛かったから。
クメはクルミの心が折られないように、懸命に守った。そして、他の人に叱られたクルミをこう言って励ました。
「大丈夫よ、ちょっと失敗したくらいで。
失敗なんて誰でもするもの、それも含めて最終的にどれだけいいことが残ったかで人は決まるんだから。
失敗したら、それを取り戻せるように他のことを頑張りなさい!
辛いことがあったら、いつでもお母さんが守ってあげる!」
それを聞いて、幼いクルミは目を輝かせて母に感謝した。
その笑顔を見て、クメも心の底から幸せだった。娘の笑顔に、あの日潰された自分の笑顔が重なって見えて。
このためなら、いくら自分が頭を下げても代わりに叱られても、苦しくなかった。
おかげでクルミは、抑圧されることなく自分の意志のままに育った。
……が、その心はいつまでも幼い子供のように自分中心で根拠のない全能感にあふれ、他人のことを考えることを覚えなかった。
当たり前だ。クメが何でもかんでも尻拭いをして守ってしまい、失敗した時に向き合い反省する機会を奪ってしまったからだ。
だからクルミは、母親が謝っている以外に誰がどんな迷惑を被ったのかよく分からなかった。何がどう悪かったのか、知ることがなかった。
そのせいで、失敗なんてどうにでもなると侮っていた。
そもそも、クメも小さな失敗だけでメチャクチャに怒られて萎縮したため、大きな失敗がどんなものか知らなかったのだ。
失敗から学ばせろという夫の方針を、クメは理解していなかった。
ただ自由にやらせろと勘違いし、クルミに反省を教えなかった。
しかし、仕事が忙しく家を空けることが多い夫はそれに気づかない。たまに帰ってくると、クルミがいい成績を取ったりうまく料理を作ったりするのをほめてくれる。
クルミは確かに、勉強や家事はよくできた。
他のことで取り戻せというクメの言葉に従い、他人の都合を考えなくてもいい、ただ繰り返せばうまくなることを頑張ったからだ。
それで娘と夫が笑顔になったのを見て、クメは自分の子育てが正しかったんだと確信した。
クルミは優秀で、かつての自分も救われた。これで万々歳だ。
ほら見ろ、自分はちゃんと思うようにやってうまくいったじゃないか。あんなに自分をいじめた両親め、ざまあみろ。
……クメにとって大事なのは、自分の分身が自由で笑顔でいること。
その育て方が歪んでいる、子の成長を奪う過保護であると、クメは気づかなかった。
気づかないうちにクルミは他人のことを全く考えずいう事を聞かず、取り返しのつかない失敗をして最悪の終わりを迎えた。
それでも、クメは自分が間違っていると思わない。
クルミの惨劇を夫と村のせいにし、これまでの我慢と尻拭いを全部無駄にされたと憤った。
その身勝手さは、まさしくクルミと同種のものだった。




