195.堕ちる母
娘が終わって、母の方の惨劇に入ります。
娘の後始末も大変だが、これで終わればまだ良かった。
クルミが無様に世を去った後、クメは悲しみに心を病み、壊れていきます。
そんなクメに家も会社も壊されそうになり、社長のとった決断は……。
それから司良木製糸は、村から撤退した。
社長にそんなつもりが全くなかったとはいえ、あそこまでのことを娘がしでかして村にいられる訳がない。
そのうえ、亡くなった村人たちの賠償金も請求され、借金すら背負ってしまった。
同じく大罪人の身内である宗次郎も少し賠償を肩代わりしようとしたが、平泉家、泉家の財産はほとんど宗太郎に食いつぶされていた。
そのため宗次郎は、村の者の兵役を自分と息子で肩代わりするという過酷な償いをせねばならなかった。
だが、そうして体を張って償う分村人たちの同情は得られたのだろう。
逆に、金でしか解決できない司良木家は責めて責めて責め抜かれた。
せっかく村に建てた工場をそのまま他社に売ることも許されず、工場は解体され運べるものだけが近くの村の外の工場に安く買われた。
会社都合で解雇するため女工たちに退職金を払わねばならず、さらにクメが怪我をさせた女工たちから治療費と慰謝料も請求された。
いかに時流に乗って財をなした司良木家といえども、とんでもない額の打撃である。
司良木家はこれから何年にも渡って、借金を返していかねばならない。司良木家はまだ他に工場を持っているが、容易ならぬ道であった。
それでも、司良木社長も宗次郎もまだ再起不能ではなかった。
司良木家の借金はかなりの額だが、倹約に努めて経営に励めば長くかかるが払いきれない額ではない。
宗次郎も息子の一人は跡取りとして村に残しているし、村人たちも泉家の誠意は認めてくれている。
このまま順調に時が過ぎれば、お互いの傷は癒えるだろう。
いつかその時が来るのを願って、二人はそれぞれ前を向いて険しい道を歩んでいった。
そう、ここから先何もなければ、まだ良かったのだ。
しかし、クメはどうしても娘の罪と死を受け入れられなかった。
クメはこれまでいろいろ我慢を重ねて、クルミを育ててきた。その大切な我が子を目の前で奪われて、もう我慢などできる訳がなかった。
そのうえ、クルミを見捨てた夫が前を向こうとしているのが許せなかった。
「あの人は一体何を考えてるの!?どうしてあの子のいない未来に、そんなに頑張って進もうとできるの!?
あの人は、クルミのことなんて可愛くなかったの!?
ええ、きっとそうに違いないわ!!
でなきゃ、あの時私を止めたりするもんですか!!」
クルミが神社の前で野菊のとどめを刺された時、クメは武器を取って飛び出そうとした。しかし、司良木社長は工場の男衆に命じてそれを止めさせたのだ。
そのことが、肥溜めのような憎悪と失望を発し続けていた。
会社なんて俗なものの、金なんてまた稼げるもののために、夫は娘を見殺しにした。娘を助けようとする母の心を踏みにじった。
夫として、父として許せない。
これまで自分たちに優しくしてくれたのは、嘘だったのか。
しかしクメがそう言って責めると、夫はとても困った顔でこう言うのだ。
「あのな、クメ、これは僕たちの家庭だけの問題じゃないんだ。
工場とか会社とかはな、そこで働く人の数えきれない家庭を支えているんだぞ。そこにはおまえと同じような子を思う母や、大事な子がたくさんいるんだ。
私たちがここで自棄になったら、たくさんの母や妻を辛く苦しい日々に追い込むんだぞ!
おまえは、それでいいと思うのか?」
そう言われても、クメには理解できなかった。
むしろまた会社のことに話をすり替えてと、烈火のごとく怒るばかりだ。
夫がどんなに根気よくなだめようとしても、周りがどんなに諫めようとしても、クメにはもう娘を失った悲しみしか見えていなかった。
自分のどれに従った行動で周りがどんなに迷惑しても、もうどうでも良くなってしまった。
その様子は、誰に何を言われても己の身を信じて突き進んだ娘のクルミによく似ていた。
クメと夫の中は、坂道を転がり落ちるように悪化していった。
夫はそれでもクメを諭そうとしたが、頑張って諭そうとするほどクメは怒り狂う。そのうち、クメは夫に暴力すら振るうようになった。
「あなたに、あの子の何が分かるのよ!
いつも仕事仕事会社会社で、ろくに育ててもいないくせに!
結局自分の儲けが大事なんでしょう?商人ってそういうもの!
少しでも家族を大切に思うなら、恩知らずの下民など力でねじ伏せてごらんなさいよ。今から、私が手本を見せてあげるわ!!」
夫の商人という職を心まで卑しいと徹底的にけなし、拳と平手を浴びせる。
見かねた使用人たちが止めようとすると、下々の者が人の家庭に口を出すなと、無礼打ちとばかりに棒で殴る。
おかげで夫は負傷した姿を取引先や職場に晒し、使用人たちからも悪い噂が広がって、司良木家の評判はどんどん落ちていく。
そのせいで会社もうまくいかなくなり、司良木家はいよいよ苦しくなった。
「もうやめてくれよ母さん!!
母さんがそうやって暴れるほど、俺たちが苦しくなるのが分からないのか!?
母さんが辛いのは分かるけど、そんなんじゃ生きていけない。家族が大切なら、今は家を立て直すために父さんを大切にしてよ!」
危機感を覚えた息子もそう呼びかけたが、無駄だった。
「うるさい!!商人の種が私の腹を借りただけの下種が!!
武士は食わねど高楊枝、あんたの根性が足りないんじゃないの!?ついでに、あの人もね。
家族を捨ててまで儲けなきゃやっていけないような軟弱な精神、私が今ここで叩き直してあげるわ!」
話は全くかみ合わず、息子にすら暴力の嵐が襲い掛かる。
何より、拳よりも心を殴りつける暴言と侮辱で周囲はボロボロになっていく。やめさせようと働きかけるほど悪化して、ひたすら消耗し無力感ばかりが増していく。
このままでは司良木家は立ち行かない……夫はついに、非常な決断を下した。
「クメ……おまえがいると、司良木家は壊れていくばかりだ。妻としても母としても社長夫人としても、おまえはもうだめだ。
だから、私はおまえから家庭と会社を守ることにした。
悪いが……この家から出て行ってほしい!」
己を省みず暴れ狂うクメに、夫はついに三下り半を突きつけた。




