182.魔の手
前回で語られた急進的な娘クルミの、大罪のきっかけとは。
クルミは村の現状を知らず、女学校で偏った思考の中で村の状況を勝手に決めつけて憤っていました。
それを最も悟らせてはいけない者が真っ先に気づき、それを利用しようと魔の手を伸ばしてきます。
一瞬の油断が命取り……災厄とはそういうものです。
その日、司良木家と宗次郎たちは祭りの準備で忙しかった。
そのため、クルミは村の者に案内されて司良木家まで来るはずだった。
しかし、クルミを出迎えたのは、予定と違う者であった。
「ようこそお越しくださいました!」
本来の待ち合わせ場所に着く前に馬車を止めさせてクルミを出迎えたのは、今やすっかり村の運営から外された宗太郎であった。
宗太郎は卑屈な笑みで、手もみをしながらクルミに言う。
「工場の土地を買っていただいた、平泉宗太郎と申します。
お父様にはお世話になっております。
しかし、最近どうも何か行違いがあって邪険にされておりますので……どうかもう一度、お嬢様からお取り成しいただけたらと……」
「そう、あなたがあの……」
クルミは、親からの手紙で宗太郎のことは知っていた。
村で土地と金を巡って身内争いが起こっていること、土地を売った宗太郎が長の座を追われたこと、今主に付き合っているのは弟の宗次郎であること……。
だが、クルミの宗太郎を見る目に嫌悪感はなかった。
クルミは、宗太郎をねぎらうように言う。
「わざわざお出迎えありがとうございます。
あなたも大変でしたね……理解のない貧民共に振り回されて。
あなたが土地を売ってくださったこと、とても感謝しております。分かっておりますとも……あなたのような聡明な方がわが社に悪いことをする訳がないと」
それを聞いて、宗太郎は一瞬あっけにとられたように目を見開いた。
しかしすぐに、親し気な笑みを浮かべて話を合わせた。
「おお、さすがお嬢様、よくお分かりでございます。
私もそちらの意向に沿うようにしたいのですが、いかんせん愚か者の数ばかり多くて……心苦しい限りでございます。
ゆえに、今日はそのような愚か者に目にもの見せる方法を携えて参りました」
宗太郎の口角が、ニヤリと上がる。
その本当の意味に、クルミは気づけなかった。
なぜクルミは、本来司良木家の敵であるはずの宗太郎に心を許してしまったのか。
それはクルミがどこまでも先進的なのがいいことだと思っており、土地を売って村を文明化する手助けをしてくれた宗太郎を味方だと思っていたからだ。
逆に、味方であるはずの宗次郎を敵視していた。
なぜなら宗次郎は工業の素晴らしさを解しない貧民共の味方であり、司良木家の事業を縮めさせた敵だからだ。
クルミはこの村と司良木家の関係を、単純に新時代を導く資産家と愚かな民衆の対立として見ていたのである。
「あんな無能な民衆のために縛られて、お父様もおかわいそうに。
でも、愚民の数だけは多いから手こずっているのね。時代遅れの一揆もいいところだわ!
私もね、早くこんな村変えなきゃと思っていたところなのです。そうすれば、みんなが豊かで幸せになれるのに。
それに協力していただけるなら、大歓迎ですわ!」
クルミは胸を張ってそう言い、宗太郎に笑みを向ける。
クルミは女学校でどんどん偏って尖っていった思考の中で、今の司良木家と村もそういうシナリオだと思い込んでいた。
そして、父や母がいろいろ我慢を強いられたり譲らされたりするのを聞き、村の農民たちを一方的に敵視していた。
さらにそれをこじらせ、味方のフリをしている宗次郎こそ叩くべき悪の親玉で、宗太郎は本当はいい人じゃないかとさえ思っていた。
小娘のクルミには、世の中に絡み合う人の情や立場の複雑さが分からなかったのだ。
だからクルミは、何とか自分がそれを打破して家の役に立ちたいと思っていた。
「大人はいろいろ都合があるなどと言うけれど、時に大胆な行動力がなければ時代を開くことはできないわ!
ここは私が、お父様とお母様のために暗愚な民衆の目を覚ますの!
前は迷惑をかけてしまったけど、今度はきっとうまくやる。
私とこの人で村を変えて、あの時の恩返しをするのよ!」
クルミの目には、独りよがりな使命感がメラメラと燃え盛っていた。
そんなクルミに、宗太郎は今夜の作戦を持ち掛ける。
「そもそもなぜこの村がこんなに菊畑にこだわるかと言いますとな……まあ、信仰のようなものなのです。
この村では菊は神聖な花で、何を置いても守らにゃいかんと。
皆がそれを信じているせいで、菊畑を潰せんのです」
「まあ、そんな迷信が……何てくだらない!前時代的だわ!」
村の菊信仰のせいだと言われて、クルミはひどく憤った。
これからは、科学と経済により世の中を動かす文明開化の時代なのだ。根拠もない迷信など、唾棄すべきものだ。
それで確実に利益をもたらす産業を阻むなど、許せない。
「ええ、全く……私も長として恥ずかしい限りです」
宗太郎も、いかめしい顔で話を合わせる。
「私もこのような迷信は村のために払うべきであると思っております。
そのために、お嬢様に協力していただき、その信仰が本当は何の意味もないと皆に分からせてやろうと思いましてな」
その提案に、クルミは目を輝かせた。
「素晴らしいですわ、それこそ文明化の第一歩です!
私にできることなら、何なりといたします。
そうすればうちの事業も拡大できて、宗太郎様のお志も皆に理解していただけて、一石二鳥ですわ!」
クルミは、すっかりその気になって宗太郎の話に乗った。
そうして、他の村人たちも司良木家の親たちも知らないところで、災いのスイッチはクルミの手に握らされてしまった。
もしこの時親がきちんとクルミと待ち合わせ場所を決めて、村に着いてからずっと側にいれば、この事態は防げただろう。
しかし、皆そうする必要はないと考えるくらいには油断していたのだ。
ここまでうまくやってきたのだから、もう悪いことは起こらないだろうと。
それが致命傷であったと、今宵皆が思い知ることになる。




