169.血の逃避行
楓姐さんの見せ場ですよ!性格は悪いけど、強い!そして華麗!
いろいろ罠も仕掛けてみるけど喜久代ちゃんじゃとても無理だよ!
ただ、喜久代ちゃんも一度相手にしてるから、それに楓さんは基本的に自分が一番かわいいから……他の社員が、ねえ。
竜也社長の読み通り、死霊を倒すのは難しいけど一人で逃げるなら最強。
楓は戦慄した。
そうだ、このしゃべる死霊は倒した後何の拘束もしていなかった。猛が普通の死霊ごときに騒ぐなと、楓の証言を認めなかったせいで。
そして、しゃべる死霊とは大罪人。
大罪人ということは、頭を貫かずに放置しておいたらしばらくすると復活する。それが分かったから、司良木親子は杭を打って拘束したのだ。
しかしこいつには、何もしなかった。
ならば、時間が経てば復活して動き出して当然だ。しかも知能があるのだから、見つからないように動いても不思議ではない。
楓の顔が、怒りで般若のごとく歪んだ。
「あいつ……絶対許さない!!」
それに気づいたのは、楓だけではなかった。一緒に来た社員の一人も相手の姿を見てぎょっとし、ざぁっと青ざめて呟く。
「あ、あれ……あいつって確か、楓さんがしゃべるって騒いでた……。
う、嘘だ……本当だったのかよぉ!!」
その社員も、楓が考えているのと同じことに気づいたらしい。
楓が鬼の形相でチラリと振り返ると、その社員は半泣きになって喚いた。
「ひいいいっ、す、すみません!ごめんなさい!
姐さんが信じられなかった訳じゃないんです、でも猛さんが怖くて……お、俺はただ無事にあの場を生き残りたくて!!」
「うるさい、黙りな」
楓の声は激しい怒りを孕み、しかし冷静だった。
「今はごたく並べてる場合じゃない。
大丈夫、あんたは悪くない。あたしも悪くない。
責任は全部、生きて戻って悪いあいつに押し付けましょ」
楓は、火を吐くような怒りと共に言った。
覚えている、皆の前で猛に、もしこれが原因でまずいことになったら責任を取れと言ったことを。猛は、そんなことはあり得ないと根拠もなく胸を張っていた。
だったらきちんと責任を取ってもらおうではないか。
悪くない自分たちが無意味に殺されないために、楓たちは駆けた。
しかし、敵もそう簡単に逃がしてはくれない。
楓は少女……喜久代を転ばせようとしたが、知能ある者は学習する。喜久代は楓が棒を構えると、姿勢を低くして耐えようとした。
これでは容易に転ばせられず、楓はやむなく喜久代の上体を棒で素早く突き、のけぞっている間に走り抜けた。
だが、これでは転ばせるより立ち直るのは早い。
他の社員たちも楓に続いて走り抜けようとしたが、最後の一人が悲鳴を上げて床に崩れ落ちた。
喜久代が、足をスパナで殴りつけたのだ。
そう、喜久代は武器を持っている。その分素手だったさっきよりリーチが長いし、殴られたら段違いに痛い。
死霊は痛みを感じないが、人間は痛みで動きが止まる。
「まず……一匹!」
「ああああ痛い、くそっ……ひぎぃ!?」
足を止められた社員は、そのまま喜久代の噛みつきを受けてしまう。
これでもう、この社員は手遅れだ。今は生きていても、体に入ってしまった呪いを止めることはできない。
その社員はやりきれない顔で歯を食いしばり、無事な社員にトランシーバーを投げる。
それを受け止めた別の社員が、トランシーバーに向かって叫ぶ。
「一人やられた!
楓さんがさっきしゃべるって騒いでた死霊が復活、罠を張ってた!他の死霊と共に待ち伏せ、武器も使ってる!」
せめてその死を無駄にしないよう、自分たちが倒れても状況が伝わるように、今の状況を伝えながら走る。
この恐ろしい状況とその原因が、竜也と猛に伝わるように。
そうだ、自分たちはあいつらの判断の誤りのせいでこんなことになっているんだ。
楓と生き残った社員たちに、ここで死ぬ理由などない。噛まれた一人を喜久代が貪っているうちに、楓たちは全力で喜久代を引き離した。
「姐さん、防火扉が!」
ようやく喜久代の姿が見えなくなったと思ったら、今度は分厚い防火扉が閉まって楓たちを阻む。
もちろんさっきまで開いていたし、人間がこんなことをするとは思えない。しかし今自分たちを追ってきている敵には、知能があるのだ。
「やられた、袋小路ってこと!
……いや、でも途中に確か……」
楓は必死に頭を回転させ、思い出す。
ここまで走って来る途中、上に向かう階段があったはずだ。防火扉をこちらから開けられない以上、逃げ場はそこしかない。
「で、でもあっちには死霊が……」
「はあ?どうせここにいてもすぐ追い付かれるわよ!
それより、ぐずぐずしてると集まられる!」
一瞬の判断で、楓たちは元来た道に走った。
喜久代だけではなく、元社員の死霊たちもゆっくりとこちらに向かっているのだ。そいつらに階段までの道を塞がれたら、本当に逃げられなくなる。
階段で上に向かったらロビーからは離れてしまうが、今は行けるところに行くしかない。その先にさらなる待ち伏せがないことを祈って。
「あった、階段!」
「でも、もう死霊が……!」
悪い予感は当たるもので、元社員の死霊たちはもう階段の前に差し掛かろうとしていた。
しかし、楓は臆さずに飛び込む。踏み込み様に抜群の柔軟性で体をそらして回転させ、自分を掴もうと前のめりになった死霊どもの足を払う。
「はあああっ!!」
死霊共は足をすくわれて、バタバタと倒れ伏す。
楓は死霊の伸ばしてきた手を華麗に避け、流れるような動きで倒れた死霊の背中を踏みつけて階段に駆け込んだ。
「さすが姐さん!俺たちも……わあっ!?」
他の社員たちも楓に続こうとするが、痛みを感じない死霊はすぐに動き出す。最後尾の一人が、倒れた死霊に足を掴まれた。
「助けてくれぇ!!」
「やめろ、おい、あわっ!?」
さらにその一人が助かりたくてすがった一人も、バランスを崩して階段を踏み外し、死霊たちの真ん中に叩きつけられた。
「ぎゃあああ痛い!痛いぃ!!」
「死にたくねえよお!!」
捕まった二人の悲鳴に後ろ髪を引かれながら、楓ともう一人の社員は階段を駆け上がる。しかしその先は電灯が消え、不気味な暗闇が広がっていた。
「何これ……これじゃ、どこに敵がいるか分からないじゃない」
さすがの楓も、思わず足を止めた。
今見える範囲に敵はいないし、道はふさがっていない。しかしこれでは、この先にあるかもしれない罠や敵に当たるまで気づかない。
いくら運動神経のいい楓も、この闇に突っ込もうとは思わなかった。
さりとて、他に行ける所は……。
「あるじゃない、行ける所」
楓は少し汗を流しながら、すぐ横にある窓に手をかけた。そうだ、窓なら外につながっているし建物の外からロビーに戻れる。
ただし、逃げ道として使うには高さが気になるところだ。この窓から地面まで、おそらく4メートルはある。
それでも、楓は迷うことなく窓から飛んだ。
己の類稀なる運動神経を信じたのだ。
それに、楓が今持っている棒にはフックがついている。これを窓べりに引っ掛けると、まずフックが外れて少し落ちる勢いが削げる。
そこから素早く体を立て直し、新体操で鍛えられた体幹と反射神経で見事な着地を決める。
「くっ……!」
足に叩きつけられたような衝撃が走り、楓は一瞬顔を歪めて動きを止める。
すぐには全力で走れそうにない。
しかし、それほど心配はしていなかった。いかに死霊といえど、この高さから落ちればある程度の損傷は免れまい。
それに、自分ほどうまく下りられない餌もいる。
「ふふふ、悔しかったらあんたも飛び降りてみれば?
もっとも、あんたがどうなろうとあたしは待たないけど!」
この言葉は喜久代に向けたものか、あるいは自分の意見を容れなかった男の社員に吐き捨てたのか。
階上からの悲鳴に背を向け、楓は一人玄関に向かって走っていった。




