16.月の下、二人
物語冒頭のシーンにつながる、悲しく虚しいお月見です。
野菊が白菊姫を死霊にしたのは、どういう意図があってのことでしょうか。
江戸時代の惨劇は、これで締めくくりです。
乾ききった土を踏みしめて、少女は一人歩いていた。
どこに向かっているのか、どこに向かえばいいのかも分からない。ただ、ふらふらとおぼつかない足取りで歩いていく。
黒地の着物からのぞく白い足は、肉の大半を失っていた。柔らかな曲線を描いていたであろうふくらはぎと太股は無残に白い骨を露出させ、もはや歩くのに必要な筋肉が残っているかも怪しい。
それでも彼女は歩き続ける。
その身を支えているのは、もはや人の力ではない。
命の鼓動なき冷たい体を支えるのは、人ならざるものの力だった。
(腹が減った……)
少女は、ぼんやりとそう思う。
一面灰色に塗り潰されて何も分からない頭の中で、それだけを強烈に感じる。
自分がなぜこうなったのか、前の自分はどんな風だったのか、何もかもがぼんやりして思い出せない。
ただ、何か口に入れたいという欲求だけがその身を苛む。
喉がカラカラに渇いて、臓腑がよじれるほど空腹だった。
いや、臓腑はとっくにねじ切られていた。彼女自身は気づいていないが、彼女の腹にあった臓器はごっそりとかき出されてなくなっていた。
それでも、彼女の体は空腹感に苛まれていた。
(ああ、何か食べるものを……)
もう、それしか考えられなかった。
食べたいとは思っているのに、どこに食べ物があるかも考えることができなかった。ただおぼろげな記憶に従い、知っている道を辿っていく。
その先には、みずみずしい匂いが満ちていた。
月の光を浴びて、白くつやつやと輝く何かが散らばっている。
(あ、あ……水……!)
少女は夢中でそれをもぎ取り、大きく開いた口に放り込んだ。
感じたのは、冷たい不快感だった。
力を込めて噛み潰すと、口の中でばさばさと何かがほぐれる。求めていたものではないと、本能的に嫌悪を覚えた。
「う……うぶっべっ!!」
少女は一度口に含んだそれを、汚く吐き散らした。
確かに水を含んでいて口の中は潤ったはずなのに、全く満たされない。ひどい失望感が、彼女を襲った。
ただ、ここではないどこかで他の何かを食べなくてはと、その衝動だけが彼女を支配した。
「あ、が……ううっ……!」
目の前に茂る草むらを踏みしめて、彼女は歩き出す。
しかし、その手を引き止める者があった。
「そこはだめよ、白菊」
聞こえたのは、妙に懐かしい声だった。
自分はずっと前からこの声を知っている、もはやほとんど忘却の彼方に去った記憶の残渣がそう言っている。
しかし、その声は前と違うようでもあった。
こんなにも畏怖の念を抱かせ、自分を支配する声は初めてだった。
声の主を見た途端、灰色に凪いでいた頭の中が一瞬さざ波だった。自分は以前このものに、いろいろな感情を持っていたのだろうか。
だが、それもすぐにかき消された。
声の主は、一見すると巫女のようであった。
しかし彼女には、それが自分の絶対の君主であるとひしひしと感じられた。自分は決して、それに逆らえない。
今自分が味わっている飢渇の苦しみも、その枷を外すことはできない。
彼女はただ飢えと渇きに苦しみながら、それに従うしかないのだ。
「さあ、おいで白菊。
少し、お話ししましょう」
それに手を引かれるまま、彼女は茂みから出て腰を下ろした。
「月がきれいね、白菊」
野菊は、腕の中にいるかつての親友に話しかけた。
こんな風に白菊姫とお月見をするのも、久しぶりだ。だって今年は夏の初めから、白菊姫が話に取り合ってくれなかったから。
「私もね、あなたとこうしたくなくなった訳じゃないの。
でも、あなたが私の話を聞いてくれなかったから、今までこうしてあげられなかったのよ。分かる、白菊?」
返事は、なかった。
代わりに、良家の姫にふさわしくない濁った唸り声が返ってくる。
野菊は苦笑した。
当然だ、白菊姫はもうまともにしゃべることなどできない。カッと開かれた目は野菊を捉えているかどうかも定かでなく、まばたきも忘れている。
白菊姫は、死霊になったのだ。
もう白菊姫の頭の中には、どうにかして飢えと渇きを満たすことしかないのだろう。飢えて死ぬ直前の、数多の村人たちのように。
その証拠に、目の前には白菊姫が生前大切にしていたものが無残にまき散らされていた。
「もう、駄目じゃない。
せっかく育てた菊を、自分でこんなにしちゃうなんて……」
月の光を浴びて輝くそれは、純白の花びらだったものだ。
しかし、それはもはや花の形を失ってバラバラになり、血混じりの唾液でべとべとに汚されている。
先ほど、白菊姫が飢えに耐えかねて食いちぎったせいだ。
食物を求めて彷徨う白菊姫の足に、秘蔵の菊畑は踏み荒らされていた。つぼみをたくさんつけた茎が無残に折れ、踏み潰された花もある。
飢えた人間に取って、美しい菊は所詮その程度の価値でしかないのだ。
生前あれほど菊を愛した白菊姫にとっても、今はただの『食べても満たされないモノ』でしかなかった。
野菊は白菊姫をあやすように頭を撫で、ささやく。
「私も、できる事ならこんな事はしたくなかったわ……ねえ白菊?」
言葉を理解できているかは知らないが、白菊姫はとりあえず唸った。
そもそも、自分が大切な菊畑を踏み荒らしたことも理解できてはいないだろう。させたこっちの方が、心がちくちく痛んでいるのに……。
野菊は、哀れみを込めてため息をついた。
「でも、やらないといけなかった。
これ以外のどんな方法であなたが民の苦しみを分かってくれるのか、私には分からなかったから。仕方なかったの」
本当に、考えれば考えるほど残酷な話だ。飢えと渇きに我を忘れた白菊姫自身に、一番大切な菊畑を踏ませるなんて。
だが、これで証明された。
普段どれほど人の心を惹きつける菊も、極限の飢餓の中では、命を留める食物とは比べ物にならないくらい軽いのだと。
……本当は、白菊姫が生きているうちにそれを理解してくれたら一番良かったのだが。
今それを考えても、仕方のないことではある。
白菊姫は今、人の心をほとんど失い、早く何か食べたいとそわそわと体を動かしている。
野菊はそんな白菊姫をぎゅっと抱きしめ、悲しみを込めて呟いた。
「でも、もう後戻りはできない」
それが白菊姫への言葉なのか、それとも自分に言い聞かせているのかは、野菊自身にも分からなかった。
一度死霊になってしまった白菊姫は、もう二度と人に戻ることはない。
その先にあるのは、繰り返す苦痛の罰だけだ。
「あなたは、これから何度でもこの苦しみを味わう事になるでしょう。あなたのような人の苦しみが分からない人間が現れるたびに、何度も……ね」
野菊は、かすかに潤んだ目で、こうこうと輝く満月を見上げていた。
できれば、こうして現世で見る月はこれで最後にしたいと思う。
だが、そうはいかないだろうとも思う。いつの時代にも、白菊姫のような人の苦しみが分からない人間はいるものだから。
「さあ、行きましょう。もうすぐ月が沈むわ」
野菊は昔のように白菊姫の手を引いて、菊畑を後にした。




