15.白菊散華
ようやく己の罪を知った白菊姫ですが、彼女はまだ生きることに執着しようとします。だって、死んでしまったらもう菊を育てられないから。
そんな白菊姫に、ついに死の裁きが下ります。
ゾンビものらしい残虐シーン……悪を知らなかった哀れな姫の最期です。
(あ、ああ……わらわは死ぬ!ここで死ぬ!!)
逃れられぬ死を前にして、白菊姫の頭の中に浮かんだのは、菊のことだった。
(わらわが死んだら、畑の菊はどうなるのか!?)
残った村人たちは田畑に水を回すため、菊畑の水を閉ざしてしまうかもしれない。あんなに立派に育ててやったのに、それが全て枯れてしまうかもしれない。
大切な菊のために、白菊姫はまだ死ぬ訳にはいかないのだ。
白菊姫は恥も外聞もかなぐり捨てて、野菊に頭を下げた。
「後生じゃ、命だけは助けてくれい!
わらわは酷いことをした、それは重々承知じゃ。
しかし、だからこそわらわに生きて償う機会を与えて欲しい!」
それを聞くと、野菊の眉がぴくりと動いた。
「償い……あなたは、生きてどうするつもりなの?」
その言葉に、白菊姫は全力ですがった。
野菊は今も、村の行く末を案じているのだろう。だったら、自分が生きる事が村のためになると説き伏せれば、きっと生かしてくれるはずだ。
白菊姫は、村の事など考えたこともない頭を振り切れそうなほど回転させて、一生懸命答えを吐き出した。
「村の復興には、金が必要じゃ。
わらわの家にある金や財は、全て村のために開放しよう。
それに、わらわは藩の重臣幾人かと会ったことがある。彼らにお願いして、この村を優先して支援してもらうのじゃ!」
「……だめね、お金はあなたが生きていても死んでいても同じ事。
藩の重臣たちにこの惨状を話したら……あなた、村を潰した重罪人として家ごと取り潰されるわよ?」
野菊は、白菊姫の提案をばっさりと切り捨てた。
白菊姫は、いよいよ退路を断たれてきた。
考えてみれば、菊を育てる事しかせずに生きてきたせいで、白菊姫はむしろ本当に菊の花分の価値しかない女になっていたのだ。
白菊姫は今さらになって、自分のできる事の少なさに驚かされた。
自分は本当に世間知らずの、何の権力もない一人の娘に過ぎなかったのだ。
「ま、待て、まだ考えはある」
剣に手をかけた野菊に、白菊姫はなおも言いすがった。
「わらわにしかできぬ事……あるぞ!
菊じゃ、あの見事な菊を売って食料に変えるのじゃ。
菊は葬式に必要な花、今なら葬式用の菊はいくらあっても足りぬはずじゃ。それに、これほど見事な菊は国中どこを探しても他にはないぞ!
わらわが生きておれば、美しい菊を売って村はどんどん豊かになる!どうじゃ!?」
白菊姫にとっては、最後の手段だった。
自分が命の次に大切にしている菊を売り払ってしまうなど、白菊姫にとってはすさまじい苦痛を伴う行為だ。
だが、やるしかない。
作左衛門の言う通り、菊は毎年枯れてまた芽を出す。
一つしかない白菊姫の命を守るためなら、一月ももたぬ花は刈っても仕方ない。
白菊姫は花がなくなった畑を思い浮かべて、目頭を押さえた。
だが、ここまですれば、きっと野菊は許してくれるはずだ。白菊姫は祈るような気持ちで、野菊の返答を待った。
少しして、静かな月夜にパーンと乾いた音が響く。
「えっ……?」
白菊姫は、己の身に何が起こったのかも分からぬまま、カラカラの地面に倒れていた。
頬に、じんわりと痺れるような痛みが広がる。平手打ちをくらったのだと分かるには、少し時間がかかった。
あっけにとられて野菊の方を見上げると、野菊は鬼の形相をしていた。
恐ろしい形相の口元が動き、絞り出すように言葉を発する。
「だからよ……だからあなたは駄目なのよ!!」
なぜ拒まれたのかは、分からなかった。
ただ、これで生きる道が完全に閉ざされてしまった事だけは、十二分に理解できた。
「もういい、もういいのよ。
あなたの頭で考えたって、本当に民を救う方法なんか見つかる訳がないもの!」
野菊は、泣いていた。
血も何もかも枯れ果てたはずの体から、涙ばかりがこぼれ落ちる。
白菊姫はまだ、何か言おうと必死で考えている。しかし……これ以上の問答はおそらく無駄でしかない。
昔も今も、そして生かしたとしてもこれからも……白菊姫の頭の中には菊を育てることしかないのだ。
今回許しても、また同じことが起こるのは時間の問題だろう。
自分には、それを阻止する義務がある。
村を守る巫女として、命を捨てても果たすべき責務が。
野菊はこみ上げてきた嗚咽を飲み込み、ゆっくりと剣を振り上げた。
「死霊たちよ、復讐の時は来た」
二人の周りを取り囲んでいる、腐った村人たちがそれに応えて唸り声を上げる。
「今こそ、そなたたちを黄泉に落とした仇を、黄泉に引き込む時だ。憎き仇の血をすすり、腹を裂きて、死して後も永久にそなたらの苦痛を与えん!」
野菊はついに、報復の開始を宣言した。
友人の野菊ではなく、村を守る巫女として。
死霊たちが腕を前に伸ばして、じりじりと白菊姫に迫っていく。
屋敷の方からだけではない、乾ききった田畑を踏みしめて、白菊姫が逃げようとする方向からも多くの死霊が歩み寄る。
「ひ、ひい……い、嫌じゃあ!
お願いじゃ待ってくれ、許してくれ野菊……っああ!?」
うろうろと足を向ける方向すら定まらぬ白菊姫の着物を、死霊の手が捕えた。
勢いあまって転んでしまった白菊姫の顔を覗き込むように、数体の死霊が身をかがめて白菊姫に顔を近づけた。
そのうちの一人は年端もいかぬ子供で、もう一人は若い娘だった。残りは老人と働き盛りの男……皆一様に骨と皮ばかりにやせこけている。
その顔を間近で見た途端、白菊姫の思考は停止した。
ぞろぞろと集まってくる死霊に埋もれていく白菊姫を、野菊は静かに見ていた。
死霊たちの間からのぞく白い足は、まだ逃れようと足掻いている。
それを見ても、もはや哀れという感情すら湧いてこなかった。これは当然の報いなのだから。
「ひぃえええぎゃあああ!!!」
澄んだ秋の空を震わせて、白菊姫の絶叫が響く。
死霊たちの呪われた牙が、白菊姫の血肉に届いたのだろう。
周囲に、死霊たちの腐臭とは違った鮮やかな生血の臭いがぱぁっと広がる。今まさに死にゆこうとする、それでもまだ生きている血の臭い。
「珍しいわね、この村に生血の臭いなんて……」
野菊は一人で呟いて、くすりと笑った。
そもそも、この村では今や生きた人間の方が少数派なのだ。
生きているのは、わずかに生き残った半死半生の村人たちだけ。
さっきまで生きていた、水を独占したあげく食糧も取り上げていた侍連中は、既に死霊たちの仲間になっている。
白菊姫もこれから、そこに加わるのだ。
絶え間ない飢えと渇きに苛まれ、同朋の肉でしか満たされることのない哀れな餓鬼の仲間に。
死んだ村人たちと同じ苦痛を、永久に味わうことになるのだ。
「……ひっ……ひっぎっ……ぐうう……」
死霊の輪の中から聞こえる悲鳴が、かすれてきた。
それでも、死に際まで声を上げられることは幸せだと思う。
餓死した村人たちは皆、喉も体も涸れ果てて、声も出なくなって死んでいったのだから。
もはや絶え絶えの息遣いに変わった白菊姫の最期の声を、野菊は冷え切った心で聞いていた。
普段なら胸を熱くする少女の悲鳴にも、もう何も感じない。こんな女の悲鳴に、そんなものを感じてはいけないから。
地獄の光景をこうこうと照らす満月の下、白菊姫の鼓動が途絶えた。




