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酔狂領主様の怪奇譚  作者: 七色春日
第三章 水色にして燃える憤怒
19/31

-4-




 市役所の上層階にヨークトン市長の執務室があり、その手前にある応接間の椅子にアクネロとミスリルは並んで腰掛けていた。


 ルーシー秘書官が紅茶のカップを二人の前に置き、角度の美しい礼をして扉を閉める。


 隅々まで清掃は行き届いている。部屋角に大葉の観葉植物が鎮座し、壁際には市政の議事録などがガラス戸の書棚に収まっている。黒に染められた羊毛カーペットは質素だが毛足長で、くるぶしを撫でる感触は悪くない。


「セレスティアか……」


 アクネロの呟きはやや暗い影を落としていたので、横に座ったミスリルは顔を覗き込んで疑問を(てい)した。


「私はお会いしたことはないのですが、どのような方なのですか?」


「俺が唯一、行動が読めん女だ。俺を前にするとこうして目を吊り上げて怒ったり、錯乱したりする。正直なところ苦手意識がある」


 アクネロは眉尻に指を押し付け、外側に引っ張って吊り目を作り、犬歯が見えるほど口を開いた。


「単に気障(きざ)で軽薄に見える男性がお嫌いなのではないでしょうか?」


「ミスリル。俺は紳士だが限界というものもあるのだぞ……まあ、間違いなく好かれてはいないな。俺は彼女が好きなのだが」


「えっ、すすす、好きなんですか?」


 動揺をあらわにし、ミスリルはどもって手足をばたつかせた。主人の口から異性を好きだと聞くのは初めてのことだった。こんなに珍しいことはない。


 アクネロは訂正するように片手を前に出し、ハエを追い払うように振った。


「幼馴染であり、共に家族のように育った。好きなのは当然だ。男女としては俺はほとんど相手にされなかった。残念なことにな」


「まあまあまあ……子供の頃からの付き合いなんですか……しかし、アクネロ様も失恋することもあるということです。お可哀相ですから私がくっついていてあげますよ」


 ミスリルがどこか嬉しそうに両手を合わせると、アクネロはきまりが悪くなって紅茶をすすった。


 ――しばらくして。


 廊下から地鳴りを思わせるどたばたとしたけたたましい足音が響き、応接間の前にしてぴたりと止まった。


 ドアノブが回転し、戸が開かれると、目にした誰もが冷たい印象を抱くだろうすました顔をした黒髪の美女が足を踏み入れた。


 歩く度に長い髪が揺れる。どこか鋭角な空気をまとっていた。滑らかな漆黒のスーツは体のラインを引き立たせ、人を寄せつけない気配がある。着席するときも優雅に髪をかきあげての気品のある所作だった。


「久しぶりねアクネロ。どの面を下げて来たのかしら?」


 ミスリルは瞠目(どうもく)した。


 自分の主人が呼び捨てにされているのを初めて聞いたからだった。


 対するセレスティアは口紅で赤く染まった唇を微かに開き、余裕たっぷりに艶やかに微笑している。


「セレスティア、今日は政治的な話をしに来たのではないのだが……ヨークトン市民に行政権を委任したのは間違いではなかったと思っている。別に怠けようと思って放置していたわけではない」


「一年近くも音沙汰なくて? 責任放棄ではないの。領主として式典の出席や王都の上級官吏との折衝をしてくれればどれだけ市民のためになったか」


「ぐうの音も出ないな」


 両手を挙げ、降参を示した。


 次いで弱った顔で片目を閉じる。


「一応は手紙は送っていたんだが……毎月必ず、街の様子を聞こうと思って君にデートを申し込んではいたぞ。一度くらいして欲しかったよ」


「手紙……?」


 小首を傾げ、セレスティアはぱんぱんと手を叩く。


 すると扉から秘書官であるルーシーが素知らぬ顔で現れる。外で待機していたようだった。


「手紙など届いていたのかしら?」


「はい。市長が代筆業務を私にお任せしたので、返事を出しておきました。私事(プライベート)に関わることは全て断れとのお達しでしたので、そのようにしておりました」


 壊れた機械じみた動きでセレスティアの全身は痙攣(けいれん)した。壊れた玩具が最後に見せる断末魔のような動きだった。


 顔が硬化したままだったのに、皮膚下の筋肉が(うごめ)いている異様な形相(ぎょうそう)だった。


「俺は君に文字すら送ってもらえないのは悲しかった。だがまあ、責務を尊ぶ姿勢は尊敬する。これからは公務のみの付き合いを心がけるとしよう。幼少の頃からの付き合いであったが、我々はすでに子供ではなく成人した大人だ。これを機に弁えるとしよう」


「……少し、席を外してもよろしい?」


「ああ、構わないよヨークトン市長」


 セレスティアはしゃなりと席を立つと足早に廊下へと出て行った。


 アクネロは背もたれに重心を移し寄りかかり、ミスリルの肩に手を伸ばして強引に寄せた。


「くっつけ」


「はい。くっつきます」


 こてんと頭が肩に乗った。お互いに体温が感じられるくらいにくっついた。


「彼女はお前と同じ、我がブラドヒート家のメイドだった。そして俺が子供の頃はもっと仲が良かったんだ。だがいつしか――つんけんとして近寄りがたくなってしまった」


「私の先輩だったのですか」


「ああ、あの通り美しく、少々“硬い”が気配り上手で気立てもよかった。以前の雇い主の息子が軽々しく近寄るのはやはり(うと)ましいのだろう。だがセレスティアを悪く思うでないぞ。あれも市長という重責を負う立場になり、民衆に威厳を示さねばならないのだ」


「はい」


「ならばよし」


 無言で密着したまま五分くらいのことだったか、時間が空く。


 がちゃっと再び戸が開いた。


 ミスリルはさっとアクネロから離れる。セレスティアが再び二人の前に座ると、ぐすぐすと涙を流していた。


 目尻を指先でぬぐい、まぶたを赤く腫らしている。頬には液体がつたった跡があった。


「ぐすっ……ぅう、そ、それでなんの用なのかしら?」 


「どっ、どうした?」


「べっ、別にどうもしないわ。白樺花粉のせいよ。うぅうあぁ……くっ」


「そ、そうか。では」


 アクネロは極力事務的に『ドレッド』の引きあげ作業についての話を始めたがセレスティアは恨めしそうな、それでいて辛そうな顔をしながらも相槌を打ち、そうした計画が実際に持ち上がっていることをどもりながらも説明した。


 船団を東西南北に配置し、『ドレッド』を中心に鎖で縛り付けて張力をもってして持ち上げ、そのまま方向を変えて浅瀬まで引っ張りあげるという大掛かりかつ、乱暴極まりないものだが――構造的や面での不都合等があり、今は計画段階だという。沈没している場所的にも綿密な内部調査が難しいとのことだった。


 船団の調達は貿易業者や観光業者などがスポンサーとなっているがやや足りず、各種学会や魔術結社の協力も取りつけてはある。耳の早い古物商や競売商も群がってきているという。


 セレスティアは持ち直してきたのか、ひとまず涙は止まって鼻声は収まった。


「砂丘の道で繋がった離島の浅瀬近くに運ぶ予定なんだけど、交易船や漁船の操業を一時的に止めないといけないし、そもそもやり切れるかどうか未知数だわ」


「だが、やるのだろう」


「ええ。失敗したとしても海神を鎮めるためだと面目は立つわ。最近、弱い地震も発生してるし……漁師は信仰心が強いし、海の恵みで生計を立てている人も多いからそう文句は出ないでしょう」


「なるほど……モノは見たか?」


「ルーシーが見たわ。霊峰を思わせる巨大な銀色の船らしいわね。ところで……気になってたけど、その娘は?」


「ミスリル」


「はい。ご挨拶が遅れましたがミスリルと申します。アクネロ様の従者をしています」


 ぎこちなく会釈するとセレスティアの片眉がぴくりと跳ねる。


「従者? そう……可愛らしい娘ね」


 奥に刃を残したような口ぶり。ミスリルは無理やり微笑んで斜めに両手を合わせ、顎の下に持ってくる。


「あ、ありがとうございます。あのご存知でしょうか。私の母がアクネロ様の――」


「海軍を出そう」


 せめて共通点を見出そうとしたミスリルの話をアクネロが鋭く遮った。


 ミスリルはハッとして横を見たが世間話をする場ではないと察して小さくなり、押し黙った。


「第二海事兵団には外輪型汽船がある。帆船よりも力はあろう」


「本当に海軍を動かしてくれるの?」


「ああ」


 厳密には引きあげ作業の効率化のためであったのだが、セレスティアは嫣然とした艶っぽい目つきに変わった。(私のために)という主語が入っていたのだが心が読めるわけでもなく、海軍の話題で色っぽい話に通じるとは考え難いのでアクネロが気づかなかった。


「とても興味があるしな」


「そ、そう? そっ、そんなに……?」


 アクネロもまた(ドレッドに)という主語を外した。話の流れからして無理からぬことだった。


 勘違いしているセレスティアは顔を右に少しだけ逸らし、頬を真っ赤にして襟元を掴んでパタパタと風を送った。


「ど、どうしよう、熱くなってきちゃったわ」


「確かに興奮するな」


 アクネロは大きく頷いた。彼にとって『ドレッド』は浪漫であった。金銭に結びつかなくても古代の物を発掘するというのは歴史を覗き見るということであり、知識欲や好奇心を充足されるものだ。


 とりわけ、彼自身が考古学博士であったのでその欲求は人一倍だ。


「どっ、どどど、どうしたらいい? ぬ、脱いだらいいかしら? 脱ぐっ? 脱いじゃうっ?!」


「セレスティアも好きだな」


「好きじゃないわよっ! うっ、ご、ごめんなさい。す、好きかもしれない。わ、私はあらゆる要求に応える準備があるから新婚生活とかには影響はないわ。そ、そうよ。一生懸命尽くすわっ」


「うん?」


 なんだか横方向――というよりも異次元空間に話題がずれている気がして、アクネロは生返事をした。普段は察しが良かったが、今は機能しなかった。


 セレスティアは自分の身体を抱きしめながら身をよじっていた。


 黒髪を振り乱し、熱に浮かされた表情は恍惚としている。


「アクネロ様。何やら誤解が生じているのではないでしょうか」


 一人冷静なミスリルが乙女の勘を働かせ、冷たい響きで進言した。


 彼女は二人の事情を全て察したすました顔をしていた。


「む、まあ、とにかく……俺は自分の目で『ドレッド』を確認しに行く。セレスティア。後の詰めは後日ゆっくり話そう」


「ご、ご、後日、ゆ、ゆっくりね! わかったわ。ああ、その、近日中に関係者だけを集めて懇親会をしようと思ってるんだけど、来てくれるかしら?」


「喜んで足を運ぼう。どこのホテルにする予定だ?」


「ホテルっ?! どこでもいい! どこでもいいわっ! むしろここでもいい!」


「いや、良くはないと思うが」


「そ、そうねっ。雰囲気って大切だものねっ!」


「そうだな。こんなことは初めてだからな」


「そうよ。初めてだものっ! 一生の思い出に残るようにすべきよねっ!」


 二人のかみ合っているようですれ違っている会話を聞いているとミスリルは気が遠のいていきそうだった。


 だからといって仲を取り持ってやるつもりは微塵もないので、正しく訂正する気も起きない。


 ふと少しだけ隙間が空いた扉の向こうでこめかみを押えて苦悶をしている秘書官が見えたので、酷く共感してしまった。


 恐らく――二人は星が巡り合わないのだ。同じく輝いても光は溶け合わず、重ならない。


 そうして、したたかなミスリルはロマンチックな言葉を使って良心を誤魔化した。






 ★ ☆ ★




 ざざん、と波が白い粒を泡立てる。


 ヨークトン湾に面する砂浜の一部は夏場は市民の海水浴場として機能し、湾曲して広がっている。


 視界に入るのは船頭を導く灯台の岬と満ち潮になれば沈む砂道で繋がった離れ小島だけだった。西岸に突き出た防波堤も見えるが、湾岸自体が三日月形になっているため波は緩やかだ。


 しかし、冬めく季節のため遊泳をするものはおらず、当然のことながら人気はなく閑散としている。


 アクネロはビキニタイプの水着を下半身に装着したのみというほぼ全裸というか――男気溢れる――いや、無謀な姿で砂浜に仁王立ちしていた。


 爽快だ。


 アクネロの心が澄み渡っていた。


 しかし、街角で官憲に見つかれば即座に逮捕されかねない恰好だった。アクネロは寒さなど感じていない清々しい顔つきで頬を(ほころ)ばせ、肩を揉む。


「アクネロ様……寒くないのですか」


「傭兵として地吹雪舞う冬山を行軍したときに比べればさしたることはない」


 どんな人生歩んでたんだろう、とミスリルは顔に出していたが冬風に吹かれて疑問どころではなくなった。両手を絡ませて身体を縮め、唇を震わせる。


 彼女もまた太ももや腹部、両肩や二の腕などといった素肌を露出した白むくの水着姿だった。胸元と股間部を覆っているだけの紐付きの薄衣だ。


 素材は貴重な水獣の皮をなめして作られ、高級素材として巷で流行したものであって撥水性(はっすいせい)伸張性(しんちょうせい)に優れている。


「領主様、普段着でも良かったのですが」


 ワンピース姿のセリンが引きつった顔をして控えめに切り込んだ。言外にむしろそうして欲しかったようだった。


 根が純粋な彼女はアクネロの姿を見て小さく叫んでしまったばかりだった。


「俺は気にせん」


「いや……ええと、まあ、いいですわ。ミスリルちゃんまでそんな恰好なのは……あれのせい?」


 セリンの質問にミスリルは素早く一瞬だけ首肯した。


 ミスリルの懸念の先には彼女と同じような露出度の高い恰好――であったが、一部分においてボリュームが段違いな金髪翠瞳の女が暖取り用である魔術玉を肩近くに浮かべて立っていた。


 歩く度に丸みを帯びた巨大なものはぷるんと揺れる。たわわに実った果実は二つを包む赤色の水着もまたよく映え、くびれや尻の程よい脂肪のまとまりは曲線美の極致だった。


 陶器を思わせる白肌は魔力切れから復活し、艶やかできめ細かい。


 肉体にもおいても非凡な才を見せたイーリスは至極、真面目にアクネロに再確認した。


「着たらくれるって話でしたよね?」


「ああ、どうせこんなもの、友人の伯爵に貰ったものだ。奴は夏になると趣味でこれを女に着せるという話で、勝手に俺を同好の士としてな、数着ほどくれた。俺は全然、その、全く、これっぽっちも、欠片も、チリ一つも、そんな趣味はないのだがな。奴がどうしてもといって。いや、本当に俺は興味などないのだが」


 魅惑のYの字に視線を向け、アクネロは両手を振ってきょどりながらも自らの正当性を訴えた。おどけた調子で両手を小刻みに振る。


 イーリスは目玉だけを下に向け、そのまま上へ運んで上目遣いになる。


「今夜、寝所に参りましょうか?」


 可愛らしく小首を傾げ、艶っぽく目を細めてにやついた。


「うーむ……悩ましいな。しかしそろそろ手を出しても……うおっ!?」


 どーん、と横から両手で突き出され、肩から押されたアクネロはもんどり打って砂地に顔面をめり込ませた。


「アクネロ様、やぶ蚊が」


「待て。冬なのに蚊がいたのか?」


「いましたよねセリンさん?」


「いたわ」


 さも事実のようにセリンが頷いたものでアクネロは追及の言葉を失った。


 顔についた砂を払い、立ち上がって空咳し、セリンを気になっていたことを問う。


「セリン、アルプは来ないのか?」


「はい。彼は今日は仕事をすると。領主様、水術をかけますので中腰になって頂けますか?」


「水精の水術か……しかし、いいのか? 今更だが神聖なるものだろう」


「構いません」


 返答は断固たる響きを伴っていた。


 アクネロは膝を曲げて中腰になってセリンと顔の高さを合わせた。


 そうして彼女はアクネロに近づき、顔を合わせた。


「なぁっ!?」


「ふーん、やっぱり魔術陣使わないんだ」


 突然、唇を合わせた二人に仰天するミスリルをよそにイーリスは腕組しながら納得する風に頷いた。


「ど、どういうことですか?」


「純粋な精霊は術を行使する手順を踏まなくていいのよ。魔力そのものだから。あっ、次はあたしもお願い。体験してみたかったし」


 イーリスも続いて作業的にセリンと口づけした。


 ミスリルは意味もわからずうろたえていると、髪をかきあげながらセリンが歩み寄ってきて顔を近づけた。


「あっ、あの、セリンさん? 大丈夫なんですか?」


「単なる術よ。水の中でも呼吸できるようにするの。溺れ死にたくないでしょ?」


「いっ、いえそうじゃなくて……身体とか」


「魚だって海の中で呼吸してるじゃない。似たようなものよ」


 強引にセリンはミスリルの後ろ首に腕を絡め、口づけをかわした。


 両方ともまぶたを閉じ、どこか背徳的――耽美な雰囲気が漂う。


 かわされている時間も長く、セリンは頬を緩めて感触を楽しんでいるようだった。


 残された二人は遠巻きにその様子を見つめながら待っていた。


「なんともな」


「あらぁ、嫉妬しちゃってますか?」


「馬鹿をいえ。気がかりがあるだけだ」


 イーリスのからかいをいなし、アクネロは水平線の向こうの浮雲を見据えた。


 伝承によれば水精が口づけをするのは愛する者だけであるとされていたが人間との結婚といい、こうも伝統破りが続くと危ういと思えてしまう。


 万事うまくいけばいい、だがうまくいかなかったときは裁き、裁かれる覚悟が必要になるだろう。


 今もまだ海神の掌の上を動き回っているに過ぎず、幾つかの懸念があり、深謀は読め切れていない。


 このまま事を運んでいいものかどうか。今更、無視することなど領主の立場を顧みればできるはずがない。また、自分が関わらずとも計画は進んでしまっただろう。


 頬に若干赤みが差したミスリルが慌てて近寄ってくる。思考は中断された。


「アッ、アクネロ様。ど、どうか誤解なされないでくださいね」


「ああ、お前にそのような趣味があるとは思わなかった。失望したぞ」


「えええ!」













 海の中は底は不明瞭な青い闇が広がっている。


 先導するセリンの水術によって海の中にトンネルのような円形状の暖流が構成され、その流動に身を任せて四人は進んでいた。


 最初の方こそ、ミスリルは真紅や黄色の色鮮やかな海草を見てうっとりし、苔むした岩棚や流砂の上をへんてこな小魚が自由に泳いでいる姿を思わず目で追い、ウミガメの姿を見つけたときはこれ見よがしにアクネロの肩をばしばしと叩いた。


 深度が増していくと――海溝となり徐々に辺りが薄暗くなっていくと、荒涼として岩だらけの海底が生命力を感じさせず、空恐ろしく思えてくる。


 見慣れない鎧のような鱗をした奇怪な魚の姿も恐怖をかき立て、遠くから聞こえてくる地鳴りに似た波動のような音が神経に障る。


 海中は流体のため陸上とは違い音の速さが四倍ほどでよく鼓膜に響き、視認できない範囲から聞こえてきたサメの咀嚼音にミスリルはゾッとした。


 回遊する(アジ)の群れが進路を四人に譲る。尾ひれがたなびく音もしっかりと耳に伝わってくる。


 心もとなくなったミスリルはアクネロの右腕に抱きついており、肝の太いイーリスも今度ばかりは左脇を固めにかかった。


 幸い目的地に辿り着くまでそれほどかからなかった。


 セリンは後ろを振り返ると、手話で合図をした。


 そろそろです、そういいたいのか指を前方に向けてちょんちょんっと突く真似をする。


 暖流に終わりがくる。


 視界一面に青灰色のフジツボが無数にこびりついている岩山があり、ところかしこで海底を覆っている白砂の中から気泡がゆるゆると立ち昇っていた。そこには例外なく(かに)が数え切れぬほど集まっており、蟹を狙ってかヒトデがふわりと浮かび、エイもまた身をくねらせて逃げ惑う蟹を食いちぎってはためいた。


 鋭利な刃をつけたギョロ目の魚がミスリルの眼前を通り過ぎ、彼女は口をぱくぱくさせた。


「ごぶぁっ(うひゃあっ)」


 少し海水を飲み込んだが、水術によって気管は保護されているので溺れることはなかった。


 隆起した岩盤の近くをセリンは目顔で示した。


 底から押し上げられた形となっている灰銀色の地肌が果てなく続いている。出っ張っているようだ。露出している鉱脈か鏡面反射か何かでそう見えるとセリン以外の誰もが思った。砂を被っているがきらきらと光っている。


 全体が傾斜しており、不思議と欠けや崩れがなく、海草も生えていない。


 セリンが人指し指を一本立てた。


 それは一つの劇的な水術の行使だった。


 海水の屈折率が変動し――遠くになりつつあった陽光を引き出して連れてくるものだった。


 斜光が差し込み、ほとんど音のない世界を覆っていた闇を切り開き、全体像がじんわりと現れていく。


 徐々に形を成し、輪郭を帯び、目の前が全て明らかになる。


「ぶっ(むっ)」


 アクネロは唸った。


 見る者を圧倒される――異形の物体がそこにあった。


 飾り気は一切なく、ずんぐりとした胴長の涙摘型(るいてきがた)であって――なめくじのようにも見える外観。


 銀の地肌に全体がほんの微かにだが、極彩色に淡く輝いているようだった。その文様は魔術陣であるが精緻にして細かく、一種の芸術的な美しさすらあった。


 船というよりも遺跡として扱っても申し分なく。


 人工物として人の手を用いて作ったならばどれだけ途方もない年月がかかったか想像もできなかった。


 しかも欠けも磨耗もなく完璧な形であるようにも見える。


 惜しまれるのは船として見るならば逆さにひっくり返ってしまい――あるとするのならばだが、あるべき甲板や帆柱などの船上、船内設備が何も見えない。


 ふと。


 ミスリルはただならぬ気配を感じて横を見た。


 アクネロが表情筋を崩していた。子供のように目が弛んで今にも――水中で判然としなかったが嬉し泣きしているのかもしれない。


 少なくとも、深い感動に包まれていることは確実だった。


 目元を腕でぬぐい、自分の矛盾に気づいて薄く笑っている。


 温かい気持ちが湧いてきてミスリルはセリンに感謝した。ここに連れてきてくれたことは何よりも主人のためになったのだと。


 自分はただただ凄いという漠然とした感想しか持たなかったが、見る者が見れば感じ方も違うのだと理解している。


 四人はそれぞれ手で触れる位置に移動して、その造詣(ぞうけい)を観察した。


 ミスリルは顔を緩めているアクネロを見ていたが、不意に胸の温かさとは違った物理的な温かさを感じた。


 水術が作る赤子を包む羊水かと錯覚するような暖流とは違い、火傷(やけど)するほど熱いとすら思うもの。


 その熱を感じる方向に顔を向けた。


「ごふぁ!」(えっ!)


 ミスリルは悲鳴をあげた。


 目の前の光景もまた――この世でもっとも信じられないものだった。


 それが現実だとわかるのに数拍の時間がかかったが、恐る恐る声をかけてみることにした。


「ごぼぁふ、ふぁごぼぁ」(あの、イーリスさん?)


「ごぼぐ?」(何?)


 呼びかけても、彼女は後ろめたさからか決して目を合わさなかった。作業のみに集中している振りをしている。


「ごふぁごぼぁふぉあご?」(何やってるんですか?)


「ごぼ……ごぶぁごぼぼごふぁごぼぼぼふ」(別に……領主様に貰った古代魔術を試してるだけだし)


 そこには。


 ごぉおおおお、と焼ける音が立っていた。


 アクネロが嬉し泣きするほど、考古学的に価値がある遺産をあろうことか――焼き剥がそうとしている不届き者がそこにいた。


 魔術陣の手袋を装着して水を制する炎術を行使し、棒状の火炎柱が光沢のある金属を見事に溶かし。


 端的に見れば、灰銀色の遺産の一部を盗み取ろうと画策(かくさく)している。


「ごぶふぁあふあぁ!」(なんでそんなことするんですか!)


「ごぼふぁ、ごぼごぼごふぁ?」(いやだって、お金になりそうだし?)


「ごぼごぼぁ! ごぼぼごふふごぼぁぁっ!」(いやいや! 貴重な古代遺産ですよ!)


「ごぼふぁ、ごぶぶふぁごぼぁぼぶー」(だって、魔術師ってお金かかるんだもんー)


「ごぶぁぁ! ごぶぶぁふふぁあっ!」(それでも! そんなことしちゃだめですよっ!)


「ごぶふぁ、ごふふぼほふぁふぁぼふぁ~♪」(よっしゃ、もう取れちゃったからこれ私の~♪)


 手足をばたつかせて制止しようとしたミスリルの努力も虚しく、強欲魔術師は両手で銀の塊を手にして頭上に掲げていた。


 ミスリルは尚も言い募ろうと頑張ったが、その細肩にすっと手が置かれる。


 アクネロが泣き笑いしながら首をゆっくりと左右に振っていた。


 彼は諦めたらしかった。


 アクネロは全身から疲労感を漂わせながらもイーリスに近づき、せめて重量を減らすように手話でサインをする。


 欲に駆られるのはいいが、自分が海の底に沈んでは意味がないとわかったのか彼女も渋々と頷いた。


 見学会は時間にして三十分ほどだった。


 アクネロは『ドレッド』に耳をつけ、内部の物音に耳をすませているようだったが、何も作動音はしていないようだった。拳で叩いて音を聴くが、感触からして壁は分厚い。開閉口も探したが見当たらない。手を突き出し、目を細めて三角測量を試みて大体の形や大きさを読み取り、知識を繋ぎ合わせては悩むように首を傾げていた。


 作業をしていても楽しそうで、ミスリルはアクネロの傍でうろちょろしていた。


 セリンの水術はそう長い時間は効力を発揮できないために戻らざるを得ず、また暖流に流され四人は元の砂浜へと戻る。


 足のつく位置で立ち、海面に顔を出した。


 海中で『ドレッド』を観察するために全身を使って泳ぐのはやはり陸上と違って負担も大きかったようで、誰の顔にも疲労の色が現れていた。


 ほとんど倒れかけているミスリルに肩を貸しつつ、アクネロは金属の塊を抱えているイーリスに前を向いたまま声をかけた。


「……イーリス。わかってるな」


「あはっ」


 満面の笑みを浮かべて誤魔化そうとしたがアクネロは顔を合わせず、平静を装って広がっている街並みを見つめた。


 陸上に戻れば心に安らかさが顔を出してくる。海中は物珍しいが水術が何かの拍子で解けたときを思えば空恐ろしい。


「その古代魔術は水中ながらも二千度の炎を放つものだ。溶かせたなら引きあげ作業や調査に使えるだろう。尽力せよ」


「あ、はーい」


「俺はお前が研究所や医療所を開く際には融資(ゆうし)してやる。今後、馬鹿な真似は控えるように」


「そっ、それは助かります。担保はやっぱりあたしの魅惑の肉体になっちゃいますか?」


「ああ、勿論だ。そして俺がお前を寝所に呼ぶときが来たとしたら、死ぬほど尻を叩くときだと思え」


 胸底にみなぎっている怒気を感じ取り、イーリスはひくひくと頬をひくつかせながらもしっかりと剥ぎ取った遺物は放さなかった。











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