第65話 北条の夜襲(閑話)※地図あり
天正2年(1574年)5月24日 夕刻 下総国 葛飾郡 葛西城
栗橋城の氏照から届いた「関宿勢の撃退、正木憲時討死」の報は、緒戦の惨敗に打ちひしがれる北条方を沸き立たせた。しかし、国府台に陣を敷く里見の本隊にはいまだ何の損害も出ていない。ここで、何とか里見本隊に痛撃を与えねばならぬ。氏政は夜襲を企図した。
夜陰に乗じ、小金経由で北条綱成、多目長宗 率いる夜襲部隊を里見勢の裏手に回す。
そして、向背からの攻撃と時期を合わせて、内応を約束した土岐治英、豊島頼継が陣を敷く矢切台を攻撃、内から門を開かせて占領する。
陣を南北に分断した状態で総攻撃をかければ、いくら大軍といえども持ちこたえることは難しいであろう。
諸将の一部は夜襲に、そして多くは明朝の総攻撃に備え、それぞれの持ち場へ散っていった。
――――――――――――その頃――――――――――――
「里見義弘様。申し上げたき儀がございます」
「おお! 浄三入道殿いかがいたした?」
「はい。北条方の陣地から強い戦気が立ち上っております。また、北へ移動する戦気も見られますれば、奴ら、夜討ちか朝駆けをしてくるやもしれませぬ」
「なるほど。永禄年間の再現をしようというわけじゃな。それにしても、また同じ手を使ってくるとはの。ふっ、ワシも舐められたものよ!
浄三入道殿! 礼を申す。明日以降の戦いでも頼りにしておりますぞ!」
「なんのなんの、お安いご用ですわい」
「よし! 相模台の義継、松戸の栗林義長に使者を送れ!『動き出したので注意せよ』とな!」
天正2年(1574年)5月25日 未明 下総国 葛飾郡 和名ヶ谷周辺
北条綱成、多目長宗 率いる奇襲部隊は、順調にその行程を消化していた。目の前に開けたこの和名ヶ谷の谷津を越えれば、目標である矢切台は目と鼻の先である。
なぜ、初見の夜道を、このように順調に進むことができたのか? それは、部隊を先導する風魔衆のおかげである。彼らの背中にくくりつけられた白布を目印に進んだことで、安全かつ迅速な移動が実現したのだ。
(「なぜか氏政様は風魔を嫌うておるが、中々に役立つ者どもではないか! 戦の後には、儂から待遇の改善を進言せねばなるまい」)
そのようなことを考えながら綱成が馬を進めていると、いきなり夜の静寂を切り裂いて、カランカランと乾いた音があたりに鳴り響く。鳴子だ! と、同時に、前を歩いていた風魔衆が、「ウッ!」と短く苦悶の声を上げたかと思うと姿を消した。あの消え方は、おそらく穴に落ちたのであろう。
流石は名将 北条綱成、瞬時に自分たちが嵌められたことに気付いた。
「退け! 退くのだ!!」
声を荒らげて撤退を下知する。今は夜、道案内をしていた風魔衆は消えた。
が、幸か不幸か、灯りには困らなかった。辺りに火箭が降り注いだのだ。そして、そこかしこに落ちた火箭は、積んであった草の山に当たると、一気に燃え上がる。これは、油を仕込んであったに違いない。
敵は暗がりに、味方は灯りの下に。これでは狙ってくれと言っているようなものだ。
「暗がりへ逃げよ!」
そう指示を出すと、綱成自身も一目散に暗い方へと逃げ出した。
走りに走り、夜が白み始めたころになって、ようやく一息つくことができた。よほど必死だったのであろう。その時初めて、右肩に矢を受けていたことを知ったほどだった。
道案内もない状態で動くのも危険なため、その場にとどまっていると、夜明けまでに3割ほどの兵が集まってきた。夜ということもあり、幸いなことに里見は追撃を控えたらしい。
しかし、副将である多目長宗が姿を現すことはなかった。逃げてきた兵の話によると、馬が谷津の田に脚を取られて転んだところを、雑兵に討ち取られたらしい。
弔い合戦を叫ぶ綱成であったが、自身が速やかに手当をせねば命に関わるような大けがを負っていた。必死に止める家臣に引きずられ、泣く泣く小金城に退いたのだった。
天正2年(1574年)5月25日 未明 下総国 葛飾郡 矢切付近
先陣を任された武蔵松山城主 上田長則と、その弟 上田憲定は、矢切台にほど近い太日川の葦原で息を潜めていた。奇襲部隊の攻撃に呼応するためである。
思わず眠りそうになるのを堪えつつ、どれほど待ったか。遂に遠くで鬨の声が上がった。程なくして東の空が紅く染まる。始まったのだ!
少々早いようにも思えるが、北条綱成のすることに間違いはあるまい。2人は葦原を飛び出すと、潜んでいた部下に合図を送る。彼らは矢切台への道をひたひたと登り始めた。
砦の門前まで進んだとき、約定どおり桔梗の旗が打ち振られ、門が静かに開き始めた。
それを見て、喜び勇んで門をくぐった長則たちであったが、程なくして奇妙なことに気付いた。矢切の砦は急造の陣城のはず。なぜ、急造の城に立派な虎口があるのだろう?
その理由は数瞬後に判明した。
いきなり櫓から鉄砲の斉射が行われたのだ。門をくぐろうとしていた配下の将兵がバタバタ倒れる。それだけではない。あろうことか、今くぐってきた門が閉まり始めた。
虎口の中で右往左往する長則たちに、無情にも狭間から石やら矢やらが降り注ぐ。戦意を失った2人は、程なくして捕らえられることになる。
分断された城外の部下たちもさして運命は変わらなかった。散々弓鉄砲を射かけられたところに、隠されていた別の門から土岐、相馬、豊島、岡見らの軍勢が逆落としに攻めかかってきたのだ。
こうなるともはや主君を救うどころではない。一目散に川向かいの陣地に向かって丘を駆け下る。渡し場には、作戦の成功を期して、既に第2陣が到着し始めていたが、そこに向かって潰走する上田勢が押し寄せた。
「夜襲は失敗に終わったぞ!」
「御大将討死!!!」
「里見の追撃がくる。早う逃げよ!」
口々に喚きながら逃げてくるその姿を見て、第2陣も大混乱に陥った。と、その時、南北から鬨の声が上がった。
北から迫るは栗林義長。南から迫るは千葉介良胤。そして、正面からは土岐治英らがかさに掛かって攻めてくる。恐慌を来した兵たちは、将が止めるのも聞かず、次々と太日川の昏い水面に飛び込んでいった。
※北条綱成さんは気付いてませんが、風魔忍者が消えた先は、落とし穴ではなく塹壕です。




