第42話 浦賀沖海戦・激突(閑話)
元亀2年(1571年)7月 相模国三浦郡 浦賀沖
南蛮船の裏から、見慣れぬ船が1艘また1艘と飛び出してきた。
その船は、大きさは関船と変わらない程度だが、両の船腹に長い棒のような物を多数伸ばしている。
そして、その棒で一斉に水を掻きながら、見たこともないような速さで突進を開始したのだ。
その速さには一瞬驚いたものの、よくよく見れば、かの船は関船に毛が生えた程度の大きさ。そのような大きさの船で、舷が高い安宅船に斬り込みをかけることは至難の業である。
海の城とも言うべき安宅船に向かって、小舟で突進を始めた里見の蛮勇には、もはや苦笑するしかなかった。梶原は、船を寄せて乗り込んでくるであろう敵勢を上から射すくめるべく、弓、鉄砲の準備をさせるとともに、斬り込みに備えるように指示を出すのだった。
しばし後、北条方から奇怪な軍船に対する一斉射撃が始まった。
矢弾が雨霰のごとく降り注ぐ。
しかし、里見の軍船の突進は止まらない。
よくよく見れば、かの船は甲板上に兵の姿はほとんど見えず、わずかにいる兵も竹把や矢盾で身を守っている。
兵が少ない? いや、あのおかしな艪のような物の数を見れば、漕ぎ手は相当に乗っているはず。と、なれば、甲板上の兵が飛び道具を防いでいる間に、漕ぎ手が斬り込んでくる作戦か。命知らずの里見の海賊のしそうなことだ。
さて、里見の海賊どもは、どのような手で斬り込んでくるのか。ここから急旋回するのか? いずれにしても、甲板上にのそのそ上がってきたところを針山にしてくれる!
梶原らが、手ぐすね引いて斬り込みを待ち構えていたその時、全く速度を落とすことなく突進してきた里見の船は、あろうことか、巨大な安宅船の船腹にそのまま突っ込んだ。
先ほどの大砲などとは比べものにならない大きな衝撃が旗艦を襲う。
ある者は、床を転がり、ある者は海に吹き飛ばされた。
梶原も床に投げ出された1人だった。
あれほどの勢いでぶつかれば、船がバラバラになるは必定。まさか、相打ち狙いだったのか!?
梶原がよろめきながら舷側をつかんで起き上がったとき、里見の軍船は何事もなかったかのように、安宅船から離れていた。
既に、己の乗艦は大きく右に傾き始めている。船腹に大穴が開いたのだろう。
旗艦だけではなかった。まともに突撃を食らった北条の船は、大小の違いなく傾くか、既に転覆していた。そして、安宅船を屠ったかの軍船どもは、狼が羊を追い立てるがごとく、全く手を緩めることなく、次なる北条の船めがけて突進を始めていた。
何と言うことだ! これは戦が変わる! なんとかしてこの敗戦を小田原に報告せねば!
その直後、水柱をあげて梶原の船は転覆した。
そして、船から海に投げ出された梶原を、その後見た者はいない。
「当方、浦賀沖で里見の水軍と海戦に及び、梶原備前守様、愛洲兵部少輔様、高尾修理様、小山三郎右衛門様らはことごとく討死、安宅船3艘に加え、関船、小早も多数沈没、壊滅的な被害を受けてございます。里見はその後、浦賀へ上陸、迎え撃たれた山角紀伊守様も討死なさいました」
「……なんとしたこと」
「さらに、三崎城も攻撃を受け炎上、港の軍船、多数持ち去られてございます」
「これは誠に一大事! 父上! 申しわけございませんが、すぐに三崎に戻ります」
「……氏規慌てるでない、いきなり飛び出したとて、できることはない。しかと準備を整えてから向かうのじゃ」
「はッ!」
「……またもや里見か! 一昨年和睦できていればこのようなことには、うッ!」
「父上!? 医者じゃ! 医者を早う!」
『相模の虎』と恐れられた北条氏康は、そのまま帰らぬ人となった。
残された当主氏政ら、北条一族の者は、氏康の遺言に従うべく、里見と和睦を結ぶべく交渉を開始することになる。
しかし、里見の前当主、義堯は、大の北条嫌いであり、交渉は難航を極めた。
この難しい交渉に全力をあげることになったせいで、当初、氏政が指向していたとされる武田との同盟交渉は、相当に遅れることになった。結果として、しばらくの間、武田は、北条・上杉・織田の3正面作戦を強いられることになる。
一説によれば、もし、この時期に甲相同盟が復活していれば、信玄は、遠江はおろか、美濃・尾張まで軍を進めていただろうとも言われている。
氏政:父上は、武田の裏切り以来、里見との和睦に執心なさっていた。あの里見義堯は、なんとも面倒じゃが、父上のご遺言じゃ。ぜひ儂が成し遂げねばならん!
天国の父上。お見守りくだされ!!!
氏康:(里見じゃないんだよ! お願いだから、里見よりも、先に武田と同盟してよ!!)
次回は本編に戻ります。




