第40話 北条の動向(閑話)
元亀2年(1571年)7月 相模国西郡(※足柄下郡) 小田原城
北条氏の先代当主、左京大夫氏康は死の床についていた。
『相模の虎』と恐れられた氏康だが、武田や里見に領地を蚕食されたことへの心労が祟ったか、元亀元年8月に中風で倒れていた。
病身の父、氏康に、朗報を届けようと、当主の氏政を筆頭に、一族総出で対応に当たってはいるものの、戦況は悪化の一途を辿っている。
春には北条綱成の奮戦もむなしく、駿東郡の深沢城が陥落。これにより、一時は全土を制圧した駿河は、わずかに興国寺城周辺を残すのみとなった。
また、6月には、千葉氏の本拠地、本佐倉城が里見に急襲され、あろうことか、千葉介良胤は降伏した。このことによる千葉一門の動揺は大きく、臼井城の原胤栄ら、一族のほとんどが里見に下ることになった。下総の北条方は、もはや葛飾郡の高城胤辰を残すのみである。
戦況の悪化に合わせるかのように、氏康の体調が悪化していったのは、無理もないことであろう。
日々悪化する体調。意識が混濁する時間も増えた。もはやこれまでか……。
己の死期を悟った彼は、何とか意思の疎通のできる今のうちに遺言を残すべく、主な一族を枕頭に集めたのだった。
「……皆、揃ったか」
「はッ! 集められる一門衆、全て揃いましてございます」
「……氏政殿、済まぬの。ワシはどうやらいかん」
「何をおっしゃいますか! 父上!!」
「……自分のことじゃ、良くわかる。もう何時まで、頭がはっきり動いてくれるか分からん。これから話すことはワシの遺言だと思って聞いてほしい」
「父上……」
「厳しいことを言う。今はお家の存亡の刻じゃ。西からは武田、東からは里見。同盟している北の上杉は全く頼りにならぬ。このまま座視していては、お家の滅亡もありうる……」
「では、いかがいたせば……」
「同盟を結ぶのじゃ」
「どことでございますか?」
「それはな……「御注進! 御注進! 各々方、一大事にございます!!」」
氏康の発言を遮るかのように、息を切らせた1人の男が、一族の揃う広間に飛び込んできた。
「……この大事な時に。いかがした!」
「はッ! 申し上げます!」
元亀2年(1571年)7月 相模国三浦郡 浦賀
その日、浦賀城は沸き立っていた。物見から、4か月ほど上総の長浜湊に停泊していた南蛮の巨船が出航したとの知らせが入ったのだ。
この4か月間、三浦の水軍衆は、ずっと歯がゆい思いをしてきた。南蛮勢を敵に回すことを恐れて、思うように上総・安房に攻め込むこともできなかったからだ。
下総・上総では、里見の手によって味方が苦境に立たされ、次々と討たれ、降っていく。なのに、精強な軍をかかえていながら、そのさまを、指をくわえて見ていることしかできない。この歯がゆさは、一言では言い表せない。
なぜか里見の奴ばらも、相模や武蔵に攻め寄せることはほとんどなく、浦々が荒らされなかったのが、せめてもの慰めである。
折悪しくも、三浦郡を統括する三崎城主北条氏規は、氏康危篤の報に小田原へ詰めている。
しかし、大将不在でも問題はなかった。水軍を統括する梶原備前守らには、氏規から「留守中くれぐれも好機を逃すことのないように」との指示が出されていた。そんなこともあって、彼らは、日々、訓練に明け暮れ、士気を高めながらも、里見に一矢報いる機会の到来を虎視眈々と狙っていたのだ。
そんな矢先の南蛮船出航の報である。
にっくき里見めに、ようやく一泡吹かせられる機会がやってきたのだ。水軍衆が沸き立たぬはずがなかった。
物見によると、南蛮船は数隻の関船に曳かれて、外洋を目指しているとのこと。また、警護のためか、数十艘の軍船が随伴しているらしい。
これは、またとない好機である。
里見の軍船は数こそ多いが、中型の関船と小型の小早が中心で、『海の城』とも言うべき安宅船は存在しない。それに対し、北条方は、紀伊の水軍衆を招聘したのに合わせ、5隻の安宅船を建造しており、そのうち3隻は三浦に配置されている。しかも、旗艦には大筒まで搭載されているのだ。
南蛮船を相模灘まで曳航すれば、疲労がたまるは必定。そこを圧倒的に装備で優る我ら北条水軍に襲われては、いくら里見の水軍が精強とは言え、ひとたまりもあるまい。
梶原の必勝の訓示を受けて、麾下の将兵どもは、その猛り隠そうともせず出撃の準備を整えたのである。




