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堕落の王【Web版】  作者: 槻影
Chapter15. 勇気(フォルティス)

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第四話:それではいつかまた

 魔王がいた。

 無骨な漆黒の玉座。音一つない王の間。

 闇よりも濃い髪に気怠げな眼。全身を覆う漆黒のコート。隈の貼り付いた顔の目付きの悪い優男。

 今まで出会った如何なる魔王と比較しても威光の足りないその佇まいに、嘗ての記憶が蘇る。その姿形は嘗て刃を交えた時と何も変わらない。


 他の悪魔はいない。王だというのに、誰一人いない。

 最後の記憶との差異はただ一点。その男が寝ていないというただ一点のみ。


 まさしく、私を待っていたのだろう。

 一言も述べることなく、攻撃の素振りも見せず眼だけでこちらを追うその瞳は得体の知れない闇で淀んでいる。右手に握る輝く聖剣に目もくれず、その視線は私の眼だけを捉えていた。


 ――怖い。


 一歩前に出る。

 全身に伸し掛かる重圧と、その無に等しい威厳とのギャップ。

 一見恐ろしくないように見える事が恐ろしい。もし初対面であったのならば、私は油断していただろう。

 泥の中を歩いているかのように脚が重い。


 声を出そうとしたその瞬間、魔王が口を開いた。


 その容姿に相応しい鬱屈とした暗い声。初めて聞く声。

 何を話すのか、肩に力を入れて待つ私は、その言葉に思わず状況を忘れた。


「逆上がり」


「……え?」


 逆上が……り?

 何の話……? じっと様子を伺うが、魔王の表情は変わらない。

 魔王が目の前にいる私を見ているようで見ていない目で語り続ける。


「昔、逆上がりができなかった。知っているか? 逆上がり? 鉄棒を使ってこうぐるりと回転するあれだ」


「な、何の……話を……」


「多分小学生の頃かな……体育の時間でやらされたんだが、俺はできなかった。出来るようになろうとも思わなかった。思わなかったから努力もしなかった。結局最後の授業が終わるまでできなかった。元々運動は苦手でな」


 つらつらあげられる言葉が理解できない。

 いや、単語の意味は一部を除いてわかる。だが、今ここでそのような会話を繰り広げる意味が理解できない。

 その意図が読み取れない。


 私を置いてきぼりにして、魔王が続ける。

 隙だらけだが、攻撃する気にもなれない。

 唯一理解できる事は、そのとりとめのない会話が本来決戦で行われるべき類のものではないという事だ。


「だから当然、中学に上がっても高校に上がっても大学に入ってもできなかった。まぁ、大学生になって鉄棒で逆上がりしている奴なんて見たことなかったが……まぁそれはいい。結局、社会人にあがっても、結局、俺は逆上がりを出来るようにならなかった。嘗ての記憶はもう殆ど霞んでしまったのに、何故かそれだけは覚えている」


 ふぅ、と。あからさまなため息をつき、魔王が唇を歪めた。


「――だが、今では何でもできる」


 笑った姿なんて想像もつかなかった魔王が、微かだが確かに浮かべたそれは――笑み。グローリアが浮かべた嘲りでもなく、そして純粋な微笑みでもなくきっとそれは『自嘲』だ。

 魔王の言葉は止まらない。まるで嘗て会った彼とは別人のように。


 淡々と告げられる言葉にはしかし、確かに理解できない感情が感じられた。

 話題が唐突に切り替わる。


「ならば、魔法のランプを知っているか?」

 

「魔法の……ランプ?」


 話を聞くだけ無駄だ。攻撃を仕掛けるべきだ。だが、手が動かない。

 意味の、理解のできない言葉が、私の動きを縛っている。それは、魔王のスキル何かではない。

 わかっていた。これは、動きたくないんだ。私が、聞きたいんだ。

 二回積み重ねた敗北の理由がその中にあるような気がして。


「ああ。千夜一夜物語……アラビアンナイトの『童話』だよ。古ぼけたランプを擦ると出て来る魔神の話だ。知らない、か……」


「知ら……ない」


 童話。

 聞いたことのない話だし、何を言いたいのかもわからない。今話すべきことなのか否かも。

 そこに凶暴性は見えなかったが、私は肩を震わせた。


 まだ、こちらに対して殺意を向けてきた方が……やりやすい。

 忘れていたかのように丹田から駆け上がってくる冷たさ。怖気。


 魔王が声をあげて笑う。乾いた笑いだった。

 今の光景だけ見れば、この男を魔王と呼ぶ者はいないだろう。

 その理由にふと気づいた。あまりにもそこに『渇望』が見えないのだ。


「あらゆる願いがランプを擦るだけで聞き届けられる。そういう話だ。あらゆる制約をなくしていくらでも願いの叶う魔法の道具。たまに思う。それを幸運にも手に入れたアラジンは……果たして何を考えたのだろうな……」


 わからない。何もわからない

 油断なく向ける視線を飄々とした態度で躱し、そして魔王の表情が変わった。

 ため息に、沈んだ声。


「勇者――」


 『勇者』


 その単語は、久しく聞いていなかった単語。

 私をその名で呼ぶ者はもう殆どこの世界に残っていない。本当に久しぶりの呼び名に、一瞬自らの事を呼んでいるのだと気づけなかった。


 私をその名で呼ぶのは多分もうこの男だけだ。勇者だった頃に倒し損ねた最後の敵。勇者だった頃の私を知っている敵。


「勇者……俺は――きっと『チート』だ」


「チー……ト?」


 足を組み換え、その奈落を思わせる瞳でこちらを見つめ、ため息をつく。

 その言葉の本意はわからない。だけど、その言葉には今までで一番感情が篭っていた。

 あらゆる全てに疲れきったかのような声。嘗て人間だった頃、勇者として生きてきた頃に、守るべき者がよく持っていた声。親を殺された子供、恋人を殺された青年、闇に抗い敗北しそれでも生き延びた片腕の戦士。


「何もしなくても何でも出来るようになってしまった。努力無くしてあらゆる行為を許容された。それらにはきっと何の価値もない。だからもう、俺の未練はお前だけだ」


 私には到底理解できない魔王の言葉。

 それに対して、思う所がなかったわけではない。


 しかしそれ以上に、賽が投げられたのがわかった。前口上が終わったのがわかった。

 そも、魔王と勇者。相対してやることなどとっくに決まっている。覚悟もしている。油断もない。


 それはきっと、相手もわかっている事だろう。


「さぁ、随分と久しぶりだな、勇者。俺を殺せるかもしれなかった者。俺を殺せるかもしれない者。俺の天敵。俺がただ一人自らの敵として定めた者。研鑽は十分か? 前回の戦いを覚えているか?」


 前回の戦い。傷一つ突けられなかった聖剣の一撃がフラッシュバックのように煌めいた。


 殆ど動かなかった魔王。

 この数万、数十万の年月は一体魔王の何を変えたのか。その表情には、緩やかな歓喜があった。


 初めて魔界に足を踏み入れた時に出会ったのはただの偶然だった。

 二度目はこちらから探し、戦いを求めた。

 きっと三度目の相対は運命だったのだろう。

 だからこそ、魔王は多数いるが、この男だけは私が殺さねばならない。


 『勇者』として。


 聖剣に更なる力を、魂を込める。

 以前の逃走。素の状態ですら刃が通らない超防御力。私の聖剣を折った魔王。


 そして、名も知らぬ、魔王が初めて名乗りをあげた。


「……そうだ、俺の名はレイジィ。『怠惰』を司る堕落の王、お前の――敵だ。邪魔者は全て片付けた。さぁ、勇者。俺を――」


 魔王の指が僅かに動く。感覚はこれまでになく研ぎ澄まされていた。

 とっさに横っ飛びに回避する。私の後方にあった扉が吹き飛んだ。


 『邪魔者は全て片付けた』


 やはり、グローリアに攻撃を仕掛けていたのはこの男か!


 レイジィを名乗る堕落の王が抑揚なく気怠げに呟く。

 床を蹴り、翼を使い加速する。


 レイジィの視線が私の殺意と交わった。

 魔王の唇が声を出さずに動く。


『――殺してみせろ』




*****




 勇者として与えられた、そして天使として昇華された力の全てを戦闘に向ける。

 手の震えも、身体の震えも止まった。

 踏み込み。足裏で床が砕ける。最高の集中力。最高のコンディション。魔王の力に恐怖する魂すらも、それを向上させるスパイスにしかならない。最大最恐の敵を前に、幾星霜を戦い抜いた経験が私に『倒せ』と囁いた。


 意識が急激に引き伸ばされる。レイジィの眼の下に張り付いた隈がはっきりと見える。


 レイジィ。堕落のレイジィ。

 口の中で名を転がす。


 今まで名前をあえて調べようとはしなかった。

 如何に人間だったとは言え、地上屈指の力を誇っていた勇者を防御もせずに撃退するその力、著名な悪魔でないはずがないのに。

 多分、それは逃げだ。確かにそれを前にして折れた。その存在に対する逃げ。知ってしまったら再び『討滅に向かわなくてはいけない』から。


 だが、いつか再び見えるのではないか、とも思っていた。そうでなくても、既に天の尖兵として大抵の悪魔の情報は脳内に叩きこんであった。当然の如くその名も知識にある。

 レイジィ。堕落のレイジィ。

 天に弓引く最も古き悪魔の一人。レイジィ・スロータードールズ。


 特性は既にわかっている。怠惰(アケディア)の悪魔の特性。

 それは、絶大なる防御力。ただそれだけ。

 その痩身に秘めた、そもそもの素の能力が隔絶しているが、攻撃力と速度は大した高さではない。少なくとも、グローリア程ではない。

 不可視の攻撃も感知できない程の超遠距離からでこそ、その脅威を発揮する。レイジィとグローリアが目の前で相対したらグローリアに軍配が上がるはずだ。


 必要なのはその魂を討滅できる破壊力で、それこそが私の……敗因。


 研鑽したか? ……言われるまでもない。元は与えられたものだったが、その力を研鑽した。戦乙女として、もう二度と敗北せぬように。生まれ変わってからの年月、決して遊んでいたわけではない。

 未練、未練、未練、だ。

 人の身ではとても埋めようのなかった――隔絶した差。


 魔法使いの憐憫の言葉が脳内でリフレインする。


 防御は考えない。かつて持っておらず今持っている力。勇気(フォルティス)の権能。心は、折れない。


「実は……少しだけ悪かったと思っているんだ」


 剣が届くその瞬間、目の前、後一歩の所にいたはずのレイジィが不意に一瞬で『遠のいた』

 間合いが乱される。想定と実際の齟齬。倒れそうになるその力をとっさに利用し、更に踏み込む。全力を込め剣を両手で握り、その心臓を狙う。


 ――その瞬間、再び『遠のく』

 気のせいではない。幻でもない。

 ……遠のく? いや、違う。レイジィは玉座に座ったままだ。


 遠退いているのは――『私』

 ほんの数メートル先の玉座が遠い。更に足に力を入れ、踏み込む。剣が届く寸前、視界が『切り替わる』

 幻術などではない。私の身体が操られているわけでもない。


「前回は、まともに相手をしてやれなくてすまなかった。まぁ、眠かったから仕方がないんだが……あの時もう少し真面目に相手をしてやっていたら、悔いは残らなかったかもしれない。そう考えると、夜も眠れなか――あー、うん、まあ……」


 会話しながら、レイジィの腕が小さく動く。

 全身が弾け飛ぶかのような衝撃。


 しまっ――


 気づいた時にはもう遅い。壁に激突し、そのまま押さえつけられる。目に見えない圧迫感。

 身体がばらばらになりそうな圧力。ミシミシと身体が、壁が悲鳴を上げる。


 レイジィの手の平が突き出されていた。ねじり込むように回転する手。冗談みたいなその所作に連動して、圧力が捻れる。

 それを事も無げに眺めながら、レイジィが丁寧に、まるで何かの時間稼ぎでもするかのように説明する。


 馬鹿な……いや、たった一つの力しか持っていないと思う方がおかしい。


 大丈夫、ダメージは想定の通りだ。骨も折れていなければ致命傷でもない。

 そして、それ以上に私はほっとしていた。レイジィが攻撃を仕掛けてきてくれる、その事実に。


「『物質転送(アポーツ)』」


 無抵抗の者に刃を向け、それでいて通じない。

 まるで私の全てが『無意味』である事を教えこむような状況、それこそが私が最も恐怖したものだったのだから。

 魔王が攻撃を仕掛けてきて、それを迎え撃つ。それならば、私はまだ『勇者』でいれる。


 例えその玉座から、魔王が立ち上がってすらいなかったとしても。


「『瞬間移動(テレポート)』に『念動力(サイコキノ)』。勿論名前は違うが……俺が嘗て欲しかったものは全て手に入ってしまった」


 自らのスキルをつらつらと上げていくその表情には侮りも怒りも悲嘆も何もない。

 魔王が立ちあがる。立ちあがる必要すらなかったのに立ちあがる。過去二回、ずっと寝転がったままだったのに立ちあがる。


「勇者、俺はお前に敬意を払い『魔王』としてお前を『殺す』。お前が俺を殺し、俺はお前を殺す。例え面倒臭くても、きっと俺はそうするべきだった」


 ただ立ち上がっただけなのに、決して力が上がっているわけでもないのに、全身を飲み込まれるような錯覚に腕が震える。

 必死に圧迫される身体をぎりぎりと動かし、押さえつけているものを聖剣で触れた。

 見えない何かが切り裂かれ消え去り、身体が解放された。絨毯の上に着地する。僅かに期待するが、レイジィにダメージはない。


 短く息を吐く。頭が割れそうに痛い。空気が足りていない。魔力が足りていない。

 確かに心が恐怖している。嘗て為す術もなく敗北したその存在に。それは一種のトラウマでもあった。


 だが、それを無視する。自信はあった。戦い続けてきた。殆どの相手は格上だった。

 それらに勝てたのは一重に――諦めなかったからだ。


 まずは一撃を与える。渾身の一撃を。

 狙いは悪魔の心臓――魂核。レイジィが人の形をとっている以上、その場所は左胸――本来心臓がある場所のはずだ。

 エネルギーの放出では駄目だ。直接斬らなくちゃ……


 呼吸を整える。剣には既に力が充填されていた。

 瞬間移動に物質転送。近づくのは至難だが、一度失敗すればきっと、二度は近づかせてもらえない。


 隙が欲しい。魔法を唱える。

 レイジィの動きは遅い。念動力とやらは魔王の動きとリンクしている。はっきりわかる。

 放たれた掌底を聖剣で切り払った。避けづらいがやはり脆い。そして、一撃でも与えれば力は消える。


 白の光がばちばちと明滅しながら左手に集まる。


 レイジィが沈んだ眼でじっと私を見ていた。


「はぁ、はぁ……」


「……ああ。凄くそれっぽいな」


「『天雷(ミカヅチ)』!!」


 舐めきった動作のレイジィが放たれた光の雷に飲み込まれた。


 勇者の持つ雷系の攻撃魔法。

 絨毯が発火し、玉座が飲み込まれる。聖の属性が付与されたその雷は本来ならば闇の勢力に大きなダメージを与えるもの。だが、将軍級ならばともかく、この魔王に通じるとは思っていない。


 放つと同時に宙に身を躍らせる。飛翔する。天井は高く、飛び回れる。

 悪魔にはなく天使にあるもの。翼による機動力はその中の一つ。


 光が晴れる。やはり、通じていない。その動作にダメージは見られない。

 大きく旋回、下降し上空後背から斬撃を放つ。その寸前に、光景が切り替わった。

 目前にいたはずのレイジィが消え、剣の先が空を切る。

 事前に覚悟していれば硬直もない。

 敵の力を精査する。物質転送。前兆なし。抵抗はできない。レイジィの目の前から部屋の端への転移させられた。目前に迫る壁。

 魔王の位置を一瞬で察知する。ここまで近ければレイジィの一挙一足は目に見ずともわかる。振り下ろされた見えぬ手の平を剣で迎え撃ち、切り裂いた。


 壁を蹴り、再び翼を動かし、レイジィの方に加速する。視線が交わる。その眼は確実にこちらの動きを捉えていた。

 剣に力を込め、同時に左手から無詠唱で『天雷』を放つ。レイジィの呆けた表情が光の中に消える。

 そのままさらに速度を上げ、光に飛び込む。飛び込む寸前にその中から声が聞こえた。


「やはり、俺は殺しには向いていないな……はぁ……分かっていた事だが――」


 レイジィの気配が消える。いや、移動する。

 目の前から後ろに。私が移動させられたのではなく、『レイジィが移動した』

 私の背後数メートル。


 物質転送。確かに強力な力だ。だが、強力な力には往々にして制限がつく。

 使用可能時間か? 距離か? それとも使用回数か?


 時間は与えない。連続で使える? 様々な思考が脳内を巡る。

 心臓が破裂しそうな程の速度でなっていた。別に死んでもいい。身体が本来の限界を超えた力に軋む。

 意識を更に加速させる。振り向きざまに再び雷を放つ。速さと力。隙が欲しい。ごく僅かな隙、一呼吸ほどの隙でいい。回避できず、スキルも使えないようなそんな――隙が。


 数メートルの距離など刹那の瞬間で詰められる。右方から振り払われた不可視の力を反射的に切り飛ばす。

 地を蹴る。踏み込みが強すぎて右足がぐきりと奇妙な音をたてる。折れたのだろう。痛みは感じない。別に構わない。


 限界まで魔力を注ぎ込まれた聖剣が刃を拡張する。エネルギーを物質化した光の剣だ。

 後一歩。後一歩で届く。レイジィは刃から目を背け、右手に視線を向けた。


 その瞬間、視界が落ちた。

 崩れ落ちるように地面が近づく。意識が一瞬空白になる。

 腕を動かそうとするが、動かない。目の前に輝く、握っていたはずの剣も私と共に落ちていく。


 衝撃。絨毯に顎がぶつかる。手も動かない。足も動かない。まるで夢幻でも見ているかのように現実感がない。

 そこで私はようやく、自身の腕が繋がっていない事に気づいた。

 遅れて胴に焼け付くような熱が発生する。それはまるで私の身体を浸食するかのように不気味に上に登っていった。


 痛みは感じない。無造作に目の前に転がる腕。聖剣を握ったままのその断面から、まるで思い出したかのように血が吹き出した。

 一気に遠くなる意識。それを何とか根性で耐え、腕を睨みつける。


 斬撃。切り落とされた腕。戦場で何度も見た、斬跡だ。


 ……そんな……いつの間に――


 レイジィは剣を持っていなかった。後、一歩で届くその瞬間まで魔王の手は確かに空だった。

 まずい。死ぬのはまずくないが、正体のわからない攻撃がここで出て来るのがまずい。

 時間はもうない。担い手を失った聖剣の力は時間が経てば経つ程に失われていく。


 意識が消え去る寸前、レイジィがこちらを見下ろし呟いた。


「……人形を知らない、か。はぁ……」


 ……人……形……

 明滅する視界。その言葉に、自分とレイジィ以外の力が近くにある事にようやく気づいた。

 人……形。レイジィ・スロータードールズ。スロータードールズの名の所以。


 そう、か……


「いい勝負だった、勇者。未練も多少は……治まったかもしれない、な」


「ふざ……けな……で」


 未練が……治まった?

 いい勝負だった?


 まだだ。まだ、私は負けていない

 十分に踏み込めた。レイジィまでの距離は既に一メートルにも満たない。

 聖剣にはまだ力が残っている。


「『勇者』を……な、めるなッ!!」


 ほぼ真上で背を向ける魔王の姿。明確な隙。

 残った力を振り絞り、咆哮する。

 現れた『死因:斬撃』の表示を振り払い、復活する。飛び起きるようにして前に出る。


 剣が意志に呼応するように輝く。

 最高の一撃。全魔力を、全存在を乗せた一撃が魔王の背に迫る。

 ほぼ同時に胸に再び熱が走ったが、もう遅い。

 剣の先が後背から左胸を突いた。


「……まだ生きて……いた、か……?」


「な――」


 そんな……


 全身の力を振り絞った剣。その肉体を、魂核を貫くべく放たれた突きが止まっていた。

 手が痺れる。腕全体に感じる硬い手応え。

 じわじわと侵食してくる熱と痛み。絶え間なく痛みを伝える痛覚を無視し、聖剣を回転させる。


 駄目……『硬す』ぎる。肉は貫ける。けど、核が傷つけられない。


 勝ち目が……ない。

 以前と同じだ。私が、どれだけ勇気を振り絞っても、どれだけ魔力を持っていても、どれだけスキルを覚えても、どれだけ引き出しが多くても、その身を傷つけられなければ勝利は……ありえない。


 ベースの力が違いすぎる。力が……力が、足りない。

 朦朧とした視界に映る背中は、その言葉には何ら感情が篭っていない。

 回避なんて……いらなかった……


 膝が砕け、地面が迫る。全身の力が抜ける。突かれたのは左胸――魂核を狙われた。致命傷だ。

 私が目論んだそれと同じ攻撃を受けたことを今更ながら理解する。だが、既に人形とやらの攻撃は私の心臓を貫いていた。


 大……丈夫。怖くない。負けない。倒す。倒せなばならない。私が立たねば――誰が立つのか。


 私の心はきっと――まだ、折れてない。

 レイジィの未練が私だと言うのならば、私に残った最後の未練も、嫌々、半ば惰性で戦っていた私が死して尚戦場に立つことを選んだ、その理由もまた……この魔王に、他ならないから。


 脳内を走馬灯のような何かが通り過ぎる。

 もはや瞼の一つも動かすことができず、私は死んだ。






*****






 特に理由が見つからないのならば、きっとそれこそが私が孤独を貫かざるをえない理由なのだろう。


 鼠色だった髪色は高濃度の光の魔力を常に帯びた事でいつしか、鮮やかな銀色に変わっていた。

 唯の銀色ではなく、碧の色に近い銀。


 鏡に映る銀碧色の髪はいつ見ても自分の髪のように思えない。

 既に鼠色の髪よりも遥か長い期間付き合っているはずなのに。


 鏡のように磨かれた水面に反射する姿。


 そこにいるのは一人の勇者だった。

 孤高の勇者。いつしか他者が『銀碧』の二つ名で呼んだたった一人の勇者。


 銀碧のセルジュ。セルジュ・セレナーデ。

 唯一人仲間も連れず、人類の敵と戦い続ける希望の剣。


「はは……は……」


 笑い声は震えていた。


 勇者のクラスは強力だ。それは人に一振りの剣である事を強要する。

 人体を魔なる者と戦えるよう改良する。筋力を強化し、魔力を水増しし、強力なスキルを与える。唯の成人すらしていない町娘の手で怪物(モンスター)を屠れるようにする程に。

 勇者のクラスで得られないのは肝心の『勇気』だけだ。それだけは自前のものを使わなくてはいけない。


 強い。確かにその力は強い。だが、それでも怖い。


 息が荒い。手が震え、心臓が強く鼓動する。

 手の平を見る。幾千幾万の闇を屠り未だ傷一つない白く艷やかな指が心中を反映するように慄いている。


 拳を握りしめる。

 それは既に何度も味わった恐怖で、そして、今更な話だった。

 私に屠られる者にとっては私の方がきっと恐ろしく感じられた事だろう。


 私を励ますかのように、右手に握った聖剣が小さく脈動する。

 口の中で呟けば、多少落ち着くことに気付いたのはいつの事だったか。恐らく、異形と戦い始めてそう遠くなかった頃だろう。そうでなかったらきっと私はとっくに……折れているはずだから。


「怖くない怖くない怖くない怖くない。負けない負けない負けない負けない負ける――わけがない」


 例え大切な者がいなくたって。

 例え共に戦ってくれる仲間がいなくたって。


 ただ前を見る。

 誰も聞く者はいない。いや、いてはならない。

 自身にいい聞かせるように呟く。


「だって私は……勇者だから」


 剣を強く握る。

 血と鉄と死の匂い。戦火の気配に異形の咆哮。

 常人ならばその光景を見ただけで発狂しかねない戦場。


 人と話すのが苦手でも魔物は斬れる。

 どんなに心細くても表情に出さなければ気づかれない。

 だから、どこまでいっても私は勇者を遂行できる。


 丹田に力を込め、心臓に意識を集中させ、思考を回転させ、全身の魔力を励起させる。目に見える程の濃度、銀碧の魔力が風と化して螺旋を描き舞い上がる。

 魔獣の咆哮が止む。目に見えぬ精霊が震え、世界が停止する。


 ざわめく世界の中、唯一人立った。


「ほら、やっぱり私は……強い」


 勇者のクラスを得て、数えきれない程の戦場を駆け抜け、わかったことがある。


 勇者とは兵器だ。その腕に技はなくとも、その心に義はなくとも、その魔力量だけで全てをなぎ払える光の使者。強力極まりないスキルも、闇の眷属に極大のダメージを与える聖剣もその副産物に過ぎない。


 かつて立ち寄った国の王が私に言った言葉を思い出す。


――勇者セルジュ、貴女の背には万の人民の命がかかっている事を努々お忘れなきよう。貴女が躊躇う度に人が死ぬ。貴女が引く度に人が死ぬ。貴女が敗北すれば――多くの失われないはずだった命が失われる事になりましょう


『……はい……』


 ただの小娘に重責を預ける恐ろしく身勝手な言葉だと思った。だけど、それで奮い立ったのも事実。


 剣からオーロラのような光が放出される。

 初めて放った時には見とれた美しい極光も今となっては何十何百と放ち、見慣れたものでしかない。


 異形の視線が集まる。

 あらゆる種から成る人類の敵。姿形も様々な怪物達に、私は表情だけで笑いかけ、聖剣から眩いばかりの光が溢れた。


「……」


 初めは無様に叫んでいた。そうでないと心身が恐怖で麻痺しそうだったから。

 今はもう一言もあげる必要がない。


 浅く息を吸う。浅く息を吐く。それだけで恐怖が紛れる。戦意に上書きされる。

 涙は勇者となった時点で捨てた。


 広く大地を見下ろせる丘から、転がるように坂を駆ける。急勾配でも足を取られる事がない。

 短時間なら――空さえ駆けられる。多少の障害物は踏み砕ける。勇者の力で強化された身体能力は魔獣のそれに勝るとも劣らない。


 聖剣を振りかざすたびに閃光が怪物を両断し、雷光が怪物を打ち砕く。視覚、聴覚の一切から血の匂い、肉を斬る感触、死の残骸を追い出す。

 並の魔族は姿形こそ恐ろしいものの、もはや私にとって紙切れみたいなものだ。僅か剣の一撃で、幾百もの人の命を奪った魔物が死んでいく。


 目標は常に――最も濃い邪気を纏う存在。人類の敵。


 戦場の、荒野の中央にそれは居た。死屍累々の中央で。

 のっぺりとした質量の影が三日月に口を歪め笑う。

 地上に現存する最上級の悪霊。片手の指の数では足らぬほどの国を滅ぼした現世界最強の悪霊に向かって、たった一人で私は聖剣を振りかざした。


 自分の愚かさにもはや震える笑いしか出てこない。

 友人? 仲間? そんなものが――出来るわけがない。


 勇者の力とは突出した個としての力。

 勇者のクラスを持つ者の中でも『最強』と呼ばれた私に……ついてこれる人類など存在するわけがなかったのだから。





*****






 意識が戻る。


「……まだ立ち上がれる、か……おかしいな……確かに殺したはずなのに……」


 気づいた時には、再び立ち上がっていた。

 脳裏をめぐった嘗て駆けた戦場、走馬灯は一瞬だ。

 わかっていた。もはや今の私に残っているのはきっと――勇気ではなく、ただの勇者としての矜持。


「怖……く……ない」


 聖剣が昔と同様、慰めるかのように光り輝く。

 経験に従い、背後から感じる気配に向け、身体を反転して聖剣を奔らせる。

 腕に感じる重み。鋭い剣戟の音。


 いつの間に現れたのか、全身を黒の甲冑で覆った何者かと剣を合わせる。力だけならば向こうの方が上。恐ろしい膂力、恐ろしい速度だが技術は私の方が……上。

 二撃、三撃、刃を交え、三撃目を剣で受けずに身体で受ける。両断される肉体に構わず、聖剣でその体幹、漆黒の装甲を右から左に叩き斬った。


 硬い手応えが確かに対象の絶命を伝えている。

 二メートル近い巨体が消失し、血を吸い込んだ絨毯の上に真っ二つになった黒の駒が転がった。


 『勇気(フォルティス)』の権能で再び視界に光が戻る。だが、転がった駒が脅威となる事は二度とない。


 震える身体を戦意でごまかし再び魔王と相対する。

 頭の中に巡り続ける絶望的な勝機に気づかない振りをする。


「……何だ……それは……」


「……負け……ない……」


 玉座に悠々と座る魔王。眉をしかめながらも、攻撃を仕掛けてくる気配のない魔王。


 核が貫けないならば首だ。首がだめなら手、足、とにかく少しだけでもダメージを――


 聖剣を両手で握る。何も聞こえない。何も見えない。何もわからない。

 踏み込み、振りかぶり首を狙う。腕の筋肉がギリギリと引き攣り軋む。こちらのダメージは気にしない。


 レイジィはこちらを見てすらいなかった。ため息をつき、右手を開く。

 目の前が真っ暗になる。だが、一度与えた運動エネルギーは消える事はない。剣は確かにレイジィの首を振り払いそして……


 ありすぎる手応えに心が塗りつぶされる。


 な……んで……肉が――


「――――」


 声がでない。必死に叫んでいた。

 さっきまで貫けていた肉が、確かに魂核までは貫けていたはずの肉に刃が――入らないッ!


 何で何で!? どうして!?


 文字列が現れる。『死因:魂核の破壊』の文字列も目に入らない。

 何も動かない。思考だけがぐるぐる回っていた。半ば停止した刻の中考える。


 骨が裂けなかった? 違う。骨まで至っていない。薄皮の一枚で止まってる。

 金属の鎧すら容易く切り裂く、高度な魔術的な結界すら容易く切り裂く聖剣に残る、硬い感触。

 それは奇しくも、勇者としての最後の戦いで手に残った物と――同じ。


 さっきまで、さっきまで確かに――通じていたのに!!


 心がこれまでになく戦慄する。

 『勇気(フォルティス)』を得て、初めての死で感じた大きな動揺。それを越えた衝撃。


 『不屈の魂(ブレイブ・ハート)』が震える。確かに、無敵だったはずの権能。怯えつつも震えつつも決して見失わなかった道がぐらつく。


 復活の有無を、立ち向かう意志を問う選択肢が私に囁く。

 単純な『はい』と『いいえ』の選択肢が意味を持って私に選択を迫る。


 『お前はまだ、戦い続ける意志があるのか?』


 『強大な闇を前にして、自身よりも遥かに上位の存在を前にして、立ち向かう理由(わけ)があるのか?』


 『お前にその勇気があるのか?』


 魔法使いのかつての問いがそれに重なる。


 『セルジュ、貴女には選択権がある。闇を払う勇者として生きるか、それとも――唯の一般人としてその一生を無駄に過ごすか――』


 その問いを思い出す度に思う事がある。

 もし仮にただの一般人として生きる道を選んだとして、果たしてそれは本当に無駄だったのだろうか?

 勇者として生きた一生は、そして死後も戦乙女と成り下がり戦い続けた日々は無駄ではなかったのだろうか?


 答えはまだ出ない。だからもう一度――


 抜き取られた魂核が勇気(フォルティス)のスキルによる超常によって蘇る。

 光が再び視界を祝福のように照らし、身体の奥から生命の熱が湧き上がってくる。恐怖を消し飛ばすかのような高揚感。

 多分、ずっと、『勇気(フォルティス)』の天使はその勇気だけを武器に戦い続けてきたのだろう。


 朦朧とした視界が焦点を結ぶ。いつの間にか玉座に身を預けたレイジィの視線が私を静かに見下ろしている。


「は、い……戦い、ます……」


「勇者、お前まさか……死なないのか。心臓を砕かれても復活するのか?」


 やはり、この魔王はグローリアと違って私の権能を知らなかったのか。


 何もなかったレイジィの右手に透明な結晶が現れる。精緻にカットされた金剛石のような輝きを抱いたそれが、手の平で握りつぶされる。


 視界から光が再び途絶える。この眼で見たことは勿論なかったが、直感で理解した。あれは――私の心臓だ。


 『物質転送(アポーツ)


 まさ、か……いや、それ以外……考えられない。『体内』からの物質転送。

 『死因:魂核の破壊』の文字が目の前で踊る。


 馬鹿げた力。無敵の……能力。悪魔でも天使でも、どんなに強くても……心臓を抜かれて生きていける者など……いない。


 ――私以外は。


 もはや躊躇いはない。心を燃やす。

 全ての闇を払うために。私の存在に意味を持たせるために。そのために勇者になったのだ!


 死が再び遠ざかる。全身を襲った虚無感を生の実感が上書きする。

 歯を食いしばり、また立ち上がった。何度でも、何度でも立ちあがる。立ち上がってみせる。


「負け……ない……」


「勇者……なる、ほど……勇者、か」


 渾身の力を込めた刃を、願いを込めた刃を、レイジィはただそこに留まる事によって受け止めた。

 悪魔ならば、闇に与する者ならば全て焼きつくす聖なる剣が止まる。首ではない。刃はその不健康そうな頬にぶつかり、そこで悪夢のように停止した。

 希望が打ち砕かれる。レイジィには血の一滴すら流れていない。正面から受けて、防御態勢すら取らず勇者の膂力と闇を討滅する光りを受けて、傷一つついていない。


 再び裂帛の気合を込め、突きを放つ。レイジィは避けない。

 しかし、左胸を狙ったそれは、その肉を貫くことなく止まった。

 駄目だ……硬い……硬すぎる。確かに一度貫けた皮が貫けない。


「なぁ、一つ教えてくれ。セルジュ」


 引く? 一端引いてまた立ち向かう? 立ち向かえるのか? この王に勝てる存在が……いるのか?

 いる。いるはず……。天界にはまだ私以上の力の持ち主が大勢いる。きっとその方々なら――


 ……そうだ、魔界……魔界から引き離せば、勝てるかもしれない。だけど――私に引き離せるの? 


「なぁ、セルジュ・セレナーデ」


 刃を突きつけられ、あまつさえ攻撃まで受けて、レイジィは全く私に敵意を向けていなかった。

 雷を叩きつける。世界が光で溢れ、激しい紫電の音が反響し、しかしその奥から響くレイジィの声は止まらない。


「お前は……死なないのか? その勇猛は、勇気は……死なないが故なのか?」


「……」


 雷光が消える。


 奈落が私を覗いていた。

 奈落が私に問いかけた。

 あらゆる光を吸い込む黒。闇色の虹彩が私を問い詰める。


「死なないが故の勇気。果たしてそれは――『勇者』と呼べるのか?」


 それはきっと純粋な疑問だ。そこには悪意も善意もない。

 でも、聞いてはいけない。正面から向き合ってはいけない。


 闇に惑わされてはいけない。心臓を砕かれるよりも意志を砕くそれは遥かにそれは恐ろしい。

 問いは数秒。答えなかった。だが、視線は外さなかった。


 魔王が動く。玉座から離れ一歩前に出る。破れかぶれに放った斬撃を、レイジィが手の平の中心で受ける。

 聖剣が驚くほどあっさりと手の半分を斬り飛ばした。


「……ああ、そうか。お前も俺と同じ『チート』だったんだな……」


 攻撃が通るとは思わなかった。

 一瞬思考が停止する。指が別の生き物のように飛び散り絨毯に転がる。


 それに視線を向ける事なく、レイジィの顔がこちらに迫っていた。目の下に張り付いた隈。強者にはとても見えない男の凡庸な顔。

 耳元に息が当たる。


「大丈夫だ。絶望などしない。……俺ならば、死のないお前に『終わり』をくれてやれる」


 今までとは一変した冷たい魔力が吹き荒れた。

 反射的に後退ろうとして、脚が動かない事に気づく。

 視界数センチ先まで近づいたレイジィの顔。その瞳の中に、表情を凍らせる私の容貌が映っている。

 足元からどんどん登ってくる冷気。力を振り絞るが、下半身が微塵も動かない。


「……永久(とこしえ)に眠れ。お前の事は忘れない」


 指先が凍りつく。丹田が力を失い、表面が停止する。

 痛みは感じない。ただ、熱だけが奪われていく。冷たい何かが背筋を通り過ぎる。ただの錯覚じゃない。


 レイジィがまるで、親が子供に言い聞かせるかのような静かな声で言う。


「俺はまた――いるのかどうかも知らない、次の勇者を待つ事にしよう」


「あ……あ――」


 レイジィの力の性質が変わっていた。ただ重い力から、重く冷たい力へ。

 その指が私の顎を固定していた。下を向けない。自分の身体がどうなっているのか見えない。だけど、分かっていた。

 時が止まる。魂が凍りつく。

 あらゆる一切が熱を失う。身体が、意志が。


 それは……死なのか?

 胸元まで凍りつく。じわじわとまるでいたぶるように静かに、しかし確実に。

 唇が意に反して動いていた。


「わた、し……死、ぬ、の?」


「死ぬのではない。終わるのだ。よく、俺の敵でいてくれた。もう……休むといい」


 一方的な宣告。穏やかな言葉に、昏い瞳。

 胸元まで凍りつき、そのまま鎖骨を登って喉を覆う。


 ああ、もう分かっていた。きっと……これが――最後

 聖剣が光を失う。とっくに腕は凍りつき、ぴくりとも動かない。例え聖剣がその光を保っていたとしても、それを振るう手はもう動かない。

 身体の芯から凍りつく。いや、これはきっと魔王の言うとおり――停止。

 胸まで既に凍りつき、しかし選択肢は現れない。

 今までにない現象。いや、私が人の身を失ったその時に一度感じた『それ』から数えて二度目の――終わり。


「――」


 声はもう出ない。

 動揺。感情が理解不能の波に揺らされる。

 後悔? 逡巡? 憤怒? 悲嘆? それとも――安堵?

 もうわからない。何もわからない。


 最後に聞こえたのは、今までに体験した各国の王からの褒賞、救った民からの喝采、天上の天使から賜わった神託などとは全く異なる、打算のない純粋な賞賛だった。


「それではいつかまた、天敵(とも)よ」


後一話あります。

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