第三話:……負け、ない
勇者とは兵器だ。
選ばれると同時に与えられる膨大な魔力を破壊のエネルギーに変え、万物を灰燼に帰す人型の兵器。
人族のあらゆる敵を殺すための兵器。聖剣もまた、それを成すための一つの手段に過ぎない。
それは、単純であるが故に隙がなく、それ故に、闇もそして、光すらも平等に破壊するはずだった。
光が晴れる。
口の中がからからだった。死んだわけでもないのに息ができない。喉が詰まる。
「やれやれ、わかっておらぬようだな……」
「え……ど……して」
光が放たれる前と何ら変わらないグローリアの表情が表れる。
その身体は勿論、巻きつけられた衣類とも呼べないボロ布にも、傷一つついていない。
ありえ……ない。
確かに命中した。グローリアは一歩も動いていない。
視界の端にすら映らぬ神速の斬撃。確かにそれは凄まじい。だがこれは、その驚愕すらも――遥かに凌駕する。
傲慢
七つの渇望の中でも強力な攻撃力と何よりも圧倒的な『速度』を誇る悪魔。
ならば、それならばこの防御力は何だ。威力不足で討滅にまで至らない、ならわかる。
全力を込めた勇者の一撃……三柱の魔王を滅ぼした力。無傷など、絶対にありえない。考えられない。
……これではまるで傲慢ではなく――
『セルジュ・セレナーデ は 死んでしまった。死因:斬撃』
意識の空白。唐突に現れた表示に、先程までより一拍遅れ、なんとか『はい』を選択する。
再び復活する。視界いっぱいに広がる地面。左手をつき、起き上がる。追撃はこない。
「何故、とでも言いたげな表情だ、ヴァルキリー」
グローリアの表情、まるで精緻な芸術品のようだった整った容貌が歪んでいた。
その表情の理由は憎悪か、あるいは憐憫か。
「貴様が我の部下であったのならば、鍛え直してやったものを……だが、『悪くない』」
聖剣に込められた力は全て放たれている。二撃目を放つには時間がかかる。
しかし、グローリアはその隙をつく事もなく、諭すように言葉を続けた。
いや、元より隙をつくまでもないのだろう。僅か数分で何十何百回何千回殺される。そのくらい、彼我の力量差は開いているのだから。
じりじりと力を充填する。必要な時間は十秒程度。
それを、この元天使が知らないわけもないのに、やはり、表情は変わらない。
「なぁ、ヴァルキリー。貴様は知らぬのか。否、知らぬ訳でもあるまい。『傲慢』の権能を。万物を『優越』する力を」
「ふっ――!!」
充填が完了。全神経を集中し、再び力を放つ。
グローリアはやはり避ける気配もない。空気が撓み、破壊のエネルギーが風を裂いてその小柄な身体を包み込む。
だが、それに対して返ってきたのは淡々とした言葉だった。
「……まだわからぬか。我が、敗北するわけがないのだ。否、我だから『こそ』、敗北する『理由』がない。避けるまでもない。セルジュ・セレナーデ、どうして、種族として天使の下位互換に過ぎない『たかが戦乙女』の貴様の攻撃が、元『聖王級』の天使であったこのグローリア・サイドスローンに通じると思うのだ?」
聞いてはいけない。まやかしだ。心を折ろうとしているだけだ。
耳を塞ぐ隙があるわけもなく、その言葉が脳を揺らす。
だが、数多の経験から鍛え上げられた戦闘理論は速やかにその言葉の意味を吟味する。
『優越』
勿論知っていた。それは、傲慢の悪魔の傲慢たる所以のスキル。
――自身の認識する格下からの攻撃を無効化する力。
「あっ……え……」
確かに、確かにその理屈で言うのならば、私の攻撃の全ては――『優越』により無効化される。
「……え? じゃあ――」
「貴様では例え億回攻撃を繰り返そうが、その刃が我に届く事は――ありえん」
まるで出来の悪い生徒に諭すような眼でグローリアが宣言した。
『威力』ではなく『法則』の問題。
それは道理。水が上から下に流れるのと同じように、私の攻撃がこの女に通じないという事。
再び目の前が真っ暗になる。
唯の錯覚でない事を、目の前に表示されたメッセージが証明している。
空っぽの中に浮かび上がる『はい』と『いいえ』の文字。
私の攻撃を全て『優越』する?
絶対に勝てない?
そもそもの攻撃力と速度。積み立ててきた努力と精錬してきた力。悪魔としての、そして天使としての格の違い。絶望。
その文字を十秒間じっと眺め、私は――
ゆっくりと、恐る恐る、『はい』を選択した。
再び視界に光が戻る。先ほどと同様の呆れたような表情が私を迎い入れた。
「死なぬか。……度し難いな。それは勇気か無謀か、か……」
「……」
射抜くような視線とそれに乗せられた侮蔑の情。
足元から登ってきた怖気と強者に対する根源的な怯えを息と一緒に飲み込む。
……負け、ない。
敗北はありえない。考えられない。諦めの悪さだけは昔から何者にも負けない。
勇者となった時点で全ての負の感情を飲み込む覚悟はしていた。
この程度で……『敗北』を選ぶのならば、私が天上に召される事はなく、そしてそれ以前に、勇者となる事もなかっただろう。
息はとっくに切れている。緊張とグローリアから放たれる威圧に身体が強張る。
完全に回復したはずの身体が何故か動かない。
口の中で言葉を出さずに自身を鼓舞する。
ずっと、独りで戦ってきた。どんな絶望的な戦いでも挑んできた。
勝てる。負けない。絶対など存在しない。ああ、そうだ。諦めが死ならば私は不滅。何十何百何千何万でも生き返って見せる。討滅してみせる。
セルジュ、貴方は強い。強い。強い。何よりも強い。
優越?
確かに強力だろう。魔王に至ったその渇望を超えるのは並大抵の事では不可能だろう。
だが、どこかに糸口があるはずだ。
いや、むしろ『優越』で無効化しているという事は、それを使用せねばダメージを与える事は可能という事。一撃目に僅かではあるが腕を切り裂けたのがその証。
――あらゆる手段を講じて尚、傷一つ負わせられない異常な防御力を持っているわけではない。
傲慢の悪魔を倒した経験など数えきれないほどある。弱点もまた分かっていた。
傲慢の悪魔への対策。
何よりも必要なのは――畏れを抱かせる事。
グローリアが格下だと認識している私に対して、脅威を、恐れを感じさせる威力のスキル。
乾いた唇を舐め、呼吸を整える。鼓動を沈め、意識を鋭敏に研ぎ澄ませる。
信じられないくらいに美しいグローリアの金の眼が爛々とこちらを睨みつけている。
その眼に宿る感情は侮り。絶対強者から下位者に対する見下しの感情。
唇を噛み、絶え間なく本能が鳴らす絶対強者への警鐘を噛み殺す。
恐怖に気づかない振りをする。自分を、自分の心を騙す。今までだってそうやって戦ってきた。人だった時も、そしてそれ以降も。恐怖は敵であり、そして友であった。
剣を握る手に力を込める。必要なのは最も威力の高い攻撃だ。聖剣による一撃こそが最上。
全力でエネルギーを溜め、放出するのではなくその剣身に集約し――直に切り裂く。
本来ならば一太刀浴びせる事すら至難だろう。だが、今のこの女には油断がある。
そこに僅かな、ごく僅かな勝機がある。そして、勝機がある限り私は――挫けない。
だがその瞬間、僅かな希望に向けて一歩を踏み出す瞬間、グローリアが頬を釣り上げ、唇を歪めて笑った。
「だが、しかし――その力、我に通ぜずとも、あの男には通ずるかも知れぬ、な……だが塗り替える時間はない、が……」
グローリアの翼が大きく開く。
その十枚の翼は恐らく天使だった頃の名残、本来の悪魔は持たぬものだ。
翼が僅かにはためき、グローリアの身体がふわりと宙に浮く。
「せいぜい、足掻くがよい……その力、どこまで通ずるか……貴様の蛮勇がこの地でどこまで示せるか――」
刹那の瞬間に思考が巡る。
逃げられる。私の翼で追いつけるか?
駄目だ。逃げられる。殺されればそれはラグになる。速度も私の翼よりも速い可能性が高い。
逃走するグローリアにはとても追いつけない。
大きく広げられた闇の翼。その翼は天使だった頃とは異なり、形状も色も遥かに禍々しい。
一歩踏み出す。飛翔する。空を蹴る。剣を振りかぶる。グローリアの身体が動く。目標対象が消える。十数メートル隣に現れる。
駄目だ、見えない。空中でもその動きは健在。追い詰める術がない。
逃げられる。いや、こちらが逃される? どちらでも同じだ。
気がついたら、言葉を放っていた。時間稼ぎのためではない。純粋な疑問。
たった独り、魔界に降りてから、殆ど声を出していなかった。久しぶりに出した声は酷く掠れていた。
「待って、グローリア! 一つ聞かせて!」
その天使は確かに天上に最も強く輝く星の一つだった。
神から強い信頼を抱かれる天使の一人だった。
数多の同胞から尊敬される女だった。会話を交わした事のない私が記憶するくらいに、天界に名を轟かす存在だった。
それが何故――
「何で貴女が生きてるんですか!? 貴女は確かに――」
グローリアが私の言葉を待つことなく更に上昇していく。
私はそれを追うでもなく、ただ見上げて叫んだ。
「――『魔王』と戦い、滅ぼされたはずなのに」
グローリアの動きが止まる。
その刹那の瞬間で、表情が完全に切り替わった。
その双眸が再びこちらに向けられる。
「……何?」
――歪な笑みから無表情に。今まで見た事のない表情に。
「魔……王……? 魔王と戦い……滅ぼされ……た?」
慄く声が天上より響き渡る。その矮躯がぶれる。
息が詰まる。目の前に輝く金の眼を見て、私はようやく首が締められている事を自覚した。
だが、余裕が無いのは私ではなく――眼の前の女の方だ。
瞳の奥で渦巻く淀んだ黒い感情。混乱か、あるいは憎悪か。
「魔、王、だと!? 馬鹿な、当時のハード・ローダーは――」
「はーど……ろーだー……?」
首の骨がみしみしと音を立てる。息ができない。
死ぬ。殺される。首をひねられて殺される。視界がちらちらと明滅し、魂が慟哭をあげる。
まとまらない意識の中、しかしその言葉の意味を考えた。
それは聞き覚えのある名前だ。
天界の中で出回っている強力な力を持つ悪魔のリストに連ねられた名前。
傲慢独尊の二つ名を持つ傲慢の悪魔。軍の先頭に立ち、数多の天使を屠った天使殺しの悪魔。
だけど、違う。そうじゃない。聞いていた噂と違う。
そもそも、将軍級の悪魔と聖王級の天使では位が違う。ましてや天使軍側の大将は当時、『対悪魔』最強の一人と言われた正義の天使。例え相手が徒党を組んだ悪魔とはいえ、正面から戦えばその優位は覆らない。
だから、当時、天界はその噂で持ち切りだった。だから、よく覚えている。
グローリア・サイドスローンは堕落の王の軍勢と交戦。
悪魔の軍勢を率いる将軍級悪魔を辛くも撃退するが――
「どういう……事だ。魔王に、負けた? 我が、敗北、した、だと!?」
身体が大きく振り回される。まるで子供がだだをこねるかのように。
私以上に、当の本人であるはずのグローリアは混乱していた。
完全に見えなかった気配が漏れ出している。締め付けられるような凶悪な魔王の気配が、もはや目の前の女が完全に天使の王ではない事を示しているようで悲しい。
チャンス。
今攻撃を仕掛ければダメージが通るのではないか。何とか剣を握る腕を動かそうとするが、力が入らない。天使や悪魔は呼気をそれほど必要としないが、しかしそれでも喉は急所の一つだった。
渾身の力を込めて睨みつける。しかし、グローリアはこちらを見ているようで見ていない。
まるで夢幻でも見ているかのような虚ろな視線。
何で……どうして――何を、見ているの……?
その時、不意に喉を握りつぶそうとしていた感触が消えた。身体に力が戻る。
支えを失った事で身体が落下、地面に墜落寸前で何とか翼を動かし空中にとどまる。
全身で息を吐き、姿勢を保つ。体勢を立て直した私の視界に奇妙な光景が入ってきた。
「あ……馬鹿……な――この、力、は……――」
空中で停止しているグローリアの姿。見開かれた眼。
だが、その姿は奇怪だった。
翼が全く動いていない。いや、動いていないというよりも、身体にピッタリと密着している。まるで空中に何者かに『固定』されているかのように。
しかし、何よりも異常なのは――その表情。
驚愕でもない、嘲笑でもない、その表情はきっと――『焦燥』と呼ばれるもの。
その唇から溢れる言葉は、刃を持って相対した私に決して向けなかった『怒り』
金の虹彩が何かを探し、ぎょろりと大きく動く。
そして、グローリアの身体が大きく『飛んだ』
翼を動かすこともなく凄まじい勢いで斜め下へ滑空、地面に激突、二度三度バウンドして止まる。
いや、滑空と言うよりはそれは『落下』に近い。
土煙を上げ墜落、しかし、すぐさま体勢を立て直し着地したグローリアが、再び宙に釣り上げられる。
足元まで伸びた髪が逆立ち、まるで掴まれているかのように宙に浮く。
今まで見たことのない光景。未知の現象。
何より、あらゆる攻撃を容易く受け止め目にも止まらぬ神速の動きを誇る悪魔が捕まるなど、誰が想像できようか。
グローリアの眼が誰も居ない空中を睨みつける。睨みつけている方向には何もないのに、その眼光は確かに何かを見ていた。
「そう、か……貴様、が――」
言葉が最後まで紡がれる事なく、グローリアの身体が髪を支点に大きく回転し、再び飛ばされる。今度は斜め下ではなく、地面に『並行』に。小柄な身体がまるで銃弾のように跳び、地平線の彼方で小さな煙をあげた。
何、この現象。……現象?
いや、違う。グローリアは確かに何者かに向けて言葉を発していた。
間違いなく故意によるものだ。何者かの攻撃だ。
警戒する。しかし、私の感覚の網には数キロの向こうで揺れ動く巨大な三つの力、そして付近にある多数の小さな悪魔の群れしか捉えられていない。
グローリアが飛ばされる寸前ですら、その付近には何も見えなかった。
見えない敵……いや、遠距離攻撃?
敵はグローリアに攻撃を仕掛けたが、私の方には何も向けてきていない。判断基準がない。
見えない。何も見えない。グローリアがやってみせた動体視力に捉えきれない『超高速』などではない。
グローリアが空中で固定されていた光景。傲慢の権能とは異なる摂理で成された『不可視』の力。
――天界で学んだ如何なる悪魔の能力にも合致しない力。
そしてそれは、受けた本人――グローリア本人にとっても異常事態だったのか。
「れいいいいいいいいいいいいいじいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!! 貴、様ああああああああああああああああどういうつもりだあああああああああああああああああああああ!!!」
地獄の底から聞こえてくるような怨嗟の唸り声が空気を揺らす。
獣の遠吠えのようなグローリアの声。彼方に吹き飛ばされたはずのグローリアが一瞬で目の前に移動し、遅れて強い風が吹き荒れる。
身体の節々が黒く汚れてはいるが、その身体に目立った傷はない。
だが、その眼は完全に切れていた。
鬼面。瞳孔が完全に開き、目に見えぬ敵を探し四方を睨む。
その力はもはや完全に隠蔽から開放され、馬鹿みたいな魔力が瘴気をかき乱し、砂礫を散らせる。
世界がまるで帳でも降ろされたかのように薄暗く変わる。
異常事態に気づいたのか、今までぶつかり合っていた三つの大きな力が動きを停止する。
状況の把握が間に合わない。わからない。何もわからない。情報が足りない。
第三者の攻撃である事は間違いない。だが、その姿が見えない。それが意味する事。殺意を振りまくグローリアが示す事。
それはきっと――
グローリアが何かを察知したかのように、その翼を大きく羽ばたかせ、螺旋を描いて上空に飛翔する。
ほぼ同時に地面が一度激しく揺れた。もし地に足がついていたら耐え切れないであろう地震のような揺れ。
地響きと共に地面が隆起する。大地に罅が入る。
「ッ――」
数秒をおいて、強烈な風が吹いた。上から下。
吹き降ろされる奇妙な風にとっさに抗う。
天を仰ぎ、宙を蹴り、翼を動かす。
開ききった視界。天に輝く血色の太陽。開けた空。雲ひとつない空。
天を翔ける。それは天使について呼吸と同様にできて当たり前の事。風は数秒で止み、大地を見下ろし、攻撃の一端を理解した。
――いや、隆起ではない。『凹んだ』のだ。
幅数メートル、抉られたかのように凹んだ地面。
どのようなスキルを使えばこのような結果を起こせるのか。
いや、地面を抉る程度ならば、グローリアは勿論他の魔王でも可能だろう。私でもきっとできる。
問題は、攻撃の手法がわからないという事実とそして、それを成したであろう第三者がどこにも見えないという点。
不可視の攻撃。風を操る能力? いや、グローリアが受けた攻撃の質を考えると――
真下の大地にグローリアが立つ。その意識はもう完全に私から外れている。
「す、姿を、見せろ、レイジぃ! 何故、貴様がッ!? 全て、貴様が――」
充血した眼。その表情は侮蔑ではない、狂気に近い怒りが見えた。その手に顕現された『断罪の剣』が無闇矢鱈と宙に煌めく光の線を刻む。
奔る無数の光の斬撃。余波で大地が滅茶苦茶に裂け、風がまるで鳴き声のように甲高い音を奏でる。
斬撃が飛ぶ。逆袈裟に放たれた斬撃が衝撃を伴い、すぐ隣を通り過ぎる。
当たらなかったのは、その一撃が私を狙ったものではなかったから。だが、後少しでもずれていれば翼を取られていただろう。
既にグローリアの眼に私はいない。いや、何も映っていない。
グローリアの咆哮と殺意は確かに何者かに向けられていて、だがその相手は見えない。
ただわかった事はたった一つ。
混乱した時ほど冷静に。ひたすらに積み上げてきた理論が、判断を下す。今までだって例がないわけではない。
それは悪夢だった。身体中の血が凍りついたかのような錯覚に、腕が震える。
――『上』がいる。
間違いなく、上がいる。
栄光と呼ばれた最上級の天使、そして今では悪魔と天使の権能を併せ持つグローリア・サイドスローンよりも『上』が。
そうでなければ、グローリアがここまで『怒り』を表すわけがない。
逃げる。逃げなければならない。伝えなければならない、この事を。
傲慢の特性とはいえ、グローリアに大きく劣る私では相手にならない可能性が高い。
まだ私にその力が向けられていない間に、天界に戻って報告を――
全力で翼を動かし、更に天に向かう。大地に渦巻く混沌とした瘴気を背に、太陽が急速に近づく。全身に感じる風で冷や汗が一瞬で乾く。
天界と魔界を繋ぐ道は特定の場所にしかない。
天高くで停止し、一度、地上を見下ろす。
豆粒のように小さなグローリアのような姿。先ほどからずっと感じていた三柱の魔王の姿。
やはり俯瞰で確認しても新たな敵らしき影は見えない。感じられない。
――だけど、一つだけわかったことがある。
「……これ、って……」
攻撃の――正体。
違う。正体はわからない。相手の権能もどこにいるかもわからない。
だけど、地上に穿たれた爪痕は偶然か必然か、私の知っている形をしていた。
伸びた五本の窪みと、その根本――そう、根本だ。根本に穿たれた巨大な窪み。穿たれた地、僅かな色の差異がはっきりわかる。地上からでは『大きすぎて』わからなかった、予想もつかなかったその形は――
「――手の……ひ……ら……!?」
途方も無く巨大な手の平。
まるで夢でも見ているかのようだ。目を見開き、更に上昇する。
大……きい
縮尺は滅茶苦茶だが、確かにそれは……人の手の平の形をしていた。先ほど出来上がった隆起、大地の凹みは――ただの指の一本。意味が無いものとは思えない。
予想外のそれに呆然とする私の目の前で、大地が地鳴りをあげた。
黒の荒野に『跡』が次々と発生する。世界の終わりを思わせる激しい音も、轟々と鳴り響く風の音も忘れる。
もしもこれが本当に生き物の手によるものであるならば、その持ち主は天を突くほどの巨体に違いない。今まで戦ってきた如何なる生き物よりも巨大な――
その手の跡と比較すれば身長二メートルにも満たない私やグローリアなんて蟻のようなものだ。スケールが違いすぎる。
グローリアの身体が固まり、再び、吹き飛ばされる。飛ばされるその最中に、翼を使用し体勢を整える。
今ならばわかる。それは、正しく、投げ飛ばされているのだ。『見えざる手』に。
それを攻撃を受けているグローリア本人も気づいている。
滅茶苦茶に振られた剣は手の持ち主に反撃するため。
そして、それは『成功していない』
可能かどうかはまた別の話だけど、グローリアは離脱すべき、逃げるべきだ。糸口があるのかないのか、がむしゃらに刃を奔らせるその佇まいには先程まで私と相対してきた時の冷徹さが見られない。
目を凝らす。しかし、グローリアにもまたダメージはない。
不可視且つ広範囲のため回避こそ困難ではあるが、その手による攻撃、威力は高くないのだろう。何度も攻撃を受けたにも関わらず、身体に目立った傷はなく、多少の傷も魔王ならば短時間で治る。決着がつくとしても相当長い時間がかかるだろう。
撤退の思考に僅かな迷いが生じる。
どうしよう。
正体は勿論、目的はわからない。
だけど、あの手の平の大きさ、意図的に外さなければ私も潰されていたはず――
この力の主は……グローリアのみが目的?
もう少し様子を見るべき?
グローリアと手の主。最低でも二人、天界の認識外がいるのだ。少しでも、ほんの少しでもいい。多くの情報が欲しい。
翼を大きく羽ばたかせ、いつでも逃げられるように準備をする。
その時、感知の反応が消えた。
常に頭の片隅で感じていた三人の魔王の気配が刹那の瞬間に消え、再び現れる。いや、一瞬消えたのは三人だけではない。
瞬き一つしていなかった。確かに瞬き一つしていなかったのに、眼下に映る光景はコンマ一秒前とは全く違っていた。
唐突に出現したのは、無数の悪魔。グローリア他、三人の魔王は勿論、魔王以下の悪魔の群れが『いつの間にか』真下に集まっていた。
強化された視力に逆行。豆粒のような悪魔の表情まではっきり見えた。本人も気づかなかったのか、呆然とした表情。
状況がくるくる変わる。
動けなかった。思考の間すらなかった。
風のざわめきも悍ましい魔力の励起も荒むような瘴気を感じる間すらなかった。スキルが使われたのか否かの判断さえ出来なかった。
揺れ動く思考。まるで夢でも見ているかのように、一所に集められた悪魔が消える。再び光景が変わる。
視界が闇に満たされる。そこでようやく、私は自意識を取り戻した。
足が震え、魂が凍えた。
状況把握。呆然と周囲を見回す。判断する。
見ていたものが変わったのではない。悪魔たちが消えたのではない。
グローリア達がいなくなったのではなく――私が移動したのだ。
漆黒の石材でできた酷く薄暗い通路。測ったように定期的に並べられた燭台。冷たく思い空気。
蝋燭の朧げな光が、逆にそれに照らされぬ廊下の隅、天井の角の闇をより濃く感じさせる。
先ほどまで確かに感知していたグローリアと他の悪魔の気配はもうない。その代わりに感じるのは――どこか懐かしい気配。
脳の中心が氷の刃で貫かれたかのように冷たく痛む。
もはや途方もない昔にたった二度だけ感じた気配。
ぎしぎしと手が軋む。
無意識の内に、剣を全力で握っていた。手が白ばむほどに力強く。
ああ、忘れるわけがない。思い出すまでもない。
例え途方もない昔だろうと、人間時代の、勇者時代の記憶のほぼ全てを忘れてしまう程の昔だろうと、『それ』を忘れる事だけはありえない。
それは苦い記憶。
それこそが、私が勇者として戦った、最後の敵。
その瞬間、私はグローリアの事も他の悪魔たちの事も神託も全て忘れ、嘗てを想った。
本物の英雄だったのならば、勝利で、あるいは相打ちで終わるはずだったその英雄譚は一方的な敗北で終わっている。
*****
勇者と魔王。
きっと人の誰もが対等だと思うであろうその組み合わせは、実は対等ではない。それを私は、誰よりも知っていた。
勇者だった私の敵は魔王ではあったが、それは地上の魔王であって、魔界のそれは人の手に負えるものではない。
魔界
それは、一種の禁忌である。混乱を避けるため、存在を知る者すら殆どいなかった、世界屈指の魔境。
お伽話の中にしか存在しない地獄。してはいけない地獄。
そこは、上級の悪霊たる悪魔がその頂点に立つ奈落の世界だ。
地上とは異なる瘴気が渦巻くフィールドは、ただでさえ強力な力を持つ『悪魔』という種を桁違いに強化する。地上に現れる悪魔の力は切れ端のようなものだ。魔界の悪魔に比べたら足元にも及ばない。
その事を、私は勇者となり、得た莫大な力を研鑽し、あらゆる闇を払い実績を積み立て、初めて魔界に立ち入る事を許されて初めて知ったのだ。
勇者とは希望。闇に与する者に対して敗北は許されない。
それなりの数存在する勇者の中でも私にその情報が齎されたのは恐らく、私が他の勇者の頻度など話にならない速度で絶望的な戦いに身を踊らせる勇者だったからで、だがしかし、相手にもならなかった。
文字通り、『相手にも』
眼を瞑る。
感知の中で感じる何よりも重苦しく、そして静かな魔力。
まるで誇示でもするかのようにその力が脈動する。
見られている。既にこの魔王には私の気配がわかっているはずだ。それなのに、動かない。まるでこちらに向かってこいとでも言っているかのように。
害意はなく、その力に乱れはなく、だが大きさだけは何よりも大きい。
もしかしたら――グローリアが最後に見せた身を切るような魔力よりも。
鋭さのない、重くのしかかるような力。ようやく気づく。先程までグローリアと相対していた時に感じた血と魂のざわめきの正体。多数の魔王が入り混じっていたために気づかなかった気配。
途方も無い重圧を感じる。その中を、一歩一歩踏みしめるようにして歩く。
想い出を汲み出す。間違いなく、勇者だった頃に戦った時に感じた力。それを遥かに凌駕している。
だが、心臓は驚くほど平静だった。
討滅されてはいないと確信していた。だが同時に、されていてもおかしくないとも思っていた。
魔界は弱肉強食。基本的に同族争いをしない天使と比較して顔ぶれの変化は激しい。いくらなんでも、抵抗しない悪魔が悠久の時を生き残れる可能性はきっと高くない。
まるで迷路のような通路。黒の壁。壁一面に刻まれた規則的な傷。魔王の城だろうか。
内部を、力を研ぎすませながら淡々と歩いて行く。
いない。本来魔王の城には溢れる程いるはずの配下の悪魔が欠片も見当たらない。
だが、それすらも不自然には感じない。
力を精錬する。
それはきっと、私に残った唯一の『未練』だ。
あらゆる悪霊、あらゆる人間、あらゆる罪科を全て切り伏せ、自分だけの為に世界を救い続けた私に残された唯一の未練。
戦いが好きでもなかった私が死後もそれを継続する道を選んだ理由。
歩みを邪魔する者は誰もいない。
辿り着いたのは城の最奥。巨大な両開きの扉の前。
閉じられた一枚の扉を通して感じるその力に、目を瞑る。短く呼吸をする。
成る程……桁が違う。
天界が何故、私を送る事を選んだのか、ようやく理解した。
これはきっと運命――いや、因縁だ。
私は勇者で、奴は魔王。私は勇者としてのその全命を賭けて、かつて敗北したそれを討ち取らねばならない。
刹那の瞬間に全ての覚悟を終え、私は長らく開く事ができなかったその扉を開いた。




