第二話:必要なのは力ではなく、勇気
――失敗した。
注意が薄くなる上空からの奇襲、背負った翼を操った渾身の突撃が容易く躱される。
頭蓋を砕かれる衝撃と同時に悟る。
悪魔は強い。特に魔界の瘴気は悪魔に桁外れの力を与える。地上や天界で戦うのとはわけが違う。
それが悪魔の最上位――魔王ともなれば如何程のものか。
わかっていたつもりだった。
なにせ、悪魔と戦うのも魔王と戦うのも初めてではないのだから。
何体も倒してきた。何体も倒せてきた。
魔王の持つ広大な知覚域を欺けるとは思っていない。気づかれている事を前提とした奇襲は見るも鮮やかに回避され、叩き潰された。
強い。フェードアウトしていく視界の中、考える。
おまけにこの敵はまだ本気を出していない。まるで日常生活の一部であるかのように、自然とした動きで自然とスキルを発動し、殺意すらなく自然に迎撃された。
どれだけの長い年月研鑽してきたのかすら想像できない。その一撃には積み重ねられてきた『凄み』があった。
失敗したと悟った瞬間に胸中に溢れるのは恐怖ではなく――押しつぶされそうになる程の不安だ。
視界がまず砕かれ五感が消え失せ思考が沈殿し、魂が闇に消えかけ――
――そして、『スキル』が発動する。
記憶がフラッシュバックする。
勇者としての限界。敗北。神様にすくい上げられ、天使となった事。研鑽した力。悪魔を打破するために研鑽した力。滅ぼし尽くすために研鑽した力。
私は脳内に浮かぶ『問いかけ』に対し、躊躇いなく『はい』を選択した。
呼吸が戻る。世界に光が蘇る。砕かれた頭も爆散した脳も、真っ二つに避けた肉体も何もかもが、また元に戻る。
死からの逆行は、何十何百何千回味わっても慣れる事のない不可思議な感覚だ。
身体に力が入る。ゆっくりと立ち上がる。
巨大な影がこちらを見下していた。観察するかのような金の瞳。ただ泰然と佇む巨漢はまるで岩のようだ。
そして何より、今まで戦ってきた悪魔と異なり、その悪魔の反応は決して『初めて見た』者のものではない。
身の丈二メートルを超える禿頭の大男。褐色の肌に全身に纏った筋肉は鎧。その出で立ちは今まで見たことのある悪魔の中でも極めて人に酷似している。武器などを持っているようには見えないが、その肉体に武具など必要としないのだろう。
何より恐ろしいのは、彼我の距離二メートルまで近づいてもその男から何の力も感じないという事。
悪魔の力は高い。本来ならば遠くからでも本能で察知できる。相手が突出した力を持つ魔王ともなれば例え数キロ先からでも。
悪魔は七つの大罪のいずれかを司り、性質もそれに準じるはず。
だが、眼前の悪魔は見たことのないタイプだった。己の気配を完全に消し去るなど、知識には全く無い。
もしも事前情報なし、注意していなかったらこの魔王の存在にすら気づかなかっただおる。
この男が……『神』が危惧していた……厄災?
正体不明の悪魔を前に、『聖剣』を翳す。
追撃の好機のはずなのに、その男は身動ぎ一つしない。腕を組んで見下すその眼光は金色に爛々と輝き、その口には傲慢が張り付いていた。
「……成る程、貴様が件の――セルジュ・セレナーデ、か……よもや『本物』まで現れるとは……つくづく我もついていないものよ」
「……はっ!」
悪魔と話す事なんて……ない。
短く息を吸い、地を強く蹴る。
聖剣に力を注ぎ込む。
聖剣とは高い神性を擁した剣。世界最強の――いや、人族最恐の剣。だがしかし、地上まで出てきた悪魔ならばともかく、魔界の悪魔を前にして一太刀に切り殺せる程の力を有してはいない。
だから、力を、魔力を込める。もはや幾星霜前だったかすら覚えていない程の昔、かつて人だった頃に振るった『勇者』としての力を。
青白い刃が淡い光を纏った。それは闇を切り裂く刃だ。脆弱だった人が魔を打ち砕くために研鑽した力だ。振りかかるあらゆる悲しみ全てを打ち払うための光の剣だ。
魔王は動かない。
裂帛の気合を込めて突き出した刃が魔王の体幹――その魂の核がある可能性が最も高い左胸を貫く瞬間、丸太のような腕が剣を振り払った。
刃が腕を僅かに切り裂く。
漆黒の血が飛散し、それが地面に落ちる前にその足が鳩尾を抉っていた。
息がつまる。内蔵が抉られ、脳が悲鳴を上げる。
天使として強化された肉体、身体に纏っていた防御結界が一瞬で砕け散り、みしみしという嫌な音が骨を伝って聴覚を刺激する。視界が明滅し、痛みで目の前が真っ暗になりかける。
身体が数秒宙に浮き、地面に叩きつけられる。全身を圧迫する衝撃と痛み。
痛い。苦しい。怖い。強い。感じた全てを無視し、考える。
挙動の瞬間が見えない。本来ならば攻撃の瞬間、力を発する瞬間に発生するはずの気配の揺らぎが微塵も見えない。あまりにも速過ぎる。
強い。倒した三体の魔王とは比べ物にならないくらいに。
糸口が見えない。彼我の力量差は絶望的。動体視力が全く追いついていない。そして何より気配を消す権能が――異質過ぎる。
「――っ……」
喉の奥から上がりかけた悲鳴をぎりぎりで飲み込む。
痛みと彼我の力量差にネガティブな方向に傾きかける思考を、リソースを分析に振る事で誤魔化す。それは、長年戦っていく上で培った、心折れずに戦い続けるための術だ。
天使にも種類があるように、悪魔も司る欲によって使用できる権能が異なる。これほどの身体能力、目に止まらぬ程の速度と素手で真正面から結界を貫くその力。
その一撃から推測出来る権能は、司る渇望はたった一つだった。
傲慢
多種多様な悪魔の中でも特に注意せねばならぬ悪魔。
『死亡』していないから痛みが消えない。脳内に選択肢も出てこない。
『手加減』されている。魔力で強化された肉体も、天使の持つ結界も、この悪魔に取って紙切れのようなものだ。やろうと思えば一撃で私の身体を肉塊にできるくらいの力はあるだろう。
いっその事、死んでしまえば楽になれるのに――
全身を襲う死なない程度の痛みに、生命としてあるまじき考えを抱きかけたその瞬間、男が声をあげた。
その身の丈に見合ったまるで地鳴りのような声。しかし、轟々とした声とは反し、その内容には知性が見えた。それは、悪魔がただの獣でないとされる理由の一つ。
「その権能……『勇気』か……厄介な権能、だ……いや――」
額に寄った皺が消え、顰められたような表情が歪んだ。
それは声こそ出ていないが、明らかな『嘲笑』だった。
何を嘲るのか? 彼我の力量差を知りつつも攻撃を仕掛けた私を嘲っているのか?
いや、悪魔の考えている事など、わかるわけもない。
ダメージを確認。全身の痛みは残っているが、攻撃行動に影響なし。そもそも、撤退の選択肢はない。
剣を杖に立ちあがる。
膝が震える。腕が震える。身体全体が震えるのを押しとどめ、立ちあがる。立ち上がらねばならない。
勇者とは闇を打ち払う者の総称。ならば、そこに滅ぼすべき闇がある限り、その魂は不滅であるべきで、私はそれを強く自身に課している。
――そうしないと……戦い続けられない、から。
思考の中で反復されるその言葉は一種の暗示。重ねられたその文句の数に比例するかのように聖剣の纏う光が輝きを増す。
魔王は眉一つ動かさずに、呆れたように宣告した。
「無駄だ……貴様の力が我に届く事は――ない」
届かない。知ってる。
一撃目で悟っていた。例えその力が魔力の大きさで測れなくとも、力に差がある事くらいわかる。何よりこの魔王は……速すぎる。
だがしかし――
今までの戦いの日々を思い出す。
強くない敵などその中にはいなかった。常に命を賭して戦ってきた。
この魔界に降り立ってから倒した三体の魔王もまた、強く厄介で万物を塗り潰すに足る渇望を秘めていた。
まず必要なのは力ではなく、勇気。それが尽きない限り私に敗北は――ありえない。
視線に力を込め、名も知らぬ魔王に殺意を、戦意を叩きつける。
黒の大地、暗く重い、淀んだ空気を満たす『瘴気』に何故か血が、魂がざわめく。精神が高ぶる。
目と鼻の先にもう三柱、巨大な気配がある。間違いなく魔王級。如何なる理由でこれ程の数の魔王が集まっているのかは知らない。
知らないがそれは、悠久の生の中、積み重ねてきた戦闘経験の中でも、これから飛び込む戦場は最も長い戦いとなる事を予感させる。
驚くべき事に、殺意を向けられてさえ魔王はこちらに戦意を示さない。プライドの高い傲慢の悪魔では今まで見られなかった反応が不気味で仕方ない。
……怖い。
「……理解していないようだな、『勇気』。勇気と無謀は――違うのだ」
魔王が嘲笑う。
『勇気』
私が死亡し、戦乙女になったその瞬間に得た権能の名前。天使が司る希望の一つ。
僅か二度刃を交えただけで看破された!?
……いや……違う。何より恐ろしいのは、看破して尚、余裕を崩さない魔王の態度だ。
燃え盛るような笑みを浮かべたまま、その姿がぐらりと揺らいだ。褐色の肉体、巨体がまるで粘体生物のようにぐにゃりと歪み、溶けていく。
ぞくりと怖気が背筋を駆け抜ける。既に頭がないはずなのに、その声は止まらない。
「貴様が如何にその『不屈の魂』を証明しようが、何千何万回試行しようが……全ては――無意味。セルジュ・セレナーデ。戦乙女、戦乙女、か――ああ」
理解ができない。これまでに積み重ねてきた如何なる経験とも合致しない未知に手が震える。
どろりと溶け落ちる肉体が地面に溢れ、そして、まるで幻のように消えていく。
二メートルを超える巨体が上から溶け、中から――三周りも小さい肉体が表れる。
隙だらけ。わかっているのに、中から出て来るモノから視線を外せない。
「え……そ、ん……な……」
呼吸が止まる。
筋骨隆々の肉体が溶け落ち、中から現れたのは――少女だった。
それほど身長の高くない私よりも一回り小さな少女。身体の大きさに見合わぬ大人びた容貌。鋭い視線と盛り上がった胸。
白の肌に金色の瞳。背に生えた五対十枚の闇色の翼に、足元に至るまで伸ばされたプラチナブロンドの髪。
その身を包むのはボロ布のような何の装飾もない布切れだが、多少の変化はあるが――その容姿、存在感は見紛うはずもない。
――遥かな昔、覚えのあるその御姿。
見たのは一瞬、一瞬だけだ。記憶の奥底、霞の彼方にのみ残る僅かな一瞬。
ただひたすらに長き生、殆どの記憶が埋没してしまった今でも覚えているのはそれが――私が戦乙女として天上に召された……直後だったから。
恐らく、向こうは私を見ていない。覚えていないだろう。会話すらかわさなかったのだから。一言すら交わせない程に地位が、力が離れていたのだから。
……だけど、私は覚えている。一目見れば魂に焼き付く強烈なカリスマ。
五対十翼の光の翼。
あらゆる正義を執行する天上でも十指に入る聖王級天使。
王の中の王。至高なる天上界の神々へ栄光の果実を捧げし者。
嘗ては生えていなかった漆黒の尾がぴしゃりと地面を叩きつける。
「馬鹿な……何、故……貴女が――」
「やはり、我が姿を見たことがある、か……くっくっく、奇縁、とでも言うべきか……」
差異はある。嘗て見上げたその天使の翼は光そのものを形にしたかのように輝いていたし、眼は金色ではなく澄んだ翠だった。尾も生えていなかった。
だが、逆に言うのならばそれ以外は何一つ変わっていない。顔立ち、姿形、身長、口調、表情。一瞬見ただけで焼き付けられた威光は数万数十万の時を経て色褪せていない。
……いや、違う。
そんなわけが、ない!
首を振り、自らを奮い立たせる。
悪魔は悪徳の申し子。人心の陰より忍び寄りその魂を喰らう者。
一言一言、自分に言い聞かせるように問う。
「馬鹿な……何の――真似、だ……魔王。何故、今更そのような姿を取る――」
「ほう……面白い、面白いぞ、戦乙女。この姿を見て、我が名を知り、まだ立ちあがる気力がある、か……」
少女が先ほどとは打って変わった鈴の音が転がるような声で嘲ると、唇を歪め、その右手をこちらに向けた。
それは予備動作。何の音沙汰もなく、魔力の動きもなく、ただ光が溢れた。目も眩むような穢れ無き白の光。
視界が焼けるのすら忘れ、思わず目を見開く。見慣れたそのスキルはしかし、だからこそ信じられない。
身体がその意味に震える。
溢れた光が集約し、その手の中に一本の剣を作り出す。
柄も剣身も何もかもが影なき白で作られた直剣。
それは、天使の有する権能の中で最も悪魔の討滅に特化した力の一つ。
『正義』の権能。
光を持って闇を討ち滅ぼす剣を顕現するスキル。
『断罪の剣』
光そのものを精緻に打ち鍛えたかのような剣の切っ先がこちらに向けられた。本来ならば、私に向けられるわけのない正義の剣が。
息も詰まるような威圧に、反射的に聖剣を構える。
戦闘態勢を取った事で、全身の震えが止まる。が、感情の揺らぎは止められない。
リーチはこちらの方が広いが、そのようなものは――あってないようなもの。
「本……物?」
だがしかし、相対して尚、口から出て来るのは疑問だった。
対して、相手が唇を歪めるような笑みで返す。
駄目だ。疑問を呈しつつも、既に理解していた。
この眼の前の女は、間違いなく本物だ。この威圧、この容姿。如何なる幻を持ってしても、ここまで似せる事は不可能。
本物の天使――いや、元天使。
栄光の名を抱いた神に最も近き天の使いの一人。
玉座の隣に跪きし栄光。
グローリア・サイドスローン。
「我も時間がないのでの。だが、くっくっく、あまりに――『哀れ』。少しだけ、遊んでやろう。我が刃をその身に受ける事を光栄に思うがよい」
「貴女は――いや、貴様は、死んだはず……」
少なくとも、そう聞いていた。
数えきれない程の昔、魔界の擁する軍勢の中でも随一に強力で、多数の数を擁する軍勢と果敢に戦い、それを追い返したものの、敵軍の魔王と交戦し、消息不明。帰還しなかった事から、天界は消滅と判断。
最上級の王の死は、当時の天界に大きな反響をもたらした。覚えている。いや、忘れるわけがない。
それが原因となって、その戦争は一時停戦したのだから。
何故悪魔となってしまったのか、その経緯はわからない。
そもそも、付き合いの浅かった私にはその性格もその考えもあり方も人づてにしか聞いていない。はっきりわかるのはその力が並外れていたというただ一点だけ。
勝ち目は……ある?
……いや、せめて、刃を交わえる前に負ける訳にはいかない。
ありったけの気力を込め、睨みつける。
勇気を奮い立たせる。
神より、自身が魔界に使わされた理由を思い出す。
予言された力ある悪魔の出現。厄災の発生。
そして……最もそれを簡単に討滅出来る可能性があるのが『私』だと白羽の矢が立ったため。
嘗て天界で頂点に立っていた天使の堕天。それ以上の災いがあろうか。
この王を野放しにするわけにはいかない。
圧し潰されるようなプレッシャーの中、心臓の奥底から更なる勇気を振り絞る。恐怖を勇気で上塗りする。
勇者として戦い続ける事で研鑽した勇者の力。戦乙女となり手に入れた勇気の権能。
大丈夫、大丈夫。
その二つがある限り、私に敗北は――ない。
腕に力を、魂の力を込める。聖剣が更なる光りを纏い銀碧に輝く。
そして、刃を振りかぶろうとした瞬間――
脳内に再び見慣れたメッセージが表れた。
『セルジュ・セレナーデ は 死んでしまった。死因:斬撃』
視界が急激に暗くなる。
身動き。身動き一つできなかった。
何が起こったのか、何をされたのか、理解できない。認識すら出来なかった。痛みすら――感じなかった。
再び表れる追加のメッセージ。
『復活しますか?』
『はい/いいえ』
身体が動かない。五感も既に消えた。何もないなか、そのメッセージだけが認識できる。
答えは――決まっていた。
視界が再び光を取り戻す。無意識に傷を抑えようとして――手を止めた。
グローリアが無造作に断罪の剣の刃にこびり着いたごく僅かな朱。
メッセージ。斬られたはずだ。斬られて死んだはずだ。
それなのに――どこを斬られたのかわからない。
「復活、したか……認識出来たか? 勇気……真に厄介な、そして下らぬ権能もあったものよ」
「――ッ」
身体は十全に動く。
斬られる前に残っていた痛みすら残っていない。
息を呑む。目を細め、グローリアの一挙一足を観察。剣を掲げ、一歩を踏み出す。
『セルジュ・セレナーデ は 死んでしまった。死因:圧殺』
目の前が再び真っ暗になる。魂を飲み込まれる程の喪失感。
再び表示されるメッセージに反射的に答える。
再び光が差す。
グローリアまでは僅か数メートル。阻むものさえなければ、刹那の瞬間で詰められる距離。
「――セルジュ、貴様、一体何をしに来たのだ?」
「ッ!?」
再び暗転。
死因:斬撃の文字。
見えない。刃が見えない。『残像』すら見えない。
その一挙一足、何もかもが見えない。視界にあるグローリアの姿はずっとその場に立ったままだ。何もしていない。していないように見える。
「まさか貴様、無限に試行すればいつかは『勝てる』などと、勘違いしているのではあるまいな?」
暗転する。速度が速すぎる。
視界の暗転と復活。まるで明滅だ。
その度に、復活の有無を問う文言が出る度に『はい』を連打する。
何も見えない。何も聞こえない。怖い。冷たくなる感覚、巨大過ぎる虚無感。
自身に復活を強要する。刹那の瞬間の迷いすら許さず復活を強要する。
何よりも必要なのは力ではなく挫けぬ心。人だった頃と同じ、あらゆる恐怖に、あらゆる敵に立ち向かう――勇気。不屈の魂
全身から熱を奪う死の感触を否定する。
そうだ。勇気。
それが折れない限り、私に敗北は――ない。
「不屈の魂。勇気を司る天使に与えられる唯一のスキル、か。貴様の力では何十何万と復活した所で、ハードは愚かカノンやゼブルにすら適わぬであろう」
挑発を聞き流す。
復活と同時に一歩後ろに下がる。それでも――暗転。
幾度となく繰り返し表示される死因:斬撃の文字。漆黒の地面に染みこむ赤が徐々に濃いものとなってくる。
斬られている事は間違いない。間違いないのに……
視界がぐらりと揺れる。倒れたせいで揺れているのか、それとも圧し潰される程のプレッシャー故か。
生を諦める。死を当然のものとして、頭の中を切り替える。
グローリアは一つだけ間違えていた。
確かに『勇気』の天使に与えられるスキルは無限の復活、精神が、その勇気が挫けぬ限り勝利を約束する『不屈の魂』しか存在しない。
戦乙女となりその権能を得て幾星霜の時が過ぎた。既に、死を恐れる感情は残っていない。
朦朧とする思考。まるで波の間を揺蕩うかのように不確かな現実感。
死ぬ速度があまりにも速すぎる。あまりにも早すぎて脳が痛みを感じる間すらない。それだけが救いだった。
復活し、そして死ぬその僅かな瞬間に右手に握った聖剣に僅かな力を込める。
刹那の瞬間に込められる力は本当に僅かなものだ。だが、聖剣にはその力が確かに蓄積されている。
「……流石にそう簡単には滅ばぬか……時間さえあれば手ずから引導してやるものを――」
グローリアの手が止まる。先ほどから時間を気にしているようだ。何を気にしているのか。
だが、好機。その隙に全勇気を聖剣に込める。剣の刃が私の意志を受けて更なる光を帯びる。それは既に朧げなものではなく、明確な闇を喰らい尽くす光の剣だ。
剣の剣先をグローリアに、嘗て全天使の羨望を得ていた悪魔に向ける。
例えこの身が滅びようと、この剣に込められた意志が消える事はない。
例え如何なる速度を誇ろうと、例え如何なる力を持とうと――光は避けられまい。
一瞬で聖剣に込められたエネルギーが圧縮し、光が切っ先に収束する。
眉一つ動かさず、グローリアが輝く剣を見つめる。
――そして、あらゆる闇を払ってきた『勇者』としての力が放たれた。




