第一話:勇気なんて欠片もない
多分、それは私が覚えている最も古い記憶だ。
「おめでとうございます、貴女は勇者に選ばれました」
「……? な、何……ですか、あなたは……」
目元まで覆われた黒いフードは大通りでたまに見かける魔術師が好んで纏う法衣。
目を隠す者には常人に見えない『何か』が見えている。その事を知ったのは随分と後の話だ。
何の前触れもなく、いきなり唐突に現れた魔法使いは、剣は勿論、包丁すら持った事のなかった私にそう言った。
彼女の目に何が見えていたのか、彼女が私の中に何を見出したのか、結局私はそれを知る事はなかったが、その遭遇は陳腐な言い方をさせてもらえば運命だったのだろう。
「……勇者……って……何……ですか?」
いきなり現れた怪しい魔法使い、投げかけられた胡散臭い声にまともに相対する気になったのは――いや、相対してしまったのは、ただの偶然……ではない。
それはきっと私に、自らに問いかけられたそれを無視するほどの意志がなかったからだ。もしもその時の私に意志があったならば――自らの意志でそれを決定することが出来たはずなのに。私は結局流されるままにその言葉を聞かされた。
怪しい怪しい魔法使いが言う。
「勇者とは、その勇気で闇を払う者の事。強きを挫き弱きを助ける、人類を闇からの侵略者から守る希望の剣。その素質が、貴女にはあります。私には――見える」
正直、怖かった。
見えないものが見えている魔法使いが。いや、見えているかのように話す魔法使いが。
友達がただの一人もおらず、たまにたった一人で行く買い物の際くらいにしか会話する事がなかった私にはどう対応したらいいのかわからず、結局適当に返事をした。してしまった。
見えている素質が何なのかを聞くこともせずに。ただ流されるままに。
「その……勇者、になると……その……」
理由がない。なる理由がない。なれるとも思えないし、その時までそんな選択肢、想像してすらいなかった。なりたいとも思えなかった。
私は――街のどこにでもいる市民階級の最底辺、ただの一人の子供にすぎなかったのだから。
魔法使いが戸惑う私に微笑む。
「勇者となるのです、セルジュ。そうすれば、いつか親しい人、親、恋人、友人が闇の勢力によりその生命が散ろうとしているその時に、貴女の力でそれを止められるようになるでしょう。いつか後悔をしないために、貴女の力は人類にとっての――『剣』になれる」
親しい人? 親? 恋人? 友人?
あれ? 私、そんなの……いない。
親は物心ついた時からいなかった。死んだのか生きているのかすら知らない。
自分自身ずっと嫌いだったドブネズミ色の髪と眼。社交性のない私に友達など出来るわけもない。
私にいるのは……顔見知り程度の知り合いと赤の他人だけだ。
魔法使いの言葉を反復し、思った。
きっと魔法使いは今までそういう『勇者』しか見たことがないのだろう。親しい人が、親が、恋人が、友人がいて、そのために闇の勢力とやらと戦える勇気と能力を持った勇者しか。
私は、いつだって一人ぼっちだ。お伽話でよくあるような悲劇なんて起こっていないのにひとりぼっち。
頭も悪く、力だって弱い。駆けっこは三つ下の子供に負けるし、文字の読み書きだって禄にできない。その事に危機感を覚えたこともなかった。そういった者は周りに腐るほどいたから。
ただ、醒めた眼で見ていた。
この魔法使いがどういう意図があって私の目の前に来たのか、私の中のどういう才覚を見ぬいたのか、本当にそんなものがあるのか、あらゆる疑問は――どうだってよかった。
ミステリアスな雰囲気もそれっぽいフードも、偽物か本物かだってどうだっていい。
魔法使いの表情、フードで唯一隠されていない口元がゆっくりと笑みを作る。
「一晩、考えてください。セルジュ、貴女には選択権がある。闇を払う勇者として生きるか、それとも――唯の一般人としてその一生を無駄に過ごすか――」
「なる」
即答した。
「――そして、自分の意志で決めてください。貴女の運命を……って……え?」
「なり……ます」
隠れている眼が見開かれたのを、私はその時確かに感じ取った。
驚愕。初めて魔法使いに与えた感情に、どこか楽しくなる。
「……考えなくていいのですか? もしも勇者になったら、貴女は二度と一般人には戻れない。もしかしたらあったはずの幸福な未来が消えるかもしれません。親しい人、恋人、親、友人との望まぬ別れを強いられるかもしれません」
「……」
だから、そんなのいないって。その四つに果たしてどの程度の価値があるのかすら、私には……分からない。
魔法使いの口元が僅かに歪んだ。ほっとしたような吐息を漏らす。
「その程度の覚悟もなく、勇者となる事を選ぶのは尚早と言えましょう。貴女の覚悟は立派ですが――」
「なります」
「……」
存在しないものを失う覚悟?
もしかしたら、親しい人が他に一人でもいたのならば、気が弱い私にそれを選ぶことは出来なかったのかもしれない。
だが、実際はいなかった。親しい人なんて誰もいなかった。守るべき者などいなくて、そして躊躇う理由もない。現状が最底辺で、それ以下を知らないのならば、いつだって前に薦める。
無知は無謀を呼び、そしてそれは時に勇気と勘違いされる。
「……何故、貴女はそこまで強いのですか? 勇者と言えど人間、闇の勢力に敗北し無残な死を――いや、死よりも辛い目に合う可能性だって低くはないというのに」
何故強い?
私は強くなんてない。
勇気なんて欠片もない。私は唯の――ひとりぼっちだ。
そんな私を強いというのならば、力も知恵もないこの私の事が、その魔法使いの目に『強さ』に映っているというのならばそれはきっと、
曾て選ばれた勇者の強さが守るべき者がある者の強さであったのならばそれはきっと、
私の強さは――守るべき者が何一つない、自らの命すら守る必要がない、あらゆる犠牲を許容できる、それ故の強さだったのだろう。
だが、魔法使いには理解できまい。
私が勇者になる理由も。
長らく動かしていなかった表情筋を無理やり動かし、引きつった笑みを、困惑した雰囲気の魔法使いに対して向ける。
「世界の……ためですから」
私にそれを救う力があるというのならば、私の力が何か一つでも役に立つというのならば、私に存在意義を与えてくれるのならば、私はそれに殉じよう。子供心に思った。それは、ただそれだけの話。
無価値だった自身を捨て、ただ漠然とした立場を捨て、無知であっても感じていた無為を捨て――私にはその辺の紙くずを捨てるような気軽さであらゆるものを捨てる事ができた、ただそれだけの話。
例え文字の読み書きなんてできなくても、分かっていた。
それは親しい人のためでも、親のためでも恋人のためでも友人のためでもない、もちろん世界のためでもない、ただただ――自己満足のためだと。
魔法使いもフードに隠された双眸から雫が溢れる。
魔法使いの泣くんだな。そんな下らない事を思った。
「……貴女は、きっと素晴らしく、そして――悲しい勇者になるでしょう。セルジュ、貴女のその勇気を私は賞賛します」
魔法使いから称されたそれはきっと、『勇気』などではなかったが、その口元がにっこり笑うのを見て口を閉じる。
魔法使いの手が淡く光る。私にとってそれは、初めて見た魔法で、神の御業のようにも見えた。
光が私の頭に静かに触れる。まるで光の冠をかぶせるかのように。そして、そこから存在そのものを掻き回すような強い力が流れこんできた。
「強く気高き意志を示した貴女に『勇者』のクラスを与えます。セルジュ。貴女の行く先に光が――ありますように」
「……はい」
言葉が力と共に脳内に染みわたる。
感覚で分かった。それは恐ろしく強力な力だ。人外の膂力に魔族を超える強大な光の魔力。魂が書き換わる。闇を払う者に。
こんなものを与えられるのならば誰だって――一般人だって勇者になれる。私だってなれる。
何だ、努力も才能も……関係ないじゃないか。
『勇者』の与える力と比較すれば、私が今まで行ってきた努力もそして、私が今まで羨んできた同級生の、上級生の、下級生の力も等しく――塵みたいなものだ。
そして、その事実に強い後ろめたさを感じる。
ずるをして得た力。ずきりと心臓が痛む。
何て酷い話なんだろう。
「さぁ、セルジュ。行って下さい。その力で――闇を払うために。世界を救うために。貴女は今この瞬間から――勇者、セルジュです」
「……はい」
勇者。勇者セルジュ。
実感がない。いや、実感何ていらない。別に勇者になりたかったわけじゃないのだから。
脳内はそれまでを顧みても比較できない程澄み渡っていて、肉体は信じられない程軽い。
闇を払う力。力の使い方は本能で分かった。
頭の中にずらっと浮かんできた勇者のスキル系統樹。勇者の力が全て詰まったスキルツリー。
一から百まで、初めから全てが開かれたそのスキルツリーの最後のスキルを直感で選ぶ。
天から落ちる陽光が左手に吸い寄せられるように集まり、形作る。
熱は感じない。それはただ冷たいだけの光だ。
それは『勇者』のスキルツリー。
その最奥にある、勇者の武器、聖剣を生み出すスキル。
『聖剣顕現』
細身の長剣。青白い長さ一メートル程の剣身、意匠のない無骨な一本の剣が手の中に表れる。
勇者のクラスを得る前の私ならば感じることさえ出来なかった魔力を消費して生み出された聖剣は、ただただ美しくそして――冷たい。
聖剣、脳裏に浮かぶその銘――ソリトゥス・アルゲントゥム
私にぴったりな孤独の名を冠するその剣が光を反射し、白銀に輝く。
剣身を中心に光が、風が集まり、その剣を祝福する。魔法使いがその剣を魅入られたように見上げ、その時初めて私は勇者として自身を実感した。
天に向けて剣を掲げる。立ち上る聖なる光の柱。
私は勇者として受けた新たな生に、少しだけ思った。
勇者なら友達できるかな。
活動報告では既に書きましたが、この度、当作品が書籍化の運びとなりました。
これも応援頂いた皆様のお陰です。
今後も堕落の王をよろしくお願いします。
更新予定が乱れまくっていますが、ほぼほぼ出来上がっているので恐らく次の更新は……




