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堕落の王【Web版】  作者: 槻影
Chapter14. 虚飾(イリテュム)

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第三話:あらゆる渇望を喰らい尽くすがいい

 悪魔と天使には本能がある。


 悪魔と天使とは正と負の魂。その間には、互いの存在を許せぬ排斥の本能があった。

 ただ側にいるだけで魂が揺さぶられるような得体の知れぬ焦燥感。


 一目出逢えば殺し合わずには居られないそれは、渇望と呼んでも過言ではない。


 眼の前で『ヴァニティ』が吹き飛んだ。

 その拳速に見えるのは積み重ねられてきた年月。

 仮にも、魔王の拳を受け止められるだけの調整がなされた肉体が、一度は受け止めたはずの鉄壁の肉体が反応することすら許されずに粉々になる。

 虚実構わず、魂核すら残らない。


 第一位の名はやはり飾りではない、か。

 ハード・ローダーめ。


 想定以上の戦闘力。やはり真正面からぶつかるのは――悪手という他ない。

 我は決して戦士ではない。我の目的は闘争ではなく勝利。

 過程ではなく、栄光。もとより、あの男は獣だ。獣を相手に殴りあうつもりはない。


 傲慢の悪魔には傲慢故の弱点がある。特に奴の弱点は明確だ。

 既に考えは固めてある。


 だがその前に――


 ハードがゼブルを追いかけ去り、残された世間知らずの小娘が眼の前を歩いていた。


 金髪碧眼、生意気そうな表情をした小娘だ。

 世界を知らず、悲劇も知らず、根拠なく万物を見下したその表情は酷く虫酸が走る。

 鼻歌交じりで平然と並んだ兵隊の間を歩くその姿は、自身で何も成していないにもかかわらず何一つ負い目を感じさせない。


 ハードにヒイロと呼ばれていた、会合中もハードの後ろに隠れていた悪魔。

 何故あの男があえて連れているのかわからないくらい脆弱極まりない存在だった。


 馬鹿と弱者は嫌いだ。

 昔からそうだった。天使も悪魔も、区別なく。

 ただ渇望を追い求め、殴る事で全てを解決できると思っている悪魔に、神の指示のみを聞けば良いと思っていた意思なき人形共。

 何故にこの我が――そんな下らないものに従わねばならないのか。

 奴らこそが分を弁えるべきだというのに。


 気がつけば、その様子を凝視していた。

 吹けば飛ぶような力しか持たずに、この場に残ったその無謀さは我の嫌う傲慢の悪魔そのものだ。


 ならば、それならば、そうだ。

 この我が――叡智を与えよう。


「ん? 何ですか……?」


 最もヒイロに近い悪魔に腕を『伸ばさせる』

 肩を掴むそれを、ヒイロがきょとんとした表情で見た。何一つ自身を害するものがないと信じきった表情。

 興味深げに一体の悪魔の仮面を見上げ、覗きこむ。

 巨躯を誇る人型の悪魔。その顔の上半分を覆っているのは灰色の仮面を。


 仮面はただの装飾品ではない。

 顔を隠すことは、表情を隠すことには、意味がある。

 表情とは人格そのものであり、表情を隠す仮面は人格の変貌を齎す。

 惰弱な精神に強靭な精神を上書きするための術。

 それは一つの儀式だった。


 正も負も悪魔も天使も混沌(カオス)で塗りつぶすための秘術。


「へぇ、まさか貴方達、命令なしで動けたんですか? くすくすくす……お人形さんだと思ってましたぁ」


 自身よりも頭二つ分でかい、見上げるような巨躯に肩を掴まれてさえ、ヒイロは笑顔を浮かべている。

 肩に置かれた手を、華奢な手で掴む。その細腕に見合わぬ膂力。


 ぎりぎりと、手が捻り上げられる。痛覚は封じてある。悲鳴はあげないが、身体が壊れる。

 腕が鈍い音を立てて折れる。だが、それを成した女の表情には、自身の成したことへの興味が一切ない。


 同じ傲慢を抱く悪魔でもある我にはそこにある力がはっきりと知覚できた。

 その魂に見合わぬ巨大な『優越』のスキル。


 ああ、なんという愚かな事だろうか。


 ヒイロが何と話しているのか欠片も理解せず、笑みを浮かべながら首を傾げる。


「で、何かご用ですか?」


 ――だが、面白い。

 研がれぬ魂。

 その魂に秘めた力を遥かに超えるまさに傲慢極まりないその『優越』が果たして何を基盤にしたものなのか。

 そしてハードは何故このような下らぬ女を連れ回しているのか。


「面白い……」


「っ!?」


 掴みあげた腕を離し、反射的にヒイロが大きく後退った。

 先ほどまで浮かんでいた傲慢が消え、引きつった表情が、我を見た。


「だ、誰ですか!? いきなり!」


 我の十分の一程も生きていないだろう小娘の視線が無遠慮に全身を見る。

 警戒はしても戦闘態勢にすら入っていないそれは傲慢故か否か。

 あるいは敵を敵とすら見ないその在り方が強固な優越を形作っているのか。


 視界を覆っていた仮面に触れる。

 手の中の冷たい感触――灰の仮面が音一つなく粒子に変わった。


「……は……? 何ですか、貴方……ヴァニティさんの……部下?」


 ……愚かな


 自らの魂の気配を上塗りしあらゆる感知スキルから力を隠蔽するそれは、虚飾(イリテュム)の最も大きな優位性だ。魔王の王領を使ってさえ気づかれる事はない。


 自己を誇示すればするほどに威力を増す傲慢(スペルヴィア)に相反する自己を隠し飾り立てる虚飾(イリテュム)の権能は、まさに智謀に適している。


 狼狽する小娘を無視し、再度観察する。


 やはり、どこからどうみても脆弱な悪魔にしか見えない。

 多少強力な『優越』を持っていてもそのレベルは魔王級の悪魔に至らず、強いて言うのならばハードが連れていた点だけが特別だろうか。我が出るまでもなく軍で押しつぶせるであろう蟻のような存在。


 勝ち得る相手に対するあの自信と、正体不明を前にしたこの狼狽。逃げ腰な様子に無意識のうちの身のこなし――恐らくは戦士ですらないのだろう。


 ハードが連れているのが不思議な程の悪魔。一体何が奴の琴線に触れたのか。

 あの戦闘狂が懸想するような相手にも到底見えぬ。


 ともあれ、そのようなことは詮無きことだ。

 重要なのは……この娘、ハード・ローダーの弱点となりうるか、だ。


 自身の中に浮かび上がった考えを一瞬で切り捨てる。

 いや、ならぬだろう。なるわけがない。その程度で討滅できるのならば、とうの昔に奴は滅んでいよう。


 興味がすっと抜けていく。


 確かに面白い女ではあるが、いかなる存在であろうと、遠からぬ内に滅ぶハード・ローダーにとっては無関係なことだ。側に付き従っていた所を見ると片腕のようにも見えるが、何よりもこの女は――若すぎる。

 躓く小石にすらならぬ。死のうが生きようが影響を持たないただの一悪魔。


 戦意すら浮かべずただ怯える視線を向けるヒイロを無視し、スキルを行使した。


 鈍色の光が我が身全身を覆う。


 傲慢(スペルヴィア)の権能に虚飾(イリテュム)の権能。


 魔力が装甲となる。万物一切を通さず、打ち砕く奇跡を。

 我が魂をベースに英雄を形作る。


 誇示する。己の力を。

 積み上げる。ただただ世界に示すために。


 ――遥か高き天を見下すために。


 虚飾の権能は傲慢の権能と相反する性質を持つが、同時にそれが目指す所はただ一点のみ。


 ――三千世界の誰よりも、誰よりもただ高みを。

 神をも越える、神をも見下す力を。


 理解していた。神の玉座の護り手だった頃から。

 本当はずっと分かっていた。何故に、この我が悪魔と成ったのか。


「くっくっくっく」


 何故ならば我は――部下は勿論、たった一人の盟友の名すら記憶していなかったのだから。

 我が強かったのだろう。渇望が神への忠誠を上回った。ただ、それだけのこと。


「はぁーっはっはっはっはっ!!」


 光が全身を駆け巡る毎に、陶酔感にも似た快感が脳髄を奔る。

 自身の全身を隈無く包み込む。虚実の肉体なれど、それは我が魂でもあった。

 既に長年利用した肉体は本体よりもよほど馴染む。

 自身の本体をさらけ出したのはいつぶりだろうか。既に記憶は遠く彼方にあった。嘗ての我の姿を知っていた者はもうほとんど残っていない。


 白の肌を黒に。

 金の瞳を銀に。銀の髪を無くし、低い身長をあの男よりも高く。

 邪魔なだけの胸は筋肉で覆い、背に生えた漆黒の翼を隠し。

 より禍々しく、より仰々しく、そしてより強く。


 全身に流れる電流のような衝動。

 何回行使しても慣れぬそれは一言で言うのならば――


 ――万能感。


「ひっ」


 あっけにとられていたヒイロの表情が理解すると同時に一転して歪む。

 地獄の釜でも覗きこんだかのような表情。


 さぁ、何の役にも立たぬ貴様に栄光(グローリア)を与えよう。

 己の主君に立ち向かう栄光を。


 まだ呆然とした表情で硬直しているヒイロの腕を掴む。

 思い切り握ってしまえば折れてしまいそうな細腕を握り、宙に吊り下げた。


 思い出したように恐怖を浮かべ、手足をばたつかせるが、抵抗は無駄だ。

 蹴りも拳も何一つこの身を傷つける事はない。それが我とヒイロの性能の差。積み重ねてきた年月の差異は赤子と大人程の力量差を与えている。貴様の優越程度で破れるものではない。


 腕を掴んだままその身体を崩れかけた壁に押し付ける。

 振り解こうと掴んでくる手を無視し、その碧眼を覗きこむ。

 その中にある感情を掬い取るために。


「ぐっ……な……何故生きて――い、いや、さっきの姿は――」


 手の平に鈍色の光が奔った。

 汚泥に黄金を重ね存在を塗り替える。

 肉体を、精神を、力を、意味を、記憶を、そして――存在を。


 仮面とは人格(ペルソナ)を示すもの。

 己が人格そのものを表す精神の仮面は、惰弱な精神は容易く塗り替えられる。


 姿形は変えない。

 ハード・ローダーが加減をするとも思えぬが、万に一つ動揺を誘えるかも知れぬ。

 感情を揺さぶれるかもしれぬ。


 手の平でその頭を掴む。


「や、やだ、はーなーせー! 何? 私が何したって言うんですか!?」


 ヒイロが身体をばたつかせ無駄な抵抗をする。

 我はその抵抗に一瞬、呆気に取られた。

 本当に何故あの男はこの娘を手元においていたのか。その有り様にはプライドの欠片もない。

 傲慢を擁するあの男の大嫌いなタイプだ。


 我が黙り込んだのが悪かったのか、ヒイロはさらに暴風雨のように言葉を吐き出す。


「だ、大体、攻撃したのはハードさんですよ! わ、私じゃない。私は何もしてません!! ゆ、許してください。止める間もなかったんですよ! ほ、本当です。私は止めようと思ったんですけど――そ、そうだ。私に手を出したら私の主が黙っていませんよ!?」


 見苦しい。あまりに見苦しさに侮蔑すら浮かばない。

 貴様が、この我を脅す、だと?

 恐れを抱いて渇望を満たせるか。


「これが我が、虚飾(イリテュム)の――『虚ろなる栄光アウター・デコレート』!!」


「くっ……」


 ヒイロが恐怖に眼を見開く。全身を襲う痙攣のような震え。

 恐怖の感情が合わせた視線を通じて伝わってくる。


 恐れ、敬い、怯え、諂え。

 我が掌上で踊る、人形となれ。


 少女の痩身がびくびくと大きく振動する。その身体を這いずりまわるように濃い灰の光が侵食していく。

 例え救いようのない弱者であろうが、飾り立てれば時間稼ぎ程度にはなろう。


 仮面は創造しない。あれは少々、目立ちすぎる。それに、双眸まで隠してしまえばハードはヒイロに気づかないかもしれぬ。性格も記憶も変えない。


 ――植え付けるのは忠誠。我に対する絶対の『忠誠心』を本来の性質に追加する。


 光が仮面の代わりに指に集まり、一つの無骨な指輪を形作る。

 物は何だっていい。人格の変質という意味で表情を隠す仮面が最も効率がいいのは間違いないが、この程度の悪魔ならば使うまでもない。

 最後に一度大きく痙攣し、挙動が止まった。

 だらんと下がった腕には生気がなく、青ざめた容貌、瞳は緩慢に閉じられている。


 手を離す。地べたに崩れ落ちる元ヒイロを無視し、我が軍に向き合った。

 物言わぬ意志。長久の時を掛け、積み上げた栄光ある魂を持つ者達を。


 さぁ、ハード・ローダー。我を天から引きずり落としし者よ。

 数万の時を経て再度まみえようぞ。


 曾てない戦意が全身に力を送る。

 周囲に集まる我が軍を見渡す。


 片腕などいない。

 我軍はそれ全てが全て、我が力そのものだ。

 それ即ち、全てが全て我と同義。個にして群。

 軍団が我が意志を察し、騎乗用の竜――奔竜を伴い立ち並ぶ。


 その様はいかなる形であっても、まさに魔王の軍団(レギオン)に相違無い。一度頷く。

 仮面をかぶった悪魔たちが声のない静かな鬨の声をあげた。


 地面に伏した華奢な身体が起き上がる。

 かつてヒイロと呼ばれていた存在が虚ろな視線をこちらに向ける。


「傲慢独尊に悪食、まとめて我が渇望で飲み込んでやろうぞ」


 かつて我が同胞を無数に食らった悪食の王。

 取り逃し、我が堕天のきっかけとなった傲慢の王。

 悪魔の存在を知りながら沈黙を守った惰弱な天使達に、

 偶然にもここ最近襲撃をかけてきている哀れな戦乙女まで。


 相手にとって……不足なし。


 既に準備は整った。

 さぁ、万物尽くを我が欺瞞にて覆い尽くしてみせよう。


 既に力の浸透しきっているこの街(灰岩)の住人が色のない表情で窓からこちらを覗いている。


 傍らに一際巨大な竜を連れた悪魔が跪いた。


「ヴァニティ様、竜の準備が出来ました」


「……む?」


 本来ならばあるはずのない声。


 そこにいたのは、先ほど飾り立てたばかりの悪魔だ。

 睨みつける。

 跪くその声には一切の負い目がなく、矮躯も髪色も眼も声も力も一切先ほどとは変わっていない。


「何だ、貴様?」


「初めまして、ヴァニティさん。ヒイロ、と申します」


 名など聞いていない。

 人格は上書きしたはずだ。仮面を作らなかったので完璧ではなかったにしても、性質を追加したのだ

。即座に会話をなせる様になることは考えられない。

 生み出した虚飾の指輪は間違いなくヒイロの右手の人差し指に嵌められている。


 何を考えているのか、その表情には先ほどまであった恐怖が消えている。

 表情も佇まいも軽薄そのもの。それは、我が想定していた形とは異なっている。よほど相性がよかったのか?

 虚飾(イリテュム)を使い始めて数万年、初めて見る結果だ。といっても、忠誠を足した以上、我に従わぬ事は考えられぬ。

 予想外の反応。今すぐに滅すべきか、このまま捨ておくべきか。


 考えるまでもない。今こそ転換期、千載一遇の好機、この程度の些事に気を払っている暇などない。


「貴様の主はハード・ローダーであろう」


「いえ、私の主は……ハード・ローダーではございません」


 躊躇なく言い切るヒイロを見下す。

 その声に嘘偽りは感じられない。


 ふむ……これもまた一興、か。


 自軍の数は多ければ多い程いい。ベースは優秀であればあるほど良い。

 盾にもならないだろうが、いない方がマシという事はないはずだ。何より、既に我が力の一部を与えてしまっている。

 如何に莫大な力があろうと、それは決して無限ではない。

 何より、既に三体の聖王級天使(セイクリッド・ロード)と無数の天使を生み出してしまっている。

 戦力は多ければ多い程いい。


「良かろう、付いて来るが良い」


「……了解しました」


 竜に乗った軍勢が、地鳴りをあげて疾走する。

 奴らの居場所は分かっていた。衝突する巨大な力の存在は、例え王領(アビス・ゾーン)を使用していなかった所でわかっただろう。魂がざわめくようなその気配は無視する方が難しい。

 それに続いて竜に跨がろうとした瞬間、ヒイロが待ったの声をかけた。


「……何だ?」


「……ヴァニティ様、どうせならば地を奔る竜よりも空を奔る竜の方がよろしいかと。あの男に正面からぶつかり合うのは悪手でしょう。さしもの傲慢独尊とは言え、空を駆ける者に対する攻撃手段は多くありません」


「……こいつを連れてきたのは貴様だろう」


「いや……だって……私も付いて行くなんて考えてもいなかったので……」


「……」


 眉が引きつるのを感じた。


 ……本当に何故にあの男はこいつを連れていたのだ。

 視線から逃げるように視界から消えると、ヒイロが飛竜を連れてくる。

 恐らく、こいつらが移動するのに使った飛竜なのだろう。さすがに序列一位、よい個体を持っている。


 女が媚を売るように近寄り腕を引いた。

 あまりのプライドのなさに怒りよりも哀れみが先にくる。

 いや、我が権能の力によるもの……なのか? もしそうであるのならば申し訳ない。いやいや……


「ささ、ヴァニティさん、こちらに」


「……ああ。良かろう」


 釈然としないものを感じつつも飛竜に跨る。

 ヒイロもそれに続いて一回り小さな――恐らく、自分用の飛竜に乗った。

 それは奇しくもハードの後ろに隠れていたヒイロの姿を連想させた。


 力を使わずにさっさと殺すべきだったか……

 この性格――

 ハードに躊躇いなく潰されるヒイロの姿が想像出来てしまって、自身の表情が自然と歪むのがわかった。



*****




 灰岩の街から暗獄の地は近い。地上の移動に特化した奔竜、そして、その速度に匹敵する飛竜ならばそれ程時間を掛けずにその地に足を踏み入れる事ができる。

 もとより、灰岩は国境沿いに位置していた街であり、赤獄を治める悪魔と暗獄を治める悪魔が敵対していたはるか昔は最前線であった街だ。そして、赤獄と暗獄の地が共に大魔王軍属の地となってからも残り続けた数少ない街の一つでもあった。


 天界と魔界は表と裏。秩序によって精密に治められた天界の地と違って魔界の地には混沌が蔓延っている。

 暗獄の地を治める大悪魔、ハード・ローダーの元主君である『殺戮人形』のレイジィ・スロータードールズはその活躍の薄さに比べてどこまでも巨大な力を持つ悪魔だった。

 あの神を神とも思わぬ『傲慢独尊』が長きに渡り仕えていたというその事実からしてもその異様さは分かるだろうが、それをはっきりと示しているのが、赤獄の数倍はある暗獄の地を全て覆ってとどまらぬ巨大な王領(スキル)だ。


 『混沌の王領(アビス・ゾーン)』の広さならば大魔王軍の中でも随一だろう。今代の大魔王は勿論、前代の大魔王さえも遥かに上回るであろうその領域はもはや世界と呼ぶに相応しい。

 その領域はあまりにも広大で強力だ。凡そ敵対する魔王に破られたことがないとさえ噂されるその強度はさすがに単純な力の強さではなく、未だ謎に包まれた怠惰(アケディア)のスキルによる補正がかかっているものだと推定されているが、真偽を知るものは堕落の王、その本人のみだろう。


 王領とはいわば魔王の縄張り。

 触れれば勿論、近づいただけで全身に感じられる圧迫感は、その域の支配者による威嚇のようなものだ。

 そして、レイジィの領域には本来あるべきそれが全くないことは、隣の領を持つ我が識る怠惰の魔王の数少ない情報の一つだった。


 だが、決して忘れてはならない。それは敵意がないという意味ではない。

 それは単純に――興味が無いというただそれだけの事なのだ。


 暗獄に突入した瞬間、何の抵抗もなく、全身を異なる気配が覆う。


 王領に突入した証拠。

 ハードの放つ傲慢とゼブルの放つ暴食の気配、そしてその二つの気配の根底に感じる、レイジィの放つ怠惰特有の空気だ。

 未だ果てない荒野には何物の姿も見えない。


「くっくっく……近いな」


 だが、分かる。

 眼を瞑ってさえ分かる。

 ゼブルとの距離も、ハードとの距離も。


 それは我が魂が、本能が求めるものだった。長年求めていたものだった。


 それ即ち――敵対種。

 例え堕天してさえ、止まぬそれは天使としての本能などではなく、我が我であるが故のものなのだろう。


 ゼブルの気配は止まっている。影寝殿までは未だ遠いにも関わらず。

 あの時伴っていた強欲の悪魔は連れていないのか、その周辺に他の生命体は存在しなかった。


 会合で守護者が不在の間に突き進めばよかったものを、我が言葉を信じたか。それとも、暗獄の地からハードの気配が動いた事に気付かなかったのか。

 既にゼブルに逃亡の選択肢はない。そこは既にハード・ローダーの射程。その王領に踏み込んでしまった以上、その力からは逃れられない。

 ゼブルとハードの距離の差はもはや傲慢の魔王ならば数秒で詰められる距離でしかない。


 当然、はっきりと感じているはずのハードの気配を前にして動かないのはその事を本人も理解出来ているからだろう。

 逃亡しながらの迎撃は難しい。迎え撃つつもり、か。


 ゼブルの眼を思い出す。


 その眼球は底知れぬ渇望の奈落に濡れていた。あの色はそう簡単に出せるものではない。

 奴はそれを満たすためならばありとあらゆる手段を使うだろう。

 序列は単純な強さではない。特にゼブルは獣――世界さえ飲み込む究極の捕食者だ


 そして、その激突の間には――確実な隙ができる。


 例え偽物――虚飾に彩られた天使と言えどその移動速度は本物の天使と同等だ。

 ゼブルを相手に手間取れば、我が軍は僅かな間で影寝殿に突入し得るであろう。


 それこそがハード・ローダーの抱く傲慢故の欠点。それこそが、『元』主の存在。

 奴の根源、気質からしても到底許せるようなものではないはずだ。


 自らも飛竜に騎乗し、後ろから付いて来るヒイロが曇った声をあげた。


「ヴァニティさん、やめたほうがいいですよー?」


 しかし、本当に図々しい女だ。我が権能を受けこの態度、性格が変わらないのはもともとそういう性格であるからなのか。自我の上書き、忠誠を刻みつけられ何一つ変わらないのは地味に凄い。

 こいつは間違いなく我の側の傲慢(スペルヴィア)だ。その気質、ハードとははっきり異なる。


 時さえあれば虚飾(イリテュム)に足を踏み入れられるかもしれぬ。が、正直あまり一緒にされたくない。


「ヴァニティさーん、冷静に考えたら……不味いですって」


「……不味い、だと?」


「はい」

 

 背後を窺う。この女、何を今更言い出すのか。

 大体、スキルによるものとは言え、我の後ろをついてきている時点で、もはや貴様にハード・ローダーの下僕として生きる道はない。


 世界に感覚を浸しながらも背後を窺う。

 体調は上々、精神は十全。長い間力を貯め続けてきた。聖王級天使の数体程度ならば容易く生み出せる程に。

 今ならば、大魔王さえ屠れるだろう。

 その我に、不味い、だと!?


「だって、ヴァニティさん、ハードさんと戦うつもりでしょ? 」


「…………」


「ってこーとーはー」


 飛竜の翼が切り拓く気流によって酷く音が聞き取りづらい。

 その中で、ヒイロは何一つ気負うことなく、平然と。極自然な事でも言うかのように言葉を出した。


「ヴァニティさん、レイジィ様と敵対するつもりですか?」


 その口から出てきたのは今まで全く関係のなかった悪魔の名だった。

 様。

 レイジィ様、か。


「……くっくっ」


 理解できた。

 この女、ハード・ローダーではなく、レイジィ・スロータードールズの配下――眷属か。

 道理でハード・ローダーに対して配下の態度じゃないと思った。


 返答を期待しているわけではないのか、どこか黄昏れたようなつぶやきが聞こえた。

 強い風の音でかき消されかねないくらいの小さなつぶやきが。


「私、何を敵にしてもいいんですけど、レイジィ様だけは相手にしたくないんですよね」


 その口調、感情は今までの軽薄な雰囲気とは異なっていて、思わず問いかけた。


「……何故だ?」


 聞こえたか聞こえなかったか、いつまで経ってもその返答は返ってこなかった。

 だが、良かろう。

 もとより、我とてあの男と敵対するつもりはなく、何よりその意味もない。

 立ち塞がるのならば容赦はせぬが、怠惰を極めたあの王が我が道を阻むなど、それこそありえぬ話だ。


 ――そう、奇跡でも起こらない限りは。


 沈黙を保ったまま飛翔すること、程なくして戦地に入った。

 まだ数キロは離れているはずだが、空気が明らかに変わる。王領というだけでは説明できない戦の匂い。

 ここ数万年なかったほどの極上の獲物、仇敵に戦意が踊る。


 空が、大地が鳴いている。

 一撃一撃が必殺。視認すら困難な拳が大地を削り、空を割く。

 天高く響き渡る轟音と、並の魔王のそれを遥かに超越した質量の魔力がそれと同時に立ち昇る。おそらくそれは魔王並の感知能力を持っていなかったとしても容易く気づけていただろう類のものだ

 事実、見えていなくともはっきりと戦場がわかった。


 十分にゼブルは足止めの役割を果たしてくれたようだ。

 我が軍も同様に役割を果たしている。


 魔王級の悪魔とは災厄(カラミティ)の一つ。

 その怒りは世界を壊し神を殺す。二対の獣が放つ魂の力は曾て我が戦った如何なる悪魔よりも強い。


 古き人の世でそれは神話にさえ祭り上げられ、地上に侵入することがなくなった現在でも脈々と伝えられていると言われている。

 その最上がそこにはあった。

 人が、いや、悪魔でさえも、眼にした瞬間、全ての渇望を投げ出してしまいかねない神話(たたかい)が。


 殺せ。殺し合え。我が仇敵よ。

 己が以外の全て、あらゆる渇望を喰らい尽くすがいい。


 上級魔王同士のぶつかりあい。

 未だ視界に入らぬその風景は、さぞ悍ましくあるに違いない。


 それが視界に入る直前に飛竜が我が意に従い急激に上半身を激しく揺らした。

 長い尾を使いバランスを取り、凄まじい速度で急上昇を始めた。

 轟々と鳴く風の中、天高くに血の色をした太陽が聳えていた。それは光に満ちた天上では決して見られぬものだ。


 これ以上近づけば奴らに気づかれよう。理解していた。

 能力は働いている。我が権能は気配を完全に消し去っている。

 だが、虚飾は気配こそ隠せても勘までは騙せない。

 そして、あの二柱の魔王ならば気配のない存在の一つや二つ容易く看破するだろう、と。


 魔の王とは即ち、天上の神の祝福を受けずして天使の王に近しき力を持つ者。


 如何に天使の王と同等の力を付与したとはいえ、ハード・ローダーの力を受けてしまえば一瞬で消える。

 だがしかし、翼持たぬ彼奴には空を舞う無数の天使は捉えきれるものではない。例え停止した世界を動けても、その身に翼はないのだ。


 彼方に感じる我が手足……天使の群れに更なる虚飾(栄光)を積み上げる。

 我が力の一部を与え、魂の炎に更なる燃料を(くべ)る。天使の群れが更なる速度を上げる。


「汚れし魂よ。せめて、我が虚飾(ヴァニティ)の名の元にとく輝き燃え尽きよ!」


 さぁ、追うがよい。主に侵攻せし者を。

 貴様の渇望の深さを我が前にさらけ出せ、傲慢(スペルヴィア)! 


 かつての天上での戦いが再びフラッシュバックのように脳裏に煌めく。

 笑み一つ浮かべず、その正義を達成すべく進む無数の白の軍団と、絶対強者により統制された渇望を求め続ける黒の軍団。

 しかし、一点だけ実際の記憶と異なっている事に気付いていた。


 身を切るような戦意から飛竜を逃すように操る。


 そう、それは本当に些細な差異だ。

 その二つの軍団の中に我が姿がないというただそれだけの差異だった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] いかに生意気といえど流石にヒイロさんかわいそうww [気になる点] >>――そう、奇跡でも起こらない限りは おっさん(おばさん?)フラグ立てんなよ…
[一言] 所々ポンコツなヴァニティさんすこ
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