第二話:曾て抱いていた栄光を
下せ。
と、本能が囁いていた。万物一切を踏みにじり己が下に置け、と。
かつて天使の王だった頃より感じていた情動は高まることはあっても収まることはない。
だからこそ、我は今ここにいる。
漆黒の玉座に腰をかける我の前に一人の男が跪いていた。
今代の魔王の頂点。
破滅のイーラロードから送られてきた嫉妬の悪魔が跪きながらも鋭い視線を向けていた。
「魔王閣下、如何がございましたでしょうか?」
「……些細な事だ」
他に言うべきことはない。
王の間にズラリと並んだ我が部下達は声一つあげない。
その中でたった一人、表立っていじるわけにはいかない外様の悪魔だけが声を出していた。
監視役として送られてきた眼の前の男は優秀な悪魔と聞いている。
我に送られてきた五人の監視役。その中で我に直接出会う機会が最も多いのが眼の前の男だ。
大魔王直轄、黒の徒と呼ばれる群体における副長。アインス・グレーロール。
我が配下と比べても高い能力値を持つ将軍級の悪魔。
我に派遣する悪魔に『嫉妬』を選ぶその意味、小娘の意図が透けてくるようで笑えてくる。
大魔王、カノン・イーラロード。
力こそあっても所詮は一万年程度しか生きていない悪魔、奴には経験が足りない。やり方はいくらでもあった。
我を御したくば数ではなく――魔王級の悪魔を送らねば話にならんというに。
アインスがギロリと口調に相応しからぬ敵意の篭った視線を我に向ける。
だが、気づいてはいない。
曾て派遣されてきたその時は抱いていたはずの、人形のような部下達に対する違和感は、もはや彼奴の中からは消え失せている。
「閣下、一つ伺いたいことがあるのですが……」
「……許そう」
「はっ。最近、閣下の軍団の数が些か減っているようですが、何かご存知でしょうか?」
男の眼の中には小さな影が見え隠れしていた。それは疑惑の光だ。
悪魔共に忠誠と呼べるものはない。
下らぬ問いだ。我が『軍』は我が命にのみ従う。
我が領土内の各地に常駐させてある軍には既に指令を出していた。
「軍は既に各地に向かわせている」
「!? ……何故ですか? 今、閣下の周囲に敵対する者は存在しないはずです」
然り。ハード・ローダーの力に恐れをなし、今この地を踏みにじる者は皆無に等しい。
もし、ただ一人その可能性があるとしたらそれは、魔王を下して回っているとされる戦乙女だけだ。
だが、それでは足りない。それだけでは足りない。
戦乙女の力は知っている。たかが下位の魔王を倒せる程度の戦乙女では、傲慢独尊は下せん。
それどころかイーラロードの小娘さえ下せないだろう。
性能が低すぎる。下位の魔王ならばともかく、我らに取って些事に過ぎぬ。
しかし、それならばそれでやりようがあった。
喜べ、戦乙女。貴様に手柄をくれてやる。
「くっくっく、天使共、よ」
その言葉にアインスの容貌が不審の表情に歪む。
沈黙は数瞬。僅かに警戒の滲んだ声を上げた。
「天……使……? 申し訳ございません。閣下の言うことがよく……」
「わからぬだろうな、『今はまだ』」
だが、すぐに分かる。
手の平を向ける。
邪眼で縛る必要すらない。副長? 下らぬ。この程度の悪魔の警戒、警戒とも呼べぬ。
スキルを行使する。
曾て神から抱いた力を行使する時に感じた高揚と何一つ変わらぬ高揚が身体を稲妻の如く駆け巡る。
男の背後から闇色の霧が集まる。
何も言わず茫然自失とした表情で固まる男の眼の前に集まった容貌の上半分を覆い尽くし、そして消えた。
男は悲鳴一つあげない。その姿勢すら僅かも変わらず、その表情だけが僅かな驚愕に歪んでいた。
まるで重大な事を忘れていたかのように。
「……はっ、失礼いたしました。……『天使襲撃』の件、ですね」
「然り。カノン・イーラロードに報告するが良い」
天使襲撃の報。
唐突に発生した天使の群れがグレーロックの街を襲撃した件だ。
グレーロックは『赤獄』と『暗獄』の境目にある街。
暗獄。曾て怠惰の大悪魔、レイジィ・スロータードールズが治め、今はハード・ローダーの管轄する広大な地だ。赤獄の三倍はあるその大地の面積は極めて広く、ハードの王領でも覆い切れぬ程に広い。
アインスの視線が歪む。
「……この私が、忘れるなんて……少々、疲れていたようです……報告は……迅速に……」
「くっくっ、愚かな男だ」
再度、手の平を向ける。
不要だ。違和感も疑問も不要。
全て忘れてただ報告するが良い。
再び権能を行使する。虚飾のスキルツリーの三番目。真実を虚構で上塗りするスキル。
「『欺瞞の真意』」
再びどろりとした闇が男の記憶に喰らいつき、真意を上書く。
状態異常抵抗のスキルがまるで薄壁のように、突破される。
容易い事だ。魔王ならば抵抗できるそれも将軍では僅かな抵抗すらできない。
表情一つ変わることなく上書きされたそれを無感動に見下す。
何故我がそれを得たのかは知らぬ。
知らぬ、が存在するのならば使わせてもらおう。
唾棄すべき悪魔達を少しでも使い物になるようにするために。
しっかりと定着するのを待って問いかける。
「容易き事だ、だろう? 往くが良い、大魔王の忠実な使徒よ」
「はっ、報告して……参ります」
アインスが去る。それをただ見ていた。
視線はそれを追っても我が考える事はたった一つ、曾ての怨敵の事だけだ。
立ち上がり、天井を仰ぐ。
魂の底から湧き出してくるような情動が声となって解き放たれた。
「ハード・ローダァァァアアァァアァ!!」
思考する者が他に誰もいない王の間で我が慟哭のみが響き渡る。
何故、どうして。ここまで情念を抱いているのか!
ここ数万年何一つ感じていなかったその念が、どうして今になってここまで爆発的に広がっているのか。
ただ討滅するだけならば、ただ殺し損なった事だけが理由であるのならば、魔王級になる前の方が容易く討滅できたはずなのに、何故今になって!
「くっくっくっくっく」
自然と漏れる嘲笑。
それに反応し、整然と立ち並んだ思考無き我が軍が喝采し唱和する。
「ヴァニティ! ヴァニティ! ヴァニティ!」
微塵も興奮はない。この感じる全身を奔る寒気は戦意かそれとも恐怖か。
それを知るには打ち破らねばなるまい。
我が『欺瞞』をもって貴様の『傲慢』を相手にしよう。
背から五対の翼が生える。
かつては純白の燐光に包まれていたそれは、今は漆黒の泥によって形作られている。
同時にぼろぼろと取り繕った肉体が霧となって崩れ去る。舐められぬように形作った武人の肉体が。
手の平を見る。二回りも小さな天使だった頃の身体。
膂力ではなく魔力に特化した、『玉座を護りし者』と呼ばれたその肉体は、常にヴァニティである今ではそちらの方が欺瞞だと思わせる。
「さぁ、我が前に並べ、我が親愛なる蛆虫ども」
無言でずらりと並んだ部下共、意志もなく渇望も上塗りされた悪魔の群れに手の平を向ける。
奴は強い。分かる。
ハード・ローダーの力はこの魔界に置いても異端だ。正面突破での打倒は至難。
かつてまだ魔王ではなかった頃から、我が手を逃れたその手腕。魔王となった今では尚更困難だろう。
だからこそ、我が権能が生きる。
「――貴様等に天を与えてやろう」
虚飾とは真実を飾り覆い隠す事。
スキルを行使する。
核だ。核だけでいい。
低位悪魔なんぞ何の足しにもならぬ。力は我が与えよう。
その存在を我が元に晒せ。
我が意志の上に踊るがいい。
「『虚ろなる栄光』」
虚飾のスキルの発動と同時に悪魔たちの全身が泡立つ。
その矮小な存在、そのものを覆い尽くすかのように蠢く闇は僅か数秒でその姿形を変える。
泥が固まり、翼を形作る。
純白の翼。
顔の上部を覆っていた仮面が白に代わり顔全体を覆い尽くす。
そこに佇んでいたのは天使だった。
その力は虚構にして虚構にあらず。その虚栄は世界すら騙す欺瞞となる。
その身に宿るは違うことなき光の力。故に、その力は悪魔を滅するためにある。
闇を払うための力が今、悪魔の力によって生み出された。
有する権能は論ずるまでもない。我に生み出せる物がそれ以外にあるわけがない。
「正義……か……」
その身に宿るはかつて我が司っていた『正義』の権能
今はもはや意味のない単語だ。
だがしかし、悪魔を殺すのにこれ以上適した力もまた、無し。
血塗られた闇で構築された翼はまるで光そのもののように輝く。
奇しくも、虚栄で固められた無機物のような表情は神の命をただ疑問を抱くことなく聞いていた曾ての我が部下のそれとほとんど変わらない。
悪魔も天使も何一つ変わらない。
神に仕えし天使だった頃も、仕える者無き原罪も、ただ唯一足るは絶対なる自我のみ。
ただ積み重ねる。曾て抱いていた栄光を。
ただ積み重ねる。堕ちてから築いた罪科を。
偽物でも欺瞞でも構わない。真実など、我が目的の前に不要。
力には代償が必要だ。飾り立てるには源がいる。
魔力が、力が、渇望が、スキルの行使に少しずつ抜けていく。それすらも愉悦でしかない。
それに比例するように兵隊が飾り立てられる。闇を源にした欺瞞の光で。
天使を生み出すは神の所業。
ならば、例え仮初でもそれを成す事ができる我は、曾て白き翼持つ存在だった頃よりも遥かに神に近いに違いない。
天の尖兵だった頃の我には力があった。圧倒的なまでの力が、神の愛が、正義が。
皮肉なものだ。悪魔と堕ちた今でもその力は何ら落ちていない。
いや、それどころか――
唇を舐める。
天兵にはリーダーが必要だ。この悪魔の地で奴らに危機感を覚えさせるにはそれなりの力がいる。
並んだ我が部下共のうちの一匹に更なる虚構を重ねる。
程なくして、過剰なまでの光を積み重ねられた天使が完成した。
己の力を削り過ぎるわけにもいかない。聖王級の中では下級といえど、悪魔を滅するに何の支障もない。
虚飾に彩られたその魂。
ぎらぎらと光るその色は天使のものであり、その事がひどく忌まわしい。
天使が声一つ上げることなくただそこに佇んでいた。
表情を隠す純白の仮面。だが、その下にも感情など存在しない。
この地で光の気配は目立つ。特に王領のスキルならば千里先からその正体は看過できる。側にいれば我がスキルで気配は消せるが、距離が離れてしまえばそれもまた困難だ。
いや、そうでなくとも――天使は天に在らねばならない。
かつて指揮していたように、腕をあげ窓から空を指した。
血のように赤く焼けた混沌とした空を。
「征け」
並んだ天使たちが一斉に飛び立つ。
だが、我が心には郷愁一つ浮かばない。
その光景は確かにまだ天に在った頃、確かに見ていた光景に酷似しているというのに。
一ヶ月以上も経ってる……遅くなりました。申し訳ないです。
次話投稿予定:涼しくなったら




