第一話:神などではなく
隊列を組み飛び交う白き翼。
地底から沸き上がってくる欲望の権化、神に仇なす者。
天空は今や光と闇の交わる混沌の坩堝となった。
その絶対数の少なさから、本来ならば大きな群れを組むことのない悪魔共の軍団は既に千を越えている。
それぞれ己が身よりも巨大飛竜に騎乗し、本来ならば進むことを許されぬ空を駆け巡る様は、この世の終わりさえ予期させる。
神の祝福を受けた空が瘴気と交じり侵される様は酷く現実味がなかった。
ましてや、軍団が飛び交っているのはこの空だけではない。
各地から通じる仲間たちからの信号は、魔界の悪魔が徒党を成して攻め入っている事を示していた。
総数五百。天界の擁する軍の中でも第五位となる程の数の天使を持ってしても……
例え、地の利が自らの翼を擁するこちらにあったとしても……
悪魔の数は天使よりも遥かに多い。
悪魔とは悪しき魂、欲望に塗れた昏き精神体だ。
人の心が正よりも負に傾きやすい事を考えればそれもまた当然の話だろう。
だからこそ、我慢ならぬ。
吐き気を催すような悪臭を振りまきこの楽園を汚す蛆虫ども。
天翼が引きちぎられる。不吉な旋風が光の隙間を駆け抜けた。
私の背後を疾駆していた天使がまた一人地に落とされた。
千に近き異形の軍の中に、一際巨大な力が在った。
金色の飛竜に騎乗する漆黒の髪の男。
縦横無尽に駆け巡る魔の先頭を駆ける悪魔の将。視界に入ることすら許せぬ、屑共の中で最も大きな力を持つ者。
「ふん……この程度、か。レイジィ様のお手を煩わせるまでもない」
「―――――――ッ!!」
背後を駆ける天使の天翼から無数の闇払う閃光が放たれる。神の眷属たる我らにとってそれは呼吸をするかのように容易き事だ。
負に傾いた魂を浄化させる裁きの雷。音もなく放たれたそれが空を満たし異形の軍を包み込む。
――そして、それがまた唯の拳で払われた。
軍が震える。そのあまりの傲慢に。恐怖に。力に。
それは本来ならばありえない事だった。ありえてはならない事だった。
我らの使命は悪を下す事。存在理由に反する感情は切り捨てるべきもの。
我軍の中で二番目の力を持つ盟友が目を見開き、険しい声を上げ、呼ぶ。
「グローリア、奴は――」
神から賜った栄光の名を。
私は、ただ手を横に差し出して今にも飛びかかっていきそうな盟友を制止した。
敵軍の数は多い。そして、突出したあの男。
神に創造された我らは奴らよりもよほど強力な力を持つ。一対一ならば敗北はない。
ただ一人、先頭にて光を切り裂くあれさえ討滅してしまえば後は時間の問題だ。
この程度の闇に躓いている暇などない。
我が栄光の名にかけて、積み重ねばならない。栄光を、我が神の膝元に。
声にならない声が天を揺るがす。
敵軍は統率されていた。本来ならば好き勝手に襲い掛かってくるはずの奴らは驚くほど静かだ。
将の背後に隠れているそれらは厄介極まりない。突出してくれれば減らせるものの、光は全て打ち払われる。
だがそれは、強さも指揮の要もただ一人の男が握っているという事。
ならば、取れる手はたった一つ。容易き事だ。
頭三つ分大きい盟友を振り返る。眼も眩しい六枚の天翼を持つ天使を。
「盟友、指揮を預けよう。あの『傲慢』は我が討つ」
「グローリア――だが……」
「愚問、よ。将は――我だ」
我こそは神の最も輝ける剣。
例え盟友といえど、指揮に従ってもらう。
例え負に偏っていてもアレほどの力、あれほどの魂、並の天使の力では――歯がたたん。
なればこそ、この我が、この神に生み出されし王座を守る者、栄光と正義を司るグローリア・サイドスローンが、直々に相手をしてやろう。
――悪魔なんぞに引けを取る卑小なる我が軍に代わって
祝福を受けた背負う十枚の純白の翼が力を放つ。
返事を聞かず、そのまま空を駆けた。天空は翼を阻まない。一瞬で男の眼の前、距離を詰める。
昂陽。万能感にも似た陶酔感が力を精錬する。
さぁ、受けるがよい。
我が司りし――『正義』の権能を。
武具など不要。手の平を翼すら持たぬ哀れな男悪魔に向ける。
永遠の闇、破滅の泥の底に消えるが良い。
「『裁き光』」
神から下賜された雷の槍が言葉と同時に天空を満たす。
一瞬曇った男悪魔の表情が光に飲み込まれる。
正義の権能。
それは、天使が持つ幾つかの権能の中で、悪魔を滅ぼす事に最も特化した力。
「あははははははははははははははははは!!」
何物にも変えがたきこの陶酔感。胸中から湧き出す止まることない哄笑。
神の威光を前に拳を振るう間など存在しない。
多少、力は強くとも所詮は負の魂、翼すら持たぬ地べたをただ這いつくばる穢れし者共よ。
全身が一層強い光を帯びる。それこそが成長の証。
我が正義が神に認められし証だ。
「グローリア……油断するな」
背後に立つ盟友が険しい表情で語りかける。
神の尖兵として長き時を闘いぬいた勇敢な男、しかし心配性の男だ。
「……奴は――強い」
「然り。ウジ虫共の中では――マシな方よ」
視線を前に向ける。
緊張はない。あるはずもない。油断はない。あるはずもない。
神の恩寵を受けた我に敗北などありえず、絶対の勝利こそが許される。
空中で制止する。
腕を組んで、光の晴れた先を睨みつけた。
『聖王の神域』の権能は討滅したはずの男の気配を鮮明にとらえていた。
力の大きさも質も我に遥か劣るちっぽけな男だ。悪魔共の階級の中でも王には至っていないだろう。
それは、我が今まで葬り去ってきた悪魔の王と比べても、間違いなく弱い、はずだった。
だが、生きている。
光が晴れるのは一瞬。悪魔の群れを前に高ぶる我が眷属共が僅かに動揺した。
「『裁き光』が効かぬ、か。忌々しい男だ」
神の裁き光を受けてなお、その表情に痛痒はなく、その身体に傷はない。
男が僅かに眉を歪めて睥睨した。我が盟友よりも頭一つ分高い長身から繰り出されるその視線は絶対零度の温度に満ち、このランクの悪魔が我を相手に向けられるものではない。
その視線、その在り方は見覚えのあるものだ。今まで葬り去ってきた数多の悪魔が抱いた過ぎた欲望。
「『傲慢』、か」
数えきれぬ程に悪魔を狩ってきた。奴らの情報は知っている。
他者のスキルをかき消す『優越』を持つそれ。
神を差し置いて傲慢を抱くなど何たる不遜。数ある悪魔の中で最も許し難い屑共だ。
吹けば飛ぶような力しか持たないそれは、しかし身に秘めた魔力以上の威圧がある。
その威圧に覚えるものがあり、一瞬眉を顰め、観察する。
その正体にはすぐに思い当たった。
そう、それは覇気と呼ばれる類のもの。
所詮、祝福さえ受けていない虫なれど、放っておけば我らにとって大いなる災いとなるであろう。
神の裁きを優越する程の力を秘めた傲慢とは、何と嘆かわしき事だ。
男が粋がる。翼すらなく、天に踏み入るのに竜の力を借りねばならない矮小な存在が。
「……ふん、。下らん争いだが、せめてもの我が主への贄としてやろう」
「あはははははははははははは、笑わせてくれる。盟友、手を出すでないぞ。この男は――我の獲物ぞ」
哄笑に異形が震える。
恐れ戦け。貴様等の命運は今この瞬間に尽きたのだ。
何百、何千と悪魔を討滅してきた。何百何千と使用した権能を行使する。
光が鋭さを伴い手の平の中で形を取る。
顕現した光輝く純白の剣――悪魔の首を切り落とすための『断罪の剣』を向ける。
神に勝利できると勘違いした見るに耐えぬ闇の尖兵に。
速度。旋回性能。攻撃力。地の利。
全てが全て、この天は我が元にある。
「貴様が裁き光を優越するのならば」
万物一切が止まる。
一瞬で男の背後に回りこむ。飛竜も、男も、そして我が部下の誰一人すら我が姿を眼で追えていない。
剣が我が『正義』を受け鈍く光り輝く。
そう、貴様が裁き光さえ優越するのならば我こそが――
「――神に代わって貴様に神罰を与えよう」
*****
ずきりと。
頭の奥底が傷んだ。夢の中の記憶が現実を蝕むように。
ゆっくり瞼を開ける。
音はない。光もほとんどない。薄墨のような闇が室内の静寂を照らしている。
どれだけの年月が経っても闇にだけは慣れる事はない。
「『傲慢独尊』め……」
憎悪してもし足りぬ。如何に殺意を抱こうとこの感情が晴れることはない。
我が記憶の奥底にいまだ存在していることこそが、何よりも憎たらしかった。
長き年月の間、記憶の片隅にしかなかったその名前が色を持って泡のように浮かび上がってきた理由は明確だ。
「序列一位……傲慢独尊のハード・ローダー、か」
下らぬ話だ。
確かに将軍から魔王の壁は厚い。が、もとより将軍級のままであっても、天使の王に匹敵する力を持っていた悪魔だ。
魔王となった今如何程の力を誇るのか。
序列一位は過分な地位ではあっても、高位の魔王には違いあるまい。
随分昔に既に決着がついた話だと思っていた。
だが、今となって再び胸に抱く魂核がざわめくのは何故なのか。
吐き捨てるような言葉を聞くものはいない。
天蓋付きの巨大なベッドで身を起こす。
身長二メートル近い巨体でさえ悠々と横になれる巨大なベッド、今の状態では些か広すぎる。
ベッドの周囲には何体もの人型がある。
物言わず、ただガラス球のような眼でこちらを見下ろす無数の悪魔。老若男女、千差万別。鼓動は極僅かだが、全員が全員生きた悪魔だ。
どこで足を踏み外したのかわからない。
いや、足を踏み外したのかどうかすら定かではない。
曾て輝いていた光の翼は暗く濡れ、堕ちたこの身には既に味方はなく、ただ残ったのは我が身のみだった。
「くっくっくっく……」
だが、それでいい。我が身さえあれば全て事足りる。
神も友も部下ですら――不要。
我が身を除いて、必要なのは唯一つ。
人形のように立ち尽くした一人の部下に手の平を向ける。
かつて『正義』を抱いていた頃には決して望めなかったこの権能さえあれば。
例え――それが悪魔の術だったとしても。
背に背負う五対十枚の黒き翼が大きく広がる。
いや、理由なんぞどうでもよかった。
既に我は悪魔、ならば――己が渇望に従う事に何の躊躇いもない。
さぁ、ハード・ローダーよ。曾て付けられなかった決着を今こそつけようではないか。
貴様に、敗北を刻んでやろう。
我が意志に呼応し、部下の眼に鈍い光が宿る。
取り囲んだ無数の部下が機械のような精密な動きで膝を折った。
その身に抱く渇望に上塗りした闇は自我を消し飛ばす程強く、その魂を取り繕う。
神などではなく、この我が力で――
「貴様の邪悪を、我が正義で滅してくれよう」
悪魔が抱く七つの渇望の外。
曾て見下したウジ虫と同格になった我を持ってすら怖気が奔る程、悪鬼羅刹の如き権能。
理由も知れず悪魔と堕ちた我が初めから持っていたその権能の名を、
我が自然と理解していたその権能の名を、
『虚飾』と呼ぶ。




