第三話:私は臆病者だ
猛れ我が憤怒よ。
我が憤懣は地獄の窯よりい出し暗黒の炎、三千世界を灰燼と帰す魔神の業よ。
天界に蔓延る醜い羽虫め。我が覇道を遮る貴様等は蝿にも劣る。
赤き煮えたぎる太陽の見下ろす天はただ高く、翼なき我らが手には届かない。
だが、それでいい。だからこそいい。
我らに翼など……不要だ。
神に縛られる、飛べぬ翼などいらぬ。
光無き地なれど、この地こそは我らが支配する地。
「貴様等は、すぐにその意味を知るだろう」
戯れに足を踏み入れたことを後悔させてやろう。その身に、その翼に刻みつけてやろう。
そうでなければ……私の気が済まない。
飛竜の速度は天使の翼に比肩しうる。
この地で最大級の勢力を誇る私の騎乗する竜は並の飛竜よりも速い。
竜上は風のせいでかなりの揺れがあった。興奮したように鼻息荒く滑空する飛竜の上からは天使がいるとされる天の境目が酷く近く見える。
私の先祖が――いや、我らが先祖が焦がれたとされる光の世界が。
その気持ちは分からないでもない。
こうして天を見上げるだけで感じられる魂が疼くような違和感。それは恐らく――憧憬。
発生してからまだ一万年も経っていない私でさえ感じるのだ。数万の時を生きる古株の魔王達がそれに焦がれる気持ちは私より遥かに上だろう。
だが、今の私はそんなものには興味などなかった。
眩い光が何かを変えるとは限らない。闇が他者を堕落させるとは限らないように。
私はそれをよく知っていた。
だから、恐らく、かつての大魔王が天界を制圧した所で私達は何も変わらなかっただろう。
私の騎乗する大型の飛竜よりも一回り小さな飛竜に乗ったリーゼが険しい表情で右下を通り抜けていく。
暗獄の地に入って既に数十分が経過していた。
常に静寂に満ちていた地は、音こそないものの今までにない騒乱の中にあった。
兄様のそれ程ではないが、私の『混沌の王領』による知覚領域は広い。
既に私の王領は広大な暗獄の地のおよそ四分の三を覆っている。私はその中身を隈無く探っていた。
いつも朧げに感じ取っている情報を集中して読み取った事で、反動で頭がズキリと痛む。
だが分かる。はっきりわかる。
この地に集まる大小様々な気配が。
空を舞う無数の癇に障る力の波動に、巨大な力が三つ。力の大きさは見間違いようがない、魔王級で、そのクラスの力がここまで狭い範囲で集まることは本来ならありえない。
一匹は紛うことなき光の気を纏う者。空を疾駆するその気配はその後ろに付き従う群れ全てを合わせて尚、圧倒する神気を放っている。
仮にここが天界であったならば、我らに大きな傷をつけたことだろう。
他の二つの気配はよく知る気配だった。
ただ自らの欲に貪欲なる者。魔界を支配する悪魔の頂点。悪魔の王。
『傲慢独尊』のハード・ローダー
『悪食』のゼブル・グラコス
間違いなくこの魔界でもトップクラスの力を持つ魔王達の気配。
空気が二つの気配を中心に沈む。ただそこにいるだけで世界が音を立てて軋む巨大な魂。
奇しくも両者共に攻撃力に特化しており、その力は他の魔王さえも超越する。魑魅魍魎跋扈する魔界においてさえ他の追随を許さぬその力は、天を飛翔する神気の持ち主を圧倒的に引き離していた。
悪魔と天使の力の格はその身に秘める魂で決まる。
ハードとゼブル、天使の持つその差は倍近い。
力の大きさで純粋な戦闘能力が決まるとは限らないが、その差異は易易と覆せるものではない。
ハードならば片手間で滅ぼせる程度の力だろう。
ならば、私の憂慮は杞憂だったのか?
断じて――否。
私が彼らの存在を察知したということは、私の存在ももう既に感知されているという事でもあった。
ハードには勿論、ゼブルや、そして恐らくは、敵の天使にも。
まるで誘蛾灯に群がる蛾のように影寝殿に集うその気配に覚えた、煮えたぎるような紅蓮の感情を私は必死で噛み殺した。
「度が過ぎたな……事もあろうに暗獄の地に踏み入るとは……」
リーゼの予測は正しかった。
天使の行く先は間違いなく影寝殿を向いていた。
自身の判断が間違っていなかったことを悟る。
もし、誰かを代替に派遣して失敗したら目も当てられない。
影寝殿は、怠惰の王の寝所であり棺。
何人たりとも踏み込む事は許されぬ。
一年ほど前に見た兄様の双眸が脳裏に浮かぶ。兄様はただ静かな眠りを望んでいた。
「私達は……愚かだな……」
力在る者の性として、私達はより大きな力に惹きつけられてしまう。
些事に妨げられる兄様の眠りを想うと、私はやるせなさと共に、コントロールを覚えたはずの腸が煮えたぎるような情動を抑えきれなかった。
飛竜が悲鳴のような細い声をあげ、身体を大きく揺らす。ちりちりと何かが焦げる匂いに、私はようやく、自分の憤怒が、自身が騎乗した飛竜にダメージを与えている事に気づく。
下から聞こえてくる細い悲鳴は、その図体に比べて随分と可愛らしい。
……いかんな。こんな事ではまた笑われてしまう。
深呼吸をする。少しずつ憤怒をまた存在の奥底に沈めていく。
燃えるような冷徹な怒りを。研がれた刃のような鋭利な怒りを。
憤怒を飲み込む術は既に知っていた。
唇を舐める。鼓動は既に治まっていた。だが、我が憤怒が消えたわけではない。
ただ、目に見えないだけだ。それは常に我が魂を燃やしている。表に出ていない分、燃えたぎる渇望はまるで刀のように研ぎ澄まされている。我が敵を討ち滅ぼすために。
戦場が近づくにつれ、状況がより鮮明に分かる。
そこには、私の憂慮した光景があった。
「チッ……ハードめ……何を手こずっている」
己を誇示するように脈動する漆黒の閃光――魔力のぶつかり合いにより発生する闇の波動が天を飲みこみまるでオーロラのように空に広がる。
力の塊がもう一つの塊と接し、星屑のように激しく明滅し、だが消える気配がない。
遠い空からでもはっきり目で見て分かるそれは世界の終わりを予兆させた。
悪食のゼブル・グラコス。
無限の飢餓を持つ暴食の魔人。
魔王の中でも一際凶暴で、一際業の深い、森羅万象を喰らうもの。
さしものハード・ローダーでも、悠久の時を生きる飢餓の申し子は易易と打倒できぬか。
あるいは遊んでいるのか……
私は頭の中にこびりつく鬱屈を消し飛ばすように鼻で笑った。
微塵も私の中の鬱憤は晴れなかったが。
「ふっ……どちらでも良い事だ。貴様の邪魔をするつもりはない。思う存分やるがよい」
忌々しい。忌々しい、が……でなければ私がここに来た意味がなくなる。
ハード・ローダーの戦闘力はただ単純な力だけで見るのならば、魔王の中でも三指に入るだろう。
私は、ただ旧知を理由に彼奴に第一位の序列を奴に与えたわけではない。
直接的な腕力。
全てを睥睨する絶対の自信。
それらは傲慢の資質だ。奴はその渇望を使いこなしている。
奴の勝利は疑いない。例え少々の時間がかかったとしても。
余り好いてはいないとは言え、その程度の信頼はあった。
だがしかし、今の状況は少々騒々しすぎる。
ハードよりさらに奥、地表を駆ける五百人程度から成る軍勢。
空を行く天使を追うかのように、地を奔る竜に乗って疾駆する軍団
地上を天使の翼に匹敵する速度で掛けながら、定規で測ったかのように不気味なくらいに規則正しく隊列を作るその軍は、ヴァニティのものだ。
天使の群れを追いかけているのか、スキルを発動させる気配すら出さずに静かに疾走するその様は、気配が非情に希薄であるにも関わらず、何故か、生理的な嫌悪感を感じさせる。
リーゼがぞくりと肩を震わせた。
「相変わらず気味の悪い軍だ」
極めて気配の薄いヴァニティの軍には、魔王軍の中では珍しく『名前』があった。
ヴァニティ自身がつけたそれすなわち、『仮面灰軍』
この距離からでもはっきりと感じる人格すら失ったような色のないその灰の魂こそがその名の由来なのだろう。
悪魔としての力で他の魔王軍と差がある訳ではないが、どこか不自然なその在り方が何を由来として成立しているものなのかを私は知らない。
本来ならば天使を分析するべきだ。だが、私は自然と、天使よりも、地を往く軍勢を意識していた。
逆の性質故に癇に障る天使とは異なり、意味もなくただ癇に障るその軍勢を。
荒野を進撃するその軍勢の中に、王であるヴァニティの気配は――ない。
私の知覚領域の中にも感じられない。王領の中に存在する魔王級の力は私を除けば三人だけだ。
討滅されたか? いや、あれでも四位の悪魔だ……そう易易と敗北するような器ではない。例え天使の王が相手でも、なんとでもできる力を持っているはず……
登場人物が足りない。奇妙な違和感。
ヴァニティの軍がいてその主がいないなど、本来ならば考えられない。
奴は会合の場で天使を滅することを明確に宣言した。
その言葉すら、今となっては虚実に思えてくる。父様から曾て聞いた警告が状況分析のための思考を乱す。
そもそも、如何に軍とは言え、主なくして悪魔が統制のとれた動きをできるわけがない。
泥沼に陥りそうになった思考を、大地を揺るがす轟音が遮った。
今は、考えている場合ではない、か
深呼吸をすることで思考を落ち着ける。
目標を見誤ってはならない。いないものの事を考えても仕方ない。
もう一度冷静に戦場を見渡す。
天使の軍勢。悪魔の軍勢。
ゼブル・グラコス。ハード・ローダー。セルジュ・セレナーデ
そして、カノン・イーラロード
あまりにも豪華な布陣はしかし、レイジィ兄様にとって酷く不利だ。
ハードがいくら強くても、ハード・ローダーという悪魔はたった一人しかいない。しかも、その一人はこともあろうに本来なら我が軍の魔王だったはずのゼブルと撃ちあっている。
主たるヴァニティ・サイドスローンなくして、その軍は――烏合だ。
五百という数は魔王軍としてはそれなりの数だが、しかしそれでも、その程度の数の軍勢で魔王級の敵を相手にするのは難しい。
魔王級の下位ならばまだなんとかなるかもしれないが、第七位の魔王を屠ったとされるセルジュを相手にすれば足止めにもなるまい。
魔王には魔王を。それは対悪魔、対天使戦術の骨子だった。
くそ、ヴァニティさえ残っていればなんとでもなっていたものの。
天空を流れ星のように駆ける天使の軍勢は、力こそはそれほどでもないが、数が多く、とにかく速い。
ヴァニティの報告にあった天使の数は十体だったが、今感知しているその数はヴァニティの群れとほぼ同数だ。よくぞここまで大量の軍が、しかも誰の王領にも引っかかることなくここまで侵入出来たものだ、と変な笑いさえ浮かんでくる。
封じ込めたはずの熱がじわじわと思考を焦がす。
運が悪いのか間が悪いのか。敵の数が予想外に多い。手が足りていない。
私が想定していた仮想敵が一同に集まるとは……
天使も悪魔と同じく、数が少ない。数体ならばともかく、数百体以上の規模で現れるのはほぼ数千年ぶりだ。だが、戦闘欲は微塵も湧いてこなかった。
戦意の向上による高揚はなくあるのはただの焦燥だ。
いくら聖王級の天使を動員しているとはいえ、この規模で魔界を落とすことなど出来はしない。それどころか、まともにぶつかれば一時間も持たずただその屍が積み上がるだろう。こいつらはただの無駄死だ。
だが、嫌がらせとしては至上だった。
何もかもが都合が悪かった。
魔王級を他に連れてくるべきだったか?
敗北はまずありえないが、取り逃がす可能性がある。一度撃ち漏らせば追いつくのは難しいだろう。
天使が悪魔を優越している最も大きな点はその速度にある。
飛竜に騎乗してすら容易に追い付けない天翼による飛翔は最高速度、持久力共に悪魔の比ではない。
運命というものがあるのならば、それは私を呪わずにはいられない。
自然と手に力が入り、ぎりぎりと爪が二の腕に食い込む
何故。
何故、影寝殿を目指すのか。
何事も成さず、ただその生を静謐な深き眠りの底で過ごす王の元を。
悲哀の深淵。どこまでも深く昏い海の底のような憂愁を常に纏う、この世界で尤も悲しき存在を。
如何にそれが力あるものとしての業だとしても、それは私には余りにも悲しすぎるように思えた。
そして、同時に確信する。
それが兄様の背負う業だとするのならば、それを払うことが私の役目に違いない。
私は自身の臆病を嘲笑った。
いいだろう……とうの昔に知っていた事だ。
この世界は、私を馬鹿にしている。
都合が悪い? 数が多い? 笑止。
いいだろう。ここに誓おう。
「我が『憤怒の王』の名にかけて貴様等、一匹残らず塵としてくれる」
遥か彼方から響き渡る山の崩れるような轟音と同時に、地面に巨大な亀裂が奔る。
地平線の彼方、私はようやく戦場を目視した。
地面に開けられた無数の穴に、線が引かれたように荒野に奔る無数の亀裂。
亀裂の中心に傲岸不遜に立つハード・ローダーと、黒の瘴気を全身に纏った小柄な悪魔――ゼブル・グラコスの小柄な姿を。
地面が戦慄くように鳴動する。リーゼが恐怖と驚愕が入り混じったような表情で飛竜の手綱を強く握る。
ハード・ローダーの魔力が瞬間的に高まる。ただそれだけで並の悪魔ならば意識が飛ぶかのような力。
そこまで力を出さなくては行けない相手なのか。ゼブルの討滅が間に合うという可能性に脳内で線を引いた。
あれほどの力を出して本気ではないという事はあるまい。
その地に吹く風は各々の渇望を吸い濃密な魔力に侵されていた。
それは戦場の風だ。
渇望と渇望の衝突が生む、混沌の風だ。
それは、まるで傷でもつけるように暗獄の地に満ちた魔力を――兄様の『王領』を切り裂いている。
切り裂いていたとして、実際に兄様の『王領』に影響が出ているわけではないだろう。
が、そんな事実は私には関係がなかった。
私の邪魔をする者は――悪魔だろうが天使だろうが戦乙女だろうが『敵』だ。
ようやく戦場をその目で捉えたのか、リーゼが瞳を大きく見開く。
「馬鹿な……なんて……力……。互角? いや、ハードが有利、か」
悪魔には相性がある。
攻撃力の高い傲慢と暴食のぶつかり合いは長期戦になることはほとんどない。
相性的には傲慢は暴食よりも強いが、それとて大きな差異ではない。
リーゼの判断は正しい。時間さえあれば、ハードが勝利するだろう。
だが、それを待つ時間など、もはやない。
私では天翼の速度には追い付けない。いかに優秀な飛竜を駆った所で生態の差異は覆せない。
こうしている間もこちらに近づきつつある天使の速度を測る。これは天使と悪魔、純粋な生態の差異だ。
それを覆す事ができる悪魔がいるとするのならば、それは静止した時を駆ける傲慢の悪魔に他ならない。
そして、その事実が恐らくハードの拳を鈍らせている。
この距離からでもはっきりと感じるハードの殺意は決してゼブルにだけ向けられたものではない。
ハードはバトルマニアであり、しかし同時に兄様の配下でもあった。
一度反旗を翻したとはいえ、その忠誠は今のところ衰えていないと見える。
魔王同士の戦争とはいわば、渇望の喰らい合い。その一撃一撃は致死であり、その一撃一撃には魔王自身の存在そのものが込められている。
そして、ゼブルの『生』はハードの持つ『見えない速度』を持ってしても容易に打倒しきれない程に強力だ。
隙を見せて勝てる相手ではない。
他方、天使の群れは己の天敵に対して――地上を往く悪魔の軍勢にも、大規模な破壊をまき散らし喰らい合う魔王にも、気を向ける気配がない。ただ、愚直なまでに影寝殿に向けて全速力で向かっている。
その力は前評判で聞いたほど高くはない。確かに聖王級ではあるが、七位を葬れるかと言われると疑問が残る。
だが、このまま逃してしまえば面倒なことになるには変わらない。少なくともその力は、影寝殿に詰めているローナやミディアなどのミドルクラスの悪魔でなんとかなるレベルではない。
兄様の静寂を守るため、軍を取り上げた事が仇になったか。
怠惰のレイジィは攻撃力も敏捷性も高くないが、防御力と生命力だけは突出している。だから殴られてもそう簡単に死なないだろうが、かの天使の行動が気にかかる。
まるで、レイジィ兄様の無意味に高い防御を突破する策でもあるかのような陰りのない意志。
万が一、億が一にでも討滅される可能性がある以上、逃す事はできない。
そうでなくとも――
「――眠りの邪魔をさせるわけにはいかない」
「…………」
彼我の距離の差はおよそ数キロ程度。だが、その群れはこちらを避けるようにして進路を変えつつあった。
運がよかったのは、破炎殿と影寝殿の位置関係上、迎え撃つ形になるという事。もしそうでなければその速度に、私は相対する事すら適わなかっただろう。
運が悪かったのは、憤怒のスキルが単体向けのそれしかなかったという事。五百体の群れというのは――憤怒に取って少しばかり多すぎた。
魂を燃やす。自身の全存在を、渇望を収束しさらなる刃を成す。
無意識に食いしばっていた歯が砕け、飛び散った鮮血が飛竜の背を焦がし、飛竜の口元から小さなうめき声が聞こえた。
血を袖で拭き取る。
頭に血が上ったのか、足元がおぼつかない。
それでも、ふらつきながらも飛竜の背に立ち上がり、無言で杖を前方に向ける。
遥か古来、初代大魔王が邪神から賜ったとされる悪魔種の至宝。全長およそ五尺。本体を構成する木材はこの魔界に存在する如何なる物質よりも硬く頑丈で、杖頭分には竜の顎を模した装飾が成されている。
その銘、破皇杖、ウェイド。あまねくこの世に分布する無数の宝器の中でも、神器と性質を逆にする邪神の宝具である。
頭を装飾する竜の顎、嵌められた金色の水晶の眼を敵対する者に向けた。
精緻にカットされたクリスタルの鏡面が陽光を反射して不気味に輝く。
憤怒とは激情の顕現。
あらゆる感情を焼きつくす非情の渇望。
深呼吸をする。長い年月で磨き上げられた『憤怒』を表に出す。
今の私は誰にも見せられない表情をしているだろう。
眼の前が真っ赤に染まり、どろどろした激情が脳内を席巻する。
だがしかし、同時に私は冷静だ。それは、レイジィ兄様から教わった事だった。
兄様は身を持って教えてくれた。
怒りは無闇に放出するものではない。研ぎ澄まし、束ねるものだ。
短く唱える。見渡す限りを赤に染めるそれが、至宝を通して空に放たれた。
「『疾走する忿怒』」
無数の紅蓮の閃光が宙空を奔る。
紅蓮の箒星が光速で空を焼き尽くし、刹那の瞬間で距離を零とし、天使の群れを斜めに貫き、縫い付けた。
天使が纏う光の衣がまるで紙切れのように貫かれる。如何なる障壁も我が憤怒の前に意味を持たない。
直線上を凪いだ炎は十数体の天使を一瞬で喰らい尽くし、空に僅かな残像を残した。
頭蓋に響き渡る何かが砕ける嫌な音。
味覚を刺激する鉄の味。感じる痛みを完全に無視し、舌打ちした。
斜め前から貫かれ、一瞬静止した天使の群れが再び飛行を始める。その仕草はまるで決まりきったプログラムをこなすかのようにほとんどラグがない。まるで決死の軍団。
無意識に噛み砕いた歯を吐き捨てる。
かつての戦争さえ経験していないものの、天使というものは知っていた。知っているつもりだった。
奴らは我らの天敵にして、我らを狩り殺す事にのみ執念を傾ける獣だ。その実態は我らと何一つ変わらない。
はずだった。
だが、ならばコレは何だ。
攻撃を受けていないならばともかく、数匹落とされてさえ、動きが止まらないその群れは確かに、天使としては異端だ。
憤怒のスキルは速射が効かない。
天使の群れが大きく散開する。一撃で落とされぬための策だろう。大きく広がったその隊列は、一点集中を得意とする憤怒のスキルに対向するための明らかな知恵だった。
そして、やはりその天翼の向き先はこちらを向いていない。
反撃するでもなく、スキルを使うでもない。
我が憤怒を前にして飛翔するその仕草には――その行軍には明らかな何者かの強い意志があった。悪魔に対する天使の本能をも上回る目的意識が。
「この私を前にして――尚、兄様の元に向かう、か……」
ならば尚更逃すわけにはいかない。
再び、頭にじわじわと黒い熱が上ってくる。本能が、情動がまるで身体を食い破ろうとしているかのように暴れまわる。
怒りに比例するように、絶え間なく湧き続ける暴力的なまでの魔力の波動を精神で抑え、ただ杖の先端に集め束ねる。
全ての激情をただ一撃に込める。
散開? 策?
下らない。面倒だ。
ならば世界、全てを等しく焼きつくすまで。
一撃で天の尽くを塵とするまで。
兄様こそは絶望の王にして、この地でもっとも悲しき王。
たかが数百体程度の天使で、私の兄様の前に立とうなどとは――虫酸が走る。
愚かな天使共よ。暗獄の地で朽ちるが良い。
今までの兄様への敵対者と同じように。
ただ指向性のない魔力だけで強い赤に染まる杖先を愚か者どもに向け、スキルを発動しようとした瞬間、私の真下を並走していたリーゼがかん高い怒鳴り声をあげた。
どこか切羽詰まったような表情で見上げる部下の姿を見下す。
「カノン様、ここは――ハード・ローダーを使うべきかと!」
「……何?」
想定外の立場から放たれたその言葉に、杖に込めた魔力、発現しかけた力を反射的に抑える。
大魔王となった私に意見をする者はほとんどいない。ましてや、魔王でもない身の上で意見するものなど両の手の指の数で収まる。
リーゼは視点こそやや偏った面もあったが、その忠誠心は私の配下の中でも上位に入るだろう。
群雄割拠するこの地で数少ない忠誠を誓う部下だ。その言葉には一考の価値があった。
私の意志の変化を感じ取ったのか、飛竜の速度がやや落ちる。
「あの者共の速度は相当な速度です。距離もあり、あそこまで広がられると――この距離からあの天使共全てを、空を焼きつくすのは――如何なカノン様と言えど、力を消費しすぎるかと愚考します」
同じ憤怒の渇望を抱くリーゼだからこそわかるのだろう。
怒りに比例したエネルギーを放つ憤怒の渇望は、七つの属性の中で最も攻撃力が高くそして――最も力の消費が激しい。
だが、そんな事は私も既知の上だ。
既に数十分前に暗獄の地に突入したにも関わらず、未だこの肌を焼く、皮膚が泡立つような熱は――怒りだ。
力を消費しすぎる?
それがどうした。例え力を消費しようが、空っぽになり配下の魔王共に舐められようが、その程度で躊躇う程落ちぶれてはいない。
私の渇望の――憤怒の使い道は、この私が決める。
リーゼの表情は明らかな感情を発露した私を見てもほとんど変わらない。
僅かに青褪めた顔色。長年の付き合いだ、私の事を知らぬわけでもあるまいに、そこから吐き出される言葉には躊躇いがない。
「傲慢を司るハード・ローダーならば容易くあの群れにも追いつけましょう」
リーゼの言葉は一理あるといえば一理ある。
ハードはゼブルと応戦中だ。悪食を相手にしながら天使を討つ程の余裕はあるまい。
加えて、ヴァニティの軍の助力も期待できない。如何に五百人の悪魔と言えど、ゼブル・グラコスを相手にすればいい餌だ。
暴食の厄介さはそこにある。同種を喰らう程に深い渇望を持つ奴らに対して、数で攻めるという手は悪手でしかない。
その状態で任せるという提案。
私にはリーゼの言いたいことがもう読めていた。
幼い頃から知っている生意気な小娘を見下す。
いつの間にか将軍級にまで上り詰めた才ある部下を。
「つまり、こういっているのか。交換するべき、と」
「はっ、それが適役でしょう。ハード・ローダーならば、かの天使共に追い付けます」
「一理あるな。だが一つだけ問題がある」
確かに、力の消費だけ見ればそちらの方が効率がいい……ように思える。
だが、リーゼはたった一つだけ忘れている。
貴様の意見は、私がゼブルを容易く討滅できるという想定に基づいている、という点だ。
暴食を司るゼブル・グラコスは憤怒を司る私とは相性が悪い。
当然、敗北するつもりはない。だが、奴を相手にすれば大きな力を消費するだろう。ともすれば、天使共を焼き払うよりも遥かに巨大な力を。
それ程までにゼブルは強い。
彼女は究極の捕食者にして生粋の戦士だ。
相性の悪いはずの第一位、ハード・ローダーを相手取り互角相当までに持ち込む武力は並大抵の悪魔とは一線を画している。
気が遠くなる程の遠き古来より喰らい続けたかの悪魔の能力、戦闘経験は、他者を喰らい力を得るその能力と相まって破格な力を実現している。
なにせ、奴の抱く渇望、同族を喰らう『暴食』は――純粋な他者への害意に紐付いているのだから。
私は怒鳴りつけそうになる声をなんとか寸前で抑え、リーゼを宥めるように説得する。彼女は聡く、そして甘い。
「ハードはレイジィの元部下だ。レイジィの恥を濯ぐ相手、彼奴は首を縦に振るまい」
「しかし、最も効率の良いのはその方法です」
然り。
ハードを相手にすればあの程度の天使、木っ端に等しい。大した力も使わず討滅できるだろう。
だが、私がゼブルを相手取れば力の消耗は免れない。
私は大魔王などと呼ばれていても所詮は――たった一人のただの悪魔なのだ。
言葉に出すか迷う。
天使の気配はこうしている間にもどんどん距離を開けていく。
だが、言わなくてはいけなかった。可愛い可愛い私の部下に。
それはもしかしたら、父様が私に対して与えた言葉と、中身は同じなのかもしれない。
上辺こそ違くても、少なくとも心中に抱いた感情は同じはずだ。
「リーゼ、私達は決して――一枚岩ではないのだ」
「!? そ、れは――」
あえて本音を言おう。
私は――ハード・ローダーという男を完全に信用できない。
彼はレイジィ兄様の片腕だ。しかし、一度兄様を優越した悪魔でもある。いつまた再び牙を向くか知れぬ。
レイジィ兄様の力は――強い。だが、同時に戦闘に向いていない。それはハードとは正反対の性質だ。一年前に垣間見た氷雪の力さえ――次は通じない可能性もある。
そして、それを抑えきれるのは私しかいない。他者を信用できない。
ただでさえ私の力とハードの力はほぼほぼ拮抗している。
この場で私の力が落ちてしまえば、私はいずれハードに敗北するだろう。
同族喰らいのゼブルよりも、父様が直に忠告したヴァニティよりも、私は、兄様の片腕であったハード・ローダーが一番恐ろしいのだ。
渇望は時に精神をも食いつぶす。魔王の抱く情動は理性で抑えきれるものでは、決してない。
「私を愚かと笑うか、リーゼ・ブラッドクロス」
昔から臆病だった。
憤怒を司る割りには理知だと人は言うが、慎重とは臆病の反面。
兄様の片腕を殺すわけにもいかず、兄様を殺されるわけにもいかず、ただ魔界の神に祈りその時は待つ私は――かつての父様と同じ、叶わぬ夢を追い、届かぬ頂きを知り、ただ玉座を守っていた父様と同じだ。
だが、それでも立ち続けねばなるまい。
いつの日か、私が背負う破滅の名に飲み込まれるまで。
リーゼの視線は私の言葉を受けて尚変わらず、ただ静かに私を見上げていた。
「……少々感傷的になったか」
「……いえ」
その眼、言葉に嘘はなく嘲りもない。
かつて私が見出したその時と同じように、その眼は、心は、歪みない。
ならばよし。
我が破滅を兄様に捧げる。
天使も悪魔も、神ですらその尽くを灰にしよう。
それこそが――我が憤怒の権能
万物一切尽くを憎悪し激憤する
空を疾走する飛竜の上に片膝で立ち上がる。
魔界の地は砂礫の敷き詰められた荒野が多く、暗獄の地も同じだ。
空から見下ろすと、どこまでも広がる荒野が一望できる
ただどこまでも続く闇に包まれた大地。遥か太古から何一つ変わらない漆黒の荒野。
怠惰の力に満ちたそれに対して、私が抱く感想はいつもたった一つだった。
天使との距離は既に視界の外にあった。だが問題ない。その位置は王領のスキルにより、仔細にわかっている。
断続的に揺れる大地と破砕音はハードとゼブルの戦闘が拮抗している事を示していた。
その全てを思考の外に追い出す。
再び魔杖に力を貯める。激情に呼応するように杖全体が小さな太陽のように煌々と輝く。
力を解き放とうとしたその瞬間、飛竜の下から突然リーゼの竜が割り込んできた。
「……何のつもりだ」
解放寸前の力はリーゼの持つ全魔力を遥かに凌駕する。
以下に同じ渇望を持つ者とは言え、受ければ塵すら残らぬ獄炎だ。
「……カノン様、やはり私は……反対です」
「……何?」
うつむき加減だったリーゼの顔が僅かに上がる。
燃えるような炎を宿すその瞳は憤怒とはまた異なる強い感情に燃えていた。
「やはりここはハード・ローダーに任せるべきかと」
馬鹿の一つ覚えのように繰り返すその言葉に燃え上がりかけた感情をぎりぎりで押しとどめる。
憤怒の残滓が錫杖から溢れ、羽織っていたコートから燐光が漏れた。
大丈夫。兄様にかつて抱いた憤怒からしてみればこの程度……まだ我慢できる。
黙って続けるよう促す。リーゼの必至の眼が何故か痛かった。
「確かに、かの男はいずれカノン様を裏切るかもしれない。その不安も分かります。しかし、今はただ現状を考えるべきです。私達の敵は――天使とゼブルだけじゃない」
震える声が耳を打つ。
確かに、我が敵は未だ魔界全土に在る。ハードが随分と働いたが、その程度で制圧できるほど魔界は狭くない。
軍全体の戦力だけを考えるならば、ここでハード・ローダーが消耗するのは悪手だ。
だが、それもまた折り込み済みの話。
メリットとデメリット。
ハードの力が消耗しなければかの男は尽く敵対する魔王を下す事だろう。魔界の統一までの時は確実に短縮される。
だが、同時に例えハードの力が衰えた事で討滅されるはずだった凡百の魔王が生き延びようが――兄様は傷つかない。
兄様の耐久力は並大抵ではない。相手が魔王と言えどそれは同じ。
それを撃ち貫く事が可能であろう、突出した攻撃力を持つ数少ない魔王がハードやゼブルといった攻撃力に特化した上位の魔王達、なのだ。
力は削ぐ。敵は討滅する。
是非はない。例えそれが僅かな時間を稼ぐだけだったとしても。
災禍の芽は詰まねばならぬ。
それはメリット・デメリットを超えた――『前提条件』
私が大魔王となった際に決めた一つの基準。
それを果たせるのならば、力など惜しくない。
世界など――いらない。
「リーゼ、退け」
貴様がそうして私の邪魔をしている間に天使共との距離が広がる。
焦燥感に似た炎は既に全身に周り熱となって空を焦がす。炎熱に耐性のある竜の鱗が異臭を発し焼け落ち、か細い悲鳴をあげてまるで私を振り落とさんばかりに縦横無尽に空を駆ける。
竜と言っても所詮は畜生か……いや、だが。ああ、これで上手くいく。
髪を挽き散らす旋風。
飛竜の動きが乱れた結果、僅かな間に大きく引き離されたリーゼが遥か眼下で悲鳴のような叫び声をあげた。
一度だけそれにちらりと視線をやる。
貴様は――よい部下だ。
魔力の励起、戦意の顕現と共に脳裏を唄が満たす。
地獄の底、日の当たらぬ地底の底で辛酸の中、魂に刻みつけられてきた魔王の唄が。
唇が自然と口ずさんでいた。
大きく振るった杖頭の残滓に鮮やかな焔が続く。
「ダン・ブレイズ。漆黒の雨よ。開闢の業を我が手に――」
私は臆病者だ。
だからこそ、我が敵よ。滅べ。
破滅こそが我が安息。ただ、常世へ消え失せるがよい。
憤怒のスキルツリーの最上位であるその呪文を唱えるのは何年ぶりか。
そして私は、破滅を執行するためにスキルを行使した。
「深き焔」
意識から色が抜けるのを感じる。悪魔とは精神体、肉体に意味はなくその存在の大部分はただの精神の形だ。
それが抜ける。意志の大部分を占めていた感情が形となって発露する。
杖先に集約した力は一強く光り輝き、そして爆発的に広がった。
それは私のたどり着いた『憤怒』の深淵
有象無象尽くを消し去る開闢の焔は一種の神の怒りに似てただ美しく、そして万物を一切合切をリセットするための力だった。
一瞬で膨張した閃光は天地等しく広がり、空を紅蓮の極光で焼き払う。
熱せられ膨張した熱波が巨大な嵐となって大地を凪ぐ。飛竜が風に煽られ大きく揺れる。
それは光の波だ。
兄様が曾てこの地を氷雪で閉ざしたように、逆に世界の何もかもを焼きつくすための火炎がこの地を満たす。
天翼がどれだけの俊敏さを奴らに与えても、所詮光には敵わない。
刹那の瞬間、光速に迫る勢いで席巻した炎は天使共に悲鳴を上げる間すら与えることなく、思考する時間すら与えることなく、それらを一匹残らず飲み込んだ。
憤怒に空が燃えていた。
聖王級であろうが、魔王級であろうが、破滅の前に意味を成す事はない。
炎が晴れる。
空はただ赤く、そこにはもはや何も残っていなかった。
先頭を飛んでいたセルジュも、続いていた天使の群れも塵一つ残っていない。
直接顔を合わせ相対することもなく消え去った兄様の敵に、私は何一つ感慨すら抱かなかった。
強い力の発露には常に代償が伴う。
脳を埋め尽くす虚無感。全身から抜ける力に飛竜の上に跪く。だが、武器は手放さない。
敵のその全てを破滅に陥れるまで。
「はぁはぁはぁ……」
手綱を握り、飛竜を降下させる。天を埋め尽くす炎にほんの一瞬止まった攻撃の手も再開している。
地を揺るがす破壊音は先ほどまでの比ではない。
ハード・ローダーの遺恨は断った。さぁ、今ならば全力が出せるだろう。
これで負けるようであれば――私がゼブルを討滅する。ただそれだけの事だ。
更新が遅れてしまい申し訳ないです。
推敲が思うように進まず……
*****その他連絡******
白木つぶらさんにレイジィとローナのイラストを頂きました。
素晴らしいイラストを本当にありがとうございました。
下記にリンクを貼りますので是非、御覧ください。
http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=50243244




