第二話:私の軍にはろくな人材がいなかった
「――様、――様? 」
聴覚が揺さぶられ、意識が再び組み上げられる。
定期的に聞いているはずの声がまるでとても懐かしく感じられた。
視界に光が入る。
頭を抑え、周囲に視線をはしらせる。そこは、いつもいる場所だった。
破炎殿の王の間。影寝殿と同じ造形を持ちながら、しかし全く別の空気で満ちる大魔王の玉座。
歴代の大魔王達がその身を置いたその場所で、私は覚醒した。
「カノン様? どうかなされましたか!?」
「……ああ……、問題ない。少し――昔を思い出していただけだ」
失敗した。少し深く思索しすぎていたようだ。
「は、はぁ……それならいいですが……」
訝しげな表情で私を見上げるのは、私の懐刀の一人だった。
リーゼ・ブラッドクロス。私と同じ憤怒の悪魔にして、どこか昔の私を思い出させる女だ。
だからなのだろう。
こともあろうに、未熟だったリーゼをレイジィ兄様の元に送り出してしまったのは。
もしかしたら父様が曾て私をレイジィ兄様に預けた時も、今の私のような気分だったのかもしれなかった。今はもう知る由もない。
怠惰の王に敵はいない。行動を起こさない兄様には如何なる者も敵とはなり得ない。
力こそ歳相応を越えて持っていたものの、気性の面で一部不安定だったリーゼが兄様の影響を受けて感情をコントロールする緻密な術を身に付けたのは、功を奏したというよりは、必然といえるだろう。
兄様、経験値多いから……
「全く、かの魔王達は相変わらずですね」
「ああ……だが、仕方の無い事だ。彼らが彼らであるが故に、な」
強烈な我を持つ魔王を束ねるのだ。ある程度の軋轢はあって当然の事。
それらを、歴代の大魔王は多種多様な力で従えてきた。
それは、私も同じ。
異なる欲を持つもの同士が集まるのだ。獅子身中の虫など、大魔王となった時から覚悟の上。
気性。知性。腕力。カリスマ
唯一奴らを従わせられないのは――権力だけ。
そして同時に、その程度従えずして――従える力なくして、天使共を討滅する事などできはしない。
「だが……さすがにシトウはやり過ぎだな……私の眼の前で仮にも友軍を『簒奪』するとは……」
「……ああ、ミディアですか……」
強欲は物欲に依存するのが基本。故に、その戦闘能力はそれほど高くない。
だが、あの魔王はその対象がこともあろうか、『人体』となっている。何故そのような渇望を得たのか私にはわからないが、その権能は容易く魔王の肉体をかすめ取るだろう。
厄介なことこの上ない悪魔だった。
そしてあの性格。
魔王はそれぞれ皆ピーキーな性格をしているが、その中でもトップクラスに扱いにくい性格と言えるだろう。
ミディア・ルクセリアハートはそれなりの悪魔だ。
兄様が拾ってきた時にはまさか軍に入るなどとは思っていなかったし、ましてや将軍級まで至るなどとは微塵も思っていなかった。
しかしそれでも、ミディアと魔王の間には埋め用のない格差がある。
「逆に言えば、ミディア一人だけで済んだのならば幸運なのでは……?」
「……まぁな……だが、会合の場で人死が出るのは久しぶりだ」
もちろん、それぞれが強い毒である魔王が集まる以上、周囲への被害は少なくない。
だが、同時に魔王とは欲望渦巻くこの地で自らの欲望を誇示できる強さを持っているので、そう易易と討滅されるようなことはない。
今までの傾向から言うと、大体被害が出るのは会合の最中ではなく、事後であり、魔王本人ではなくその周囲だった。
「ま、まぁ、ミディアは所詮代わりなので……」
リーゼが罰が悪そうにため息をついた。
自分が引っ張ってきた悪魔が殺されるのを見るのは辛かろう。
確かに、ミディアを引っ張ってきたのは浅慮だったかもしれない。
この前まで兄様の代わりに出席していたハード・ローダーと比較してはいけなかったのだ。
ミディアとハードではキャリアが違う。命令したとは言え、幻という保険をかけていたとはいえ――まぁ、幻だったから油断して殺されたのかもしれないが、ともかく出てきただけでよくやったと言うべきだろう。
頭の片隅でくすぶっていた炎をため息で消し去る。
それを誤魔化すように、リーゼに視線を向けた。
「先ほども言ったが、レイジィへの伝達はリーゼ、貴様に任せる」
「はっ、お任せください」
畏まるリーゼの姿はやはり、かつての自分と重なってどこか無性に寂寥が感じられた。
首を振って否定する。我が憤怒にそのような感情は無用だ。抱いた所で何が変わるわけでもない。
「しかし、カノン様……どちらにせよ怠惰のレイジィを狙う者はいないのでは?」
「ふむ……何故そう思う?」
「だって怠惰の王には――狙われる理由がないではないですか。領土が広かった頃ならともかく、今のレイジィ・スロータードールズには影寝殿しか残らず……軍すら持っていない。レイジィを狙った所で地位も名誉も手に入らない」
「……そうだ……な。確かに兄様を狙った所で何も手に入るまい」
だが、しかし――
自ら能動的に動かなければ、世界に刺激を与えなければ、引きこもっていれば外界からの刺激を遮断できるのか?
如何なる評価も受けずにただ静かに眠っていられるのか?
否。
力こそ正義。何もせずとも長き生を過ごし、精錬されたその莫大な力は誘蛾灯のように悪魔を引き寄せる。
当然、しがらみも増える。それは仕方のない事なのだろう。
兄様が降ろした氷の帳は常日頃たまった感情の発露に違いない。なんと悍ましく、そして悲しきことか。
堕落の王はその渇望故に、何一つ得ることを許されない。
私の言葉に水を得た魚のようにリーゼが続ける。
「ヴァニティの報告も……不確かなものです。天使の王に悪食のゼブル、いくらこの地が常に騒乱に満ちているとは言え、タイミングが合いすぎている。何よりあの男、信用できません」
卑慢のヴァニティの言葉は欺瞞に満ちている。
傲慢は大まかに分けて二種類のタイプがる。
ハード・ローダーのような自らの力を誇り傲慢と成す型。
ヴァニティ・サイドスローンのように自らの力を誇らず、狡知を以って傲慢を成す型。
あれは父様と同じタイプの傲慢だ。
「某かの意図はあるのだろうな」
娘の私だけが知っていた。
かの魔王が、前大魔王に最も危険視されていた王であるという事を。
なるほど、私の元に跪く数多の魔王達と比較してもかの王は酷く歪だ。何より、わかりやすい渇望が見えない。
だがしかし、同時に、私にはあの男が嘘を言っているとも思えなかった。上位の王ともなれば大抵の嘘はその場で見破れるものだ。
仮に虚偽を報告した所でヴァニティに何の利がある? 如何に第四位と言えど、我が憤怒に勝てるわけもなく、そして同時に、もしその報告が嘘だったならば、ハードまで敵に回す事になる。
「……だが、真偽はともかく、もし仮に悪食が敗北し、生き伸びていたとするのならば――向かう先は兄様の元だろう」
「……」
長く生きた魔王は勝利にこだわらず敗北に固執する。
特に、ゼブル・グラコスという悪魔は極めて高い攻撃力と凶暴性を併せ持つ魔王だ。いつから生きているのか知らないが、敗北経験は少なかろう。
冷たい玉座の上で足を組み変える。
右手に握った至宝の長杖からは燃えるような力が感じられる。私の心の底に沈められた憤怒を顕現するかのように。
今か今かと解き放たれる力を待つかのように。
「ふ……兄様が負けるとは思えないが……ハードが逃がすとも思えんな」
なにせ、ゼブルは一度兄様に負けている。
如何に悪食と言えど、極めて強力な力を持つ兄様とハードの二人を相手取ることは難しいだろう。
「……は、はい。ハード・ローダーは既にこの地を発っております。あの王ならば心配ないでしょう」
「せっかちな男だ……だが、いいだろう」
例え敗北がなかったとしても、その程度の些事で兄様の眠りを妨げるわけにはいかない。
それでは、何のために序列を取り上げ領土を取り上げ軍を取り上げたのかわかったものではない。それはハードもわかっているはずだ。
ハード・ローダーの力は我が軍の中でも間違いなくトップクラス。幼少の砌は苦手だったあの男も、こうして配下としてしまえばすこぶる有用だ。特に、竜を使っても容易く踏破できぬこの広き大地を縦横無尽に駆ける迅雷の如き速度こそがあの男の本質。やつから逃げ切る事はほぼ不可能だ。
考えれば考える程ため息が出てくる。これで私の命令を聞いてくれればどれだけ魔界統一が早まる事か。
「まったく、世はままならぬものだな」
だがそれもまたやむなし。
あの男ははるか昔から――そういう男なのだから。
長い年月を共に過ごした兄様達は私にとっての……鬼門だ。
油断すれば渇望すらも風化しかねない。
再び数千年前を想起しかけ、首を振って振り払った。
「まぁ、よい。本題は戦乙女の方だ。リーゼ、貴様にはハードに伝える任を与える」
「……ああ、話聞かずに発ちましたしね……」
あいつは一体どうやってセルジュを追いかけるつもりだったんだ……
魔界の統一はたった一人の戦乙女の存在により、遅れが出ている。全くもって、厄介な事だ。
魔王はそう簡単に代えの利く存在でもないというのに。
「だが、それも、もはや終わりだ」
相手は所詮は一体。その機動性故、掴みきれなかったが居場所さえわかってしまえば討滅は容易い。
ここは魔界。悪魔の支配する闇の瘴気蔓延る地。
神の編んだ奇跡、光の翼も闇の空では長く飛べぬ。
その事を愚かな天使共に教えてやらねばならん。
「そうだな?」
「はっ、御心のままに」
陶酔したような目つきで、背後に黙って立っていた男が即座に跪いた。
討滅された第七位、シェル・アフレイドの元に派遣されていた監察官の悪魔。
魔王は討滅されたが、こうして我が眼は生き長らえている。いや、これもまた監察官としての役割の一つだった。
嫉妬をつけていた魔王と争ったのが運のつき。
天使も含めた如何なる存在をも嫉妬して止まぬ陶然としたような目つきは虚空を追っているようで確かに戦乙女を捉えている。
嫉妬の悪魔は資質にもよるが諜報に強い。目に見えぬ嫉妬の魔の手で囚われる戦乙女など、蜘蛛糸にかけられた蝶のようなものだ。
リーゼが一種の異様に眉を顰めて恐る恐る我が眼に探りを入れる。
「――銀碧のセルジュはどこに……?」
「ああ、なんという娘だ――白金の髪に銀碧の眼、純白の翼、そして――その強さ、何もかもがただただ美しい。何故、彼女はそこまで鮮烈に生き急ぐというのか! くく、討滅されるのが惜しい――そして同時に、なんと素晴らしい日だ。このような美しい天使の死をこの眼で見れるとは!」
恍惚として全身でその愉悦を表現する姿に、リーゼは若干引きつった表情を作った。
この程度で嫌悪を顔に出すとは、リーゼは些か感情に左右されすぎるな。
まぁ、兄様の元にいると刺激に疎くなるのもわかる。どこか気持ち悪い魔王の元にでも派遣すべきか……
この程度で引いていては王は務まらぬ。
杖で小突き、正気を戻させる。
『我が眼』が、それでようやくリーゼに気づいたように瞼を瞬かせた。
「……報告せよ」
「はっ、かの戦乙女は現在――赤き大地の天を駈けております。赤獄の地より暗獄の地へ……風の如き速度で」
この周辺で黒の魔力を帯びた地は暗獄の地しか存在しない。
嫉妬の悪魔の使う『覗き眼』のスキルでは位置まではわからないが、概ねの場所さえわかれば後は単純だ。
王領の範囲に入れば居場所は察知できる。光の気は黒で塗りつぶされたキャンバスで酷く目立つ事だろう。
「しかし、また赤獄……か」
赤獄の地
ヴァニティ・サイドスローンの統治する灼熱の荒野だ。
赤獄の地は別に戦略的な重要地点でもなければ、悪魔の数が多い訳でもない。軍団の数も一般的だ。
悪魔を可能な限り討滅する事を目的とした天使が久方ぶりに襲撃をかける地としては相応しくない。
だが、ここしばらくは立て続けに問題が発生している。
天使の王出現の報。
ゼブル出現の報。
そして、今受けたセルジュの報。
「ふむ……」
つい先日に破炎殿に訪れ、天使に関する報告をあげてきた将軍級の悪魔の事を考える。
将軍級ではあるが、数多の戦場を巡った歴戦の戦士でもある悪魔の言葉を。
『異常』
その男はそういった。
褒賞を与えた強欲の悪魔はこの地において信頼のおける数少ないものの一つだ。
これは偶然か?
父様は――フェルス・クラウンという悪魔は、武よりもその洞察に優れていた。それは欺瞞をなすのに必要不可欠なものだったのだろう。
だからこそ、その警告には意味があるはずだ。
父様は周囲の何もかもをその業で埋め尽くしたが、私にだけは優しかった。
それが例え利を考えてのものだったとしても……
卑慢を信用すべきか否か。
ヴァニティは私の指示にこそ従っているが、忠実な悪魔というわけでもない。もとより、その資質は忠義に反している。
だが、神の尖兵――天使というのは如何に魔王であってもそう易易と操れる者ではない。ゼブルに至っては出会った瞬間に食われる可能性すら在る怪物である。
某かを企んでいたとしても、卑慢が手を出すにはリスクが高過ぎるはずだ。
ハード・ローダーは強い。
だが、悪食のゼブルと戦乙女を二人相手に、果たして勝利できるのか?
同時にやりあうことはまずないだろうが、力とは使えば使う程に減るものだ。それはどれだけ力の総量が多くとも変わらない。
ハードは兄様の元片腕だ。まずありえない話ではあるが、万が一討滅されたら兄様が悲しむかもしれない。その時は、魔界全土が凍りつく事すら覚悟せねばなるまい。
増援を出すべきか。
『常に最悪を想定せよ。現実はそれを上回るであろう』
父様の教えが脳裏に浮かぶ。
しかし、増援を出そうにも第二位と第三位の魔王はハード・ローダーに対して遺恨があり、むしろ背中から攻撃される可能性がある。
第五位はゼブルが抜けて埋まっておらず、第六位はその性質上、私の命令すら受け付けない可能性が高い。
大魔王たる私が直接出向くわけにもいくまい。
私の軍にはろくな人材がいなかった。
「? どうされましたか? 」
「ふむ……いや、後一手、手を打つべきか否か、とな」
「増援を遣わす、と? ハード・ローダー一人では足りないと?」
リーゼの疑問はもっともだ。
将軍級の頃からハードは突出した力を誇っていたが、魔王に至ってからのそれは極まっている。かの男ならば、もしかしたら素手で大地を割ることすら可能かもしれない。
我が軍の中では随一の使い手だろう。理屈で考えるならば不要だ。
これ以上の魔王の派遣にリターンはなく、まだ数が多い将軍以下の悪魔を複数派遣した所で魔王級同士の戦闘に巻き込まれてしまえば賑やかしにしかなるまい。
絶え間なく浮かぶ考えを吟味し、結論を出した。
……少々、慎重になりすぎ……か。
私には配下を遊ばせておく余裕はない。
リーゼがその時、ふと眉を顰めて呟いた。
「しかし……確かに、ハード一人では負けはしなくとも……抜かれる可能性はあるかもしれませんね。暗獄の地に入ってしまえば影寝殿もそう遠くはありませんし……」
影寝殿……兄様が?
……確かに、暗獄の地まで入ってしまえば、天使の翼なら影寝殿までそれほどかかるまい。
セルジュが暗獄を目指しているかといって、影寝殿を狙っているとは限らない、が――
私は決断した。
「リーゼ、飛竜を用意せよ。暗獄へ向かう」
「……は? ちょ……カノン様ご本人がですか?」
時間がない。
破炎殿と影寝殿、赤獄の地は一直線上に並ぶ。すぐに発たねば辿り着かれる可能性があった。
呆然とするリーゼを睨みつける。
「そうだ。急げ!」
「は、はっ! 承知致しました!」
杖を強く握り、立ち上がる。
遥か彼方、まだ魔界に闇しかなかった頃に闇の神から賜われたとされる大魔王に伝わる魔器が、私の渇望を糧に心臓のように脈打った。
焦燥感を伴った感情が、血管を駆け巡る。エンジンが発火したかのように体中に熱が灯る。
戦乙女……戦乙女、か。
この私の、そして兄様の前に立つとはあまりに無謀だ。
数体の魔王を討滅した程度で怠惰のレイジィを狙おうなどとは言語道断。
やれやれ、兄様も仕方のない方だ。
この私が兄様の安息を護ってやろうではないか。




