第三話:……逃げられない
ヒイロ、貴様は――度し難い
その言葉には、あからさまな殺意こそなかったがそれと同等以上の力で満ちていた。
それは確かに悪魔の王のもので、でもそれまで見ていた怠惰の王様のそれとは格が違う。
いや、格ではない……種類、とでもいおうか。
何の刺激もなくただ感じる巨大な力――怠惰の力に、
何もかもを制圧し重く伸し掛かる傲慢の力の差異。
くすくすくす、自分だって氷漬けにされてカノンさんに助けられた癖によくそんな偉そうな事を……
などとはとても口に出せるわけもなく、もし口に出していたら如何にハードさんを優越していようと、自身の死を認識するまもなく私の生は終わっていただろう。
冗談じゃない。私の生は、そんな事のためにあるわけではない。
でも、多分今私が生きているのは、ハードさんがレイジィ様に敗北したおかげだ。
だからこそ、ハードさんは自らの傲慢にかけて私を殺さない。
ただ如何なる武具も纏わず、その拳のみで世界を下す傲慢の王。
傲慢の根源は鍛え上げられた『自信』によるものの場合が多いが、ハードさんの場合はそれだけでは説明が付かない。
並外れた圧倒的なまでの自負。
ただこの魔界を見下ろすその視線は、ハードさんとは正反対の方向で傲慢を進める私にはわからない。
だから……私に当たるのはやめて欲しい。
「チッ……卑慢め。何を企んでいる……」
ハードさんが磨き上げられた抜身の剣のような鋭い視線で壁を睨みつける。
多分、本人にはあたっているつもりはないんだろうが、その威圧だけで私の身体が抑えつけられているかのように重くなる。それはなんとなく感じる空気の重さ、といったのものではなく、明確な圧迫、重力だ。
息が詰まる。背後に控える監察官達もうんざりした表情でハードさんを見て、そして当然の事のように何も言わない。
彼らの役割は魔王の監視である。時には助け、時には忠言もするが基本的には無干渉だ。特に、害が出ていない以上この程度の重圧では何も言わない。そこにある自制はさすがにプロフェッショナルだということだろう。
まぁ――例え、将軍級が十人集まり挑んだ所でハードさんには指一本触れられないだろうが。
他の魔王はこの地を発ったのか、ようやく解放された他の魔王達の威圧に、こっそりとため息をついた。
さすがに動けなくなる程ではないけど……私にはまだ少しだけ辛い。
悪食の王にして、元五位の大悪魔、暴食のゼブル・グラコスの生存。
それは、会合を引っ掻き回して余りある事実だった。
悪食のゼブルの名を知らぬ魔王はいない。
それは良い意味での噂ではなく、悪名だ。
魔王を殺した数ならば、恐らくこの大魔王軍の中でも三指に入るその女は、荒涼とした魔界すらも飲み干す程の渇望の権化だ。何よりも、悍ましいその悪魔はこともあろうに同族すらも喰らう。
それはきっと、ただ魔王を討滅するだけの戦乙女よりも遥かに厄介で、異常だ。
もしその存命が本当なら、だが。
――何しろ、彼女は怠惰の王に討滅されたはずの魔王なのだから。
「くすくすくす、しかし……本当に、何故今頃になって悪食の王が――」
違う。本質はそうではない。その事を私は知っている。そして、それを口に出してはいけないという事も。
問題は、レイジィ様がカノンさんの命令に背いて悪食の王を逃した事になる。
いや、事実はそうではないのだろう。レイジィ様はそんな面倒なことをしない。だが、周囲から見てどう見えるのか。
本来なら罰せられてしかるべき失態。
こういった場合に重要視されるのは、そこだ。
あえて口には出さなかったのに、ハードさんは私の言いたいことを察したのだろう。
私をギロリと強い視線で見据えると何でもないことのように答えた。
「ふん……怠惰のレイジィにとってゼブルはとどめを刺すまでもなかった。ただそれだけの事だ」
「そうですか……」
と、納得出来る者は他の魔王の中にはいないだろう。
だが、しかし、この世界は序列が、力が全て。
序列一位のハードさんが、そして全ての王の上に在るカノンさんが何も言わない以上、それ以上のつっこみは己が命をかけねば成し遂げられない事だ。
ヴァニティさんは一体何を考えて突然あの空気で悪食の存命を宣言したのか。
その意図がわからない。第四位。その地位は飾りではないのだろう。
だけど、私はたった一つ、その眼を見た瞬間に直感していた。
ヴァニティさんは――どこか、私と似た匂いがする。
同じ傲慢を司っていたとしてもハードさんとは水と油だ。
悪意が在るにしろないにしろ、ハードさんとヴァニティさんでは相容れない。
その時、リーゼさんが小走りでこちらに向かってきた。
自分が案内してきたミディアさんが消えたせいでフリーになったのだろう。
リーゼさんは概ね堅物で、たまに間が抜けているが勇猛ではあった。後、胸もそれなりにある。
萎縮する数多の監察官に一瞬だけ視線を向け、すぐに自身より遥かに強力で、機嫌も最悪なハードさんに向き直った。
「ハード・ローダー、どうするつもりですか?」
「ふん……愚問だ」
その言葉を起点とするように、その鍛えあげられた肉体から漠然と放たれていた魔力が、ハードさんに収束する。
ただそれだけで空気が歪むような錯覚さえ感じる。
莫大な魔力。
強大な身体能力。
途方も無い意志。
その三つ全てを手に入れたその在り方は魔の王のもので間違いない。
ハードさんに敗北はなく、撤退もまたない。
その何処までも高き傲慢は陰ることなくそこにある。
そして、ハードさんは案の定、まるでなんでもないことのようにたった一言、応えを述べた。
「……悪食を、討滅する」
その言葉に含まれた意味を、恐らくリーゼさんには理解できないだろう。
だが、同じ傲慢の私にはわかる。
例えその方向性が異なっていたとしても――
「どうしてまた、今更――」
「ふん……」
――それ即ち、傲慢故に。
ハードさんの行動原理はただその一点のみだ。
それが強さの理由。強さの意味。
渇望が許さない。例え、今は関係なかったとしても、レイジィ様の汚点はハードさんが濯がなくてはならない。
それは、とても面倒くさい生き方だ。だが、一つの答えでもある。
リーゼさんが一瞬躊躇い、進言する。
「……戦乙女はどうするつもりですか?」
「……まずは悪食だ。赤獄の地は近い……大した手間でもなかろう」
「手間でもないって……相手は元五位のあのゼブル・グラコスですよ?」
「だからどうした」
その生き方がぶれることはない。
多分ハードさんは死の直前まで自らの勝利を疑う事はないだろう。
くすくすくす、本当に融通の効かない方ですねえ……
「赤獄の地に向かう」
「え? ちょ……彼の地はヴァニティの支配地ですよ? 正気ですか?」
ハードさんはリーゼさんの声に、頷きすらしない。
それは断定。誰の命令を聞くこともなく、己の意志でのみ道を突き進む姿。
無駄だ。ハードさんはこうなると誰にも止められない。そういう意味では、レイジィ様の下で総司令官をやっていた頃はまだ大人しい。
まぁ、私には関係ない事だ。
強さなどいらない。修行などいらない。
ハードさんの求める至高はレイジィ様にとって何の意味もないものだ。
そして私にとっても。
ハードさんが死んだらまたレイジィ様の元にもどるだけの話。まだ私にはあそこでやるべきことがある。
てか、死ななくてもいいからさっさと解放して欲しいんですけど……
修行なんていらない。大地なんて割れない。無理。割れないし、割れる必要もないんだから。
「リーゼ、貴様は戦乙女の居所でも探っておくがいい。悪食を討滅し次第向かう」
「ちょ……まさか一人で行くつもりですか? せめて軍を――」
「不要だ。……ふん、ヴァニティめ。このつけは必ず払ってもらうぞ」
それは濡れ衣だ。ヴァニティさんはただ事実を報告しただけに過ぎない。
と言い切れないのは、彼の性質ゆえだろうか。
少なくとも、私の目にはヴァニティさんが『そういう』気質を持っているようには見えなかった。
無骨な銀の眼球がこちらを見つめる様を思い出すと、さすがの私も怖気を感じる。
彼の二つ名――卑慢とは、自らの劣等を意識し驕る。
ヴァニティ・サイドスローンは頂点を諦めた魔王らしい。その在り方は正道の傲慢から外れている。
あの極めて薄い視線から感じる感情の希薄さは間違いなくそれに準じたものだ。
気味が悪い。
死ぬのは勝手だし、ハードさんは頭はおかしいが馬鹿ではない。経験だって私の何十倍もあるだろうし、気づいているはずだ。
だけど、言葉に出して言わざるを得なかった。無駄だと解っていても。
「絶対、罠だと思うんですけどー」
「ふん……罠……か。ならば、正面から打ち破るまで」
やっぱり無駄か。
絶対に言うと思いました……
これだから脳筋は……
ハードさんは力の総量が高いからそれでも何とでもなるかもしれないけど、私の力はそれと比べたら大分低い。『優越』のスキルは強力だが、そこまで大きな差を覆す性能はない。
私は止める事を早々に諦めた。
さっきから、げんなりしたまま案山子のように突っ立っている無能な監察官の人達を見渡し、ハードさんに向き直って笑顔を作る。
ハードさんはレイジィ様とは別の意味で笑顔が効かない。けど、作らないよりはマシだ……きっと。
「ハードさんはここから真っ直ぐ赤獄の向かうつもりですかぁ? それなら、飛竜は私が返しておきますけど……」
赤獄の地は遠い。破炎殿から飛竜を使っても数時間はかかる。
そして、ハードさんの場合、信じられない事に飛竜を使うより走ったほうが遥かに早かった。
ならば、飛竜は邪魔なだけだ。かといって、飛竜も財産なので置いていくわけにもいかず、それをハードさんの居城である『閃鬼殿』まで返す人員が必要となるのは必定だった。
だが、ハードさんはそんな私の健気な提案に身も縮むような怒気を向けてくる。
「ふん……ヒイロ。そういう所が度し難いと言っているんだ、僕は」
「ひっ……い、いや……私は……」
ただ視線を向けられただけなのに、そこに確かな重さを感じ、思わず後退った。
違う、違うんです。
別に、付いて行きたくないなんて思っているわけじゃ――
いや、でもだってついていったらもしかしたら死ぬかもしれないし……
振り回されてばかりな監察官の方々が哀れみも視線を向けてくる。
余計なお世話だ。
脳裏に先ほど退場したミディアさんの無様な姿が鮮明に浮かんでくる。
ただし、その顔だけが変わっていた。
それは、ミディアさんのものではなく――
脳の奥底から鈍い熱が湧き出し、血流となって全身を廻る。
そして、ハードさんは再び、つい一年前、私を拉致する直前にいった台詞を出した。
「貴様の傲慢は――相応しくない」
簡潔なその言葉が、しかし意味を持って私の中に吸い込まれ消える。
リーゼさんが見るに見かねて極めて常識的な台詞を吐く。
彼女も彼女で案外だめな人だが、私の周りでは唯一の良心かもしれなかった。
「ハード、ヒイロは非戦闘員では……」
「非戦闘員か否か、が問題なのではない。ヒイロには傲慢がなさすぎる。こいつは、ローナとは……違う」
彼の見ているものがわからない。
しかし、傲慢の魔王が言うと随分と重みのある言葉だ。
もしかしたら、私がお姉ちゃんを優越できない理由もそこにあるのかもしれない。いや、あるに違いない。
私がハードさんに取り入ったのは偶然だ。
ただ、そこでシンパシーを感じられてしまったのが私の失敗。
ハードさんが私に感じ取っているものは恐らく幻だろうけど、とにかくハードさんの傲慢は私には苛烈過ぎる。
私には……いや、私達にはまだ在り方すらない。
大体、力なんて――求められてもいないのに。
だが、そんな言い訳、この男には無効。
いや、理由を、意志を告げた所で認めまい。ハードさんの定める忌々しい基準に満たない間は。
「リーゼ、飛竜はお前が片付けておけ。ヒイロ、貴様は――僕と来い。悪食を討滅する」
「……くすくすくす、仕方ないですね……付き合いますよ……ええ、付き合いますとも」
なんとか取り繕うべく全力を尽くしたけど、出てきた声には自分ではっきりわかるくらい疲れが滲んでいた。
大地を素手で割れない私にできる事があるのかわからないけど、ハードさんからは……逃げられない。
何かどんどん別の方向に向かっていくのを感じながらも、私はミディアさんのような退場の仕方だけはすまいと改めて強く、居るかどうかすら定かではない魔界の神に祈った。




