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堕落の王【Web版】  作者: 槻影
Chapter11. 緩怠(アケディア)

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第二話:正直困る

 暇だ。

 怠惰の悪魔は暇だ。その渇望に外からの刺激はいらない。

 刺激がないという事は、身体が、心が反応しない、できないという事だ。

 それはつまり、元来からの怠惰の悪魔ならばともかく、中途半端に他の渇望を持つ私にはなかなか耐え切れない事だった。


 ただ寝ているだけで極まる渇望を極めている者がいない理由。

 暇は怠惰の悪魔を殺すのだ。


 私の部下にも怠惰の悪魔がいた事を思い出す。彼は非常に弱い悪魔だったが、さもありなん。怠惰は動けば動く程に力が落ちる。軍に所属するということは、怠惰を司るものとしてはどうしようもない能力の低下を齎す。

 スキルこそ失ったりはしないが、それ以上に基礎性能が低すぎるという事は、軍属としては致命的な問題点だった。


 ついでに怠惰のスキルに攻撃スキルはない。


 各種耐性、VITの補正上昇の他には防御用のスキルとか食べなくても生きていけるようになるパッシブスキルとか身体が汚れにくくなるパッシブスキルとか排泄が必要なくなるパッシブスキルとか、とにかくパッシブなスキルしかない。パッシブ(受動的)な怠惰の悪魔にはぴったりだが、どう考えても死に構成だった。


 だから、抱く意味もなく極める意味もない。レイジィ様がそれを突き進んだのに理由が何なのか、その深慮を私は欠片もわからなかった。

 だが、少なくともかの王は怠惰の道をこの上ない迅速な歩みで進んでいるのは確かだろう。


 しかし……暇だ。

 こうしてただ布団の中に潜っていると余計な事を思い出してしまい、どこか憂鬱な気分になってくる。

 このままでいいのだろうか、とか。

 得も知れぬ、もやもやした雲のような何かが心の中を漂うのだ。


 こういう時に便利なのが嫉妬(インヴィディア)のスキルである。


 嫉妬(インヴィディア)


 魔界に住まう悪魔の中でも最も多い悪魔が抱く原罪の一つである。

 他者を羨む心は悪魔にとっても人にとっても一度は抱いたことのある感情に違いない。


 幸運も悲劇も才能も力も財も名誉も。


 この荒涼した魔界を持ってしても、嫉妬の対象には事欠かない。

 それは傲慢とは正反対の罪であり、事、引き出しの広さについては他の追随を許さない。


 まぁ、色々言ってみたけれど、簡単に言うと……暇つぶしには最適だという事だ。

 私はたった一人の自室で仰向けに寝転がりながら、スキルを行使した。


覗き眼エンヴァー・ヴィジョン


 視界が一瞬で泡立ち、切り替わる。

 嫉妬した相手を観察するスキル。時と場合によって多大な威力を発揮するこの類のスキルは、悪魔にとっても忌避される類のものだ。対象はあくまで嫉妬したものに対してであり、自由に対象を選択できない所が大きな欠点だが、今の私にとっては対象はなんでもいいので特に問題ない。


 まずは、曾て同じくレイジィ軍を率いる将軍だった、強欲(アワリティア)の悪魔、簒奪のデジ・ブラインダークを覗く。

 デジが出て行ってから大分たったが、久しぶりという気はしない。一方的だがちょくちょく姿を見ているからだ。

 

 デジはここから出て行ってからは軍につくこともなく各地をふらふらしているらしい。

 将軍級の悪魔は少ない。だから、どこの軍に所属してもそれなりの待遇を持って迎えられただろう。それなのに公に役割を得ることなく渇望の成就を求めて各地を出歩くその在り方は、少しだけ羨ましい。


 どうやら、新しい道連れも手に入れたようだ。私と同じくらいの若さの悪魔だ。灰色の髪と眼を持つ悪魔。

 細身の身体はデジと比べると木っ端みたいなものだが、その身から感じる力は決して弱いものじゃない。


「……いいなあ」


 それと比べて私はどうだろう。

 外に実際に出たのは何ヶ月前だろうか。もうほとんど覚えていない。

 怠惰を得てからずっとベッドの上に転がって唯、意味もなくだらだらと過ごしているだけだ。

 成長がないかっていうとそれで成長しているからなんとも言えないんだけど、それでも成長は悪魔としての力だけで、それ以外は何も変わっていない。


 その事を深く考えると鬱になってしまいそうで、私は思考を切り替えた。

 デジとゼータと言うらしいデジの道連れの会話に聞き耳を立てる。


「……天使」


 私は実際に会ったことはそうないが、噂だけは聞いていた。その名は、天界に棲まう悪魔の天敵であり、同時に悪魔と正反対の存在である。

 特に一万年くらい前に発生した大きな天界との戦争は双方に大きな被害をもたらしたらしく、古き悪魔は当時の事をあまり語りたがらない。


 ここ最近、魔界に送られる天界からの刺客が増えているという話は世間話としてだが、聞いている。


 どうやらデジはそれを追っているらしい。理由は知らないし、聞いてみても理解できないが、デジの欲は私よりも強いので、多分それ故、なのだろう。


 デジの言葉が本当ならば、魔界で起こっている何かはこの地にまで及んでくるだろうか?


 ……多分、ないな。


 ちょっと考えてすぐに自問自答した。

 レイジィ様は強い。全く動かないが圧倒的に強い。

 その何かがレイジィ様の首を狙ったとしても、諦める事になるだろう。その行為の意味のなさとその力のどうしようもなさに。


 姿勢を変えて、うつ伏せで枕に顔を埋める。

 何だかんだローナは私の部屋の掃除もやってくれるのでだらけるのに支障はない。


 私は身動ぎ一つせずに、次の相手に視界を切り替えた。


 切り替わった視界に入ってきたのは、涙の滲んだ眼で歯を食いしばってこちらを見ている一人の少女の姿だった。

 口元は笑みを使おうとしているが、見てはっきりわかるくらいに引きつっている。


 ローナをそのまま僅かに幼くして、胸を大分小さくしたようなその容姿は、容姿端麗という言葉がしっくりくる。

 いつも浮かべている意地の悪そうな笑顔を抜くと本当にローナとそっくりなその少女の名をヒイロといった。


 ローナの妹、ローナがいなくなった後にレイジィ様の世話役を継ぐはずだった悪魔である。


 だが、私の嫉妬の対象は彼女じゃない。


 嫉妬の対象はヒイロの側にただ悠然と立っていた。

 レイジィ様と同じ闇のような黒の髪に黒の眼を持つ悪魔。

 だが、その雰囲気は、怠惰の王とは正反対。

 ただそこに居るだけで万物を平伏させるオーラを無言で放つその悪魔は、そのまま傲慢(スペルヴィア)を司る魔王でもある。


 同時に、かつては私の上司だった男で、魔王に至ってからは上位者を尽く容易く打ち崩し、序列第一位の座を得た魔王でもあった。


 傲慢独尊のハード・ローダー

 今や、知らぬ者のいない傲慢の魔王は,睥睨するような強い目つきでヒイロに視線を貼り付けたまま、腕を水平にあげた。


 そのまま明後日の方向にその腕を軽く振り下ろす。


 ――それだけで、地面が割れた。


 ただのスキルも使わない一撃で巨大な裂け目が現れる。大地が振るえむせび泣くように揺れ、黒の砂礫が巻き上がる。

 だが、それはただのハードの一言で全て地面に伏した。


 ハードが己が起こした天変地異を顎で差す。その間も一切その視線はヒイロを貫いていた。

 ヒイロがげんなりした表情で自らを指さし、首をあざとく可愛らしく傾げる。


 ハードは一切合切その媚を無視し、ただ一言命令した。


『やれ』


「ぷっ……いやいやいや、無理でしょ」


 思わず吹き出した。

 ハード・ローダーは一体ヒイロを何だと思ってるんだ。

 彼女は、軍属でもないただの一般人だ。一般人にしては力は強いが、ただそれだけな傲慢の悪魔である。

 才能がないとはいえない。垣間見えるその屑みたいな本性は悪魔としては非常にマッチしているし、時間さえあれば強くなれる可能性もあるだろう。


 だけど、それはきっと今じゃない。


 てかスキルも使わず大地を割るとか貴方何なの……?

 きっと大抵の魔王クラスにもそんな事できないだろう。

 それはずっと自分を鍛え続けてきた傲慢の悪魔のみが到れる極地だ。


 ヒイロがハードに連れて行かれたという話はローナから聞いていた。

 同じ傲慢の悪魔として思う所があったのか、どうやら順調に性根を叩き直されているようだ。


 いや、まあ性根っていうか……うん。ご愁傷様という他ない。

 てか無理だろ。

 そもそも、ハードの腕とヒイロの腕じゃ太さが全然違う。確かに悪魔の力と見た目はそれほど比例していないが、それにしたって限度がある。ヒイロはローナと同じくらい華奢だ。その力はきっと戦うために磨かれたものではない。


『い、いや……無理、そんなの無理ですよ……』


『やれ』


『いや、だって力が違――』


『やれ』


『…………』


 翻って、ハードは全くヒイロの言葉を聞くつもりはないようだ。まぁ、傲慢なんて大抵そんなもんだけど……

 ヒイロがハードの視線に屈し、諦めたように眼に涙を滲ませたまま、腕をゆっくり持ち上げた。


 私はそこでいたたまれなくなり、視線を戻した。

 ベッドの上。ヒイロが立っていた荒野とは正反対な安息の世界で寝転がったまま、大きく背筋を伸ばす。

 見た光景を思い返し、緻密に計算し、私は誰もいないのに首を横に振った。


「いやいや……無理……」


 本当にハードは何を考えているんだろう……さすがにあれは――ない。私でも絶対に無理だ。

 穏やかな笑顔でヒイロはハードに修行のため連れて行かれたと言っていたローナの事を思い出す。ローナは妹が嫌いなのだろうか……いや、きっと違うのだろう。彼女は何だかんだ、レイジィ様がかかわらなければ常識人だ。


 でも、それにしたってあれは……嫌がらせだ。鍛えられる前に折れる。

 というか、家事スキルはいいのだろうか……ヒイロはローナの後釜だと思ってたんだけど……

 趣旨が完全に変わっているけど……


 なんだか疲れた…‥

 ため息をついて、だけど続いて次のターゲットに対してスキルを使用した。


 視界が三度切り替わる。次のターゲットはその優しい姉の方だ。


 見覚えのある廊下を歩くメイドの姿が目に浮かんできた。

 誰も見ていないのに礼儀正しい仕草で姿勢を乱すことなく歩みを進めるその姿は、歩いているだけなのに非常に絵になった。清潔な白いエプロンに紺色のワンピースは機能美という以上に、彼女の愛らしさを際立たせている。


 その姿は清楚可憐でとてもじゃないが、色欲(ルクセリア)の担い手のようには見えない。


 だが私は知っている。その、私何も知りませんよと言わんばかりの表情の内にどれだけのどろどろした欲望を抱いているのかを。その研鑽された欲情は何一つその身を汚さず悪魔としての格を上げる域まできている。


 私は、正直彼女が一番怖かった。

 かつて色欲の魔王、リリス・ルクセリアハートとの邂逅を果たし、その一部を嫉妬した私にはわかっている。

 色欲(ルクセリア)の罪科は傲慢や暴食のように直接的な攻撃力は持っていないが、決して弱くない。その在り方はある意味、怠惰に近い。


 ただし、怠惰(アケディア)が植物なら、色欲(ルクセリア)は悪魔を喰らう植物である。彼女たちにとって戦場とは血香る荒野ではなく寝所であり、戦闘とは拳を交える事ではなく、咲き誇る事だ。

 そこには、じわじわと気づかぬ内に溶かされるような恐怖がある。現に、魔王のルクセリアハートは何人もの魔王を討滅した強力な魔王だった。


 それは、ある意味戦士が最も恐れる力だ。


 私は視線を戻すと、布団の中で心の底からくる恐怖にぶるぶる身を震わせながら呟いた


「……ローナ……恐ろしい女……」


「……どういう意味……?」


「……ッ!?」


 被っていた布団が引き離される。そこにはたった今覗き見て、妄想していたローナの姿があった。

 考え込んでいて、見ていなかったのが仇になった。


 その顔に浮かんだ戸惑いの表情――仮面の奥底に、私は舌なめずりしている蛇のような表情を幻視して、短い悲鳴をあげた。


「失礼な……」


「っくぅ……は、はぁはぁ――」


 一瞬息がつまりかけたが、なんとか整える。布団の上で窒息死なんて冗談じゃない。

 何だかんだ……ローナは私の食事の世話や掃除をしてくれている。だから私としては是非もない。

 怠惰の悪魔に拒否する権利なんてないのだ。だって何もしていないのだから。


「さ、ミディア。食事の時間よ……」


「は……はい……」


 空腹はまだ来ていなかった。スキルで軽減されているからだ。もし渇望を突き進めばもしかしたら食事が不要にすらなるかもしれない。多分面倒くさいという理由で。


 だけど、私はまだその域まで到底進んでいないし、多分突き詰めた後も食事くらいは取るだろう。それまでの習慣を打ち崩すのは難しい。

 まだどきどきしている胸を抑えつけ、怠い身体を何とか起こして用意された食卓につく。

 私がここに連れてこられる前はろくな食事をとれていなかったから、ローナの味が私にとっての家庭の味だ。

 空腹でなくとも、その味が美味しくないわけがない


 ローナは黙ったまま傍らに立っていた。

 何も言わずに無言で料理を口に運ぶ私を見ている。こう、じっと見られていると、味が全くわからない。

 食べ終わって、食器を置いたタイミングを見計らったようにローナが口を開いた。


「……ねぇ、ミディア」


「何?」


 そこで一瞬、ローナの表情に逡巡が垣間見えた。だがすぐにそれは消え、決意したように私に強い視線を投げかけた。


「そろそろ働いた方がいいと思うの……」


「……そ、そう」


 あまりに悲哀の篭った視線に心がずきずき痛む。

 何この精神攻撃……スキルで防げない……


 その声もまた慈しむようなものだ。そこに憤怒や傲慢のような感情は篭っていない。

 だから、それが剣のように私の心を串刺しにする。


「ミディア、貴方がいくら寝てもレイジィ様にはなれないわ……貴方には貴方の生き方があるはずよ」


「……そ、そう……」


 い……いたたまれない。こう、真面目に諭されるととてつもなく居たたまれない。それが命の恩人なら尚更だ。

 そして、その言葉はまた本質をついていない。別に私レイジィ様になりたいとか思っていないし……むしろあまりなりたくないと思う。


 私がなりたいのはレイジィ様じゃなくてレイジィ様が使ってる――


 そこまで考えて、私はもう一度自分の渇望について考えなおしてげんなりとした。

 ……ないわぁ。私の嫉妬の渇望はどこかネジが飛んでるんじゃないんだろうか。


 おまけに、それのせいで怠惰まで抱える事になって八方ふさがりみたいになっている。

 複数渇望を抱えるとその分、個々のスキルが育ちにくくなる。噂だが、半分以下になるらしい。そのせいで複数の渇望を抱く悪魔は強くなりにくい傾向にある。

 おまけに、怠惰と嫉妬を組み合わせてどう戦えばいいと……

 というか、そもそもの話――


「……ここ、軍とかもういらないんだけど……」


 そうだ。もうレイジィ様の陣営は戦う必要がない。敵もいないし軍もいない。強いて言うのならばたった一人の軍が私だ。

 こんな所で働けとか言われても正直困る。


 そうだ。私だって働きたくないわけじゃない。働く場所がないのだ。


「大丈夫」


 そんな私に、ローナは聖母のような笑みを浮かべて悪魔のようなことを言った。


「ハードの軍に組み込んでもらえるよう話してみるから」


「寝る。おやすみ」


「ちょ……」


 私は、喚くローナを無視してそのままベッドに入り込んだ。

 一番頭がおかしいのはもしかしたらローナなのかもしれない。完全にレイジィ様の事しか考えてない。


 脳裏に浮かぶのは、さっき覗いたさんざん無茶ぶりされるヒイロの姿だった。

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