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堕落の王【Web版】  作者: 槻影
Chapter9.簒奪(アワリティア)

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第一話:きなくせえ

それは唯の根も葉もない噂だ。

この広い魔界にたった一人、原罪に存在しない『氷雪』を司る魔王が存在するらしい。

その王の前には何者をも立つこと適わず、膝をつく悪魔どもを歯牙にもかけず、ただ悠久の時を無為に過ごすことのみを

至上とするその魔王を、かつてその魔王と出会ったと嘯く悪魔たちはこう呼んだ。


――堕落の王、と。


 こわごわとした表情で実しやかに語る若年の悪魔を見て、俺は鼻で笑った。


「きっきっき、くだらねえ話だなぁ……」


 血のような朱に染まった(ゴブレット)

 その中に注がれた粘性質の液体を一息に呷る。高い状態異常耐性を持つ悪魔を酩酊させる魔性の酒だ。

 まるで液体は炎のような熱を伴って喉をゆっくりと滑り落ちた。

 熱は力となって全身、六本の腕を含めた全身に隅々まで広がる。


「しかし、デジさん。こりゃ本当の話ですよ。暗獄の地が氷に閉ざされた話は知ってるでしょう? 現に、この間、大魔王軍で序列一位になった傲慢(スペルヴィア)の魔王はそれを抑えるために一位となったとか……」


「そうかい……きっきっき、司令官も本当にえらくなったもんだ……」


 もちろん、とっととトンズラこいた俺は何があったのか見たわけじゃねえ。

 だが、今の状況から大体の事は想定できる。計算できる。


 俺の強欲(アワリティア)が疼く。


 それを抑えるかのように、再度差し出された杯を煽った。

 仮にも上位の悪魔である俺は泥酔するまでは酩酊しないし、意志さえあれば酔いを一瞬で消し飛ばす事さえできる。

 磨き上げられた酒瓶に写った俺の眼はぎらぎらと欲望に輝いていた。


 きっきっき、強欲ってのはこれだからいけねえ。


 きなくせえ。きなくせえ。魂を揺さぶるような嫌な予感がぷんぷんするぜ。

 約一万年前に勃発した黒白の戦争の直前と同じ空気だ。流れがきている。状況の変化がすぐそこまで。


 それは、きっと言葉では言い表せられない長い年月を生きてきた悪魔特有の勘だ。


 宝の匂いが、戦火の匂いがした。

 死の匂いでもあり、栄光の匂いでもある。


 隣の席に座る同じ強欲を司る『後輩』に忠告した。


「きっきっき、まぁ落ち着けよ、ゼータ・アドラー。敵を見誤っちゃあいけねえぜ」


「敵を……見誤る?」


「ああ」


 基本的に悪魔っていう種族は自分勝手だ。

 故に周囲は敵だらけ。友軍といえども油断はできねえ。だが、だからこそ敵味方の見極めは一際重要だといえる。これが上手くないとどれだけ才能のある悪魔でもあっという間に殺されちまう。


 昨日の敵は今日の友。昨日の友は今日の敵ってなあ。切り替えってのは大事だぜえ。これができないのに長く生きてる奴はよほど才能があるか、あるいは運がいいかだろう。


「きっきっき、そうさ。ゼータ、その堕落の王は俺らと何の関係がある? そいつは俺たちの――敵か?」


「……いや、でも――」


 悪魔の根幹には闘争本能が眠ってる。強い本能だ。もしかしたら抱える原罪の次に強え感情かも知れねえ。

 それがしばしば判断を鈍らせる。


 魔界の支配種族である悪魔の数は多くない。


 ちっとやそっとじゃ悪魔は死なねえが、それでも数が減る第一の理由は多分それだ。

 だから俺は、後輩ができたらまずそれを教えてやることにしてる。まぁ、自分の命をどう使おうがそれは自分の勝手だがねえ。 


「ならば怯える必要なんてねえだろうよ。堕落の王は――敵じゃねえ。仮に敵対した所で俺の強欲(アワリティア)は満たされねえ。違うかい?」


「違わない……です」


 ゼータが不満気な表情で頷いた。

 まだ理解しなくてもいい。長く生きてりゃどうせいずれ理解することになる。

 ただ、それまでの間に判断を求められた時に俺の言葉が僅かでも届いてくれていたらそれでいい。


 それにしても――


「堕落の王……ねぇ。レイジィの旦那、何を考えているんだ……きっきっき、おっかねえなあ」


 堕落のレイジィ

 俺がまだ将軍級は愚か、騎士級の実力にすら至ってなかった頃から存在する長寿の王だ。


 その存在原理はたった一つ、『無為』の一言に集約される。

 いつ如何なる時でも動かない不動の魔王。何も成さぬ王。それ故に、序列の高い魔王だったにも関わらず知るものは少なく、姿を見たことのあるものも極限られるだろう。


 だからこそ、俺は恐ろしい。

 経験上、ああいうの程、うちに何か秘めているもんだ。

 仮にも魔王。何もないと考える方がおかしい。


 レイジィの旦那の地が凍りついたという話はゼータに聞かされるまでもなく既知なことだ。

 今や魔界中に一種の都市伝説じみた畏敬とともに広まっている。

 もう一年近く前の話だったが、酒場の片隅で今も禁忌のように声を顰めて語られる内容は魔王という強力な存在を識る悪魔(俺たち)が聞いても、荒唐無稽な話だといえた。


 だからこそ、たった一年で誰もが知らぬふりをしている。

 他に明確な脅威が現れたというのも一つの理由だろうが、それだけじゃねえ。

 恐ろしいのだ。未知の力が。知るものも知らぬものも、その名を口にするもんはいねえ。


 識らぬ者は語れず、

 予想できる程の狡知に長けたものは口を噤む。もちろん俺も口には出さないぜえ。


 悪魔のスキルは怠惰を除いてそのほとんどが研究しつくされている。氷雪系の目が在るとするのならばそれはほとんど研究が進んでいない怠惰(アケディア)の可能性が高く、発生した地から見てそれをなした者がレイジィの旦那であることは想像するに難くない。


 無為の魔王が放った大規模範囲スキル……どういった感情の変化があったのか、事情すら知りたくないねぇ。


 大方、ハード司令官が虎の尾を踏んだんだと思っているが……おっと、今は序列一位のハード魔王だったか。


 まぁ、尤も今一番考えなければならない事はくだらねえ都市伝説なんかじゃねえ、別のもっと目の前に差し迫った明確な敵の事だろうが。


 ゼータは年の割には見どころがある。俺とは違う、人の姿に酷似した容貌。灰色の髪と同色の瞳を持つ少年悪魔。

 将軍級まではいかずとも、生まれて数千年で騎士級の上位に至ったその才覚はなかなか有望だ。


 強欲(アワリティア)の相棒は強欲か嫉妬と相場が決まっている。

 同じ欲でも俺とゼータでは対象が違う。互いに組むメリットがある。もしかしたら嫉妬(インヴィディア)よりも相性がいいかもしれねえ。


「まぁ、そんな事よりも今考えるべき事は別だろ?」


「ええ……そうですね。デジさん」


 ゼータが周囲の視線を気にするように視線を向ける。

 場末のバー。音楽もなく、他の悪魔もほとんどいない。そもそも、酒を飲む悪魔はほとんどいない。

 居るのは俺たちに酒を提供する変わった悪魔(バーテンダー)と、テーブルの上で突っ伏して寝ている哀れな下級悪魔くれえだ。どちらの力も俺と比較すると遥かに低い。


 ゼータが慄くように壮絶な笑みを浮かべた。


「また『天使』が出ました」


「……今回で何回目だい?」


「今月に入ってもう三回目ですね。数は五体。赤獄の地に出現との報が出ています」


 『天使』


 悪魔の天敵にして仇敵。

 魔界を攻め入る白き神の尖兵の名だ。


 悪魔に対抗するために生み出されたとさえされる力は、種族的な相関関係もあって悪魔を殺すことに特化している。

 その力たるや、悪魔に膨大な力を与える魔界の大地、瘴気の中でさえ五分五分以下の戦闘を強いられる程だ。さすがに俺なら低級天使にやられるほど落ちぶれちゃあいねえが、それでも厄介な事には変わりない。


 俺の配下は俺程に強くないからなあ。並の天使に浄化されちまう。


 赤獄の地は大魔王配下の魔王が治める地だ。それは天使側も周知の上だろう。


「被害は?」


「騎士級以下の悪魔が百人近く殺られたとか……」


「百人……か」


 トップは出てきてねえなあ。


 まぁ、五体の時点で出てきてない事は予想できる。上が出張る時は全面戦争の時だろう。

 一万年前もそうだった。初めは下級天使、徐々に中級、上級と送り込まれ最終的には数千体の数が王に率いられ攻めこんできた。


 今代の大魔王様はそれを知らねえ。いや、知っちゃあ居るだろうが体験していない。

 天使側の事情はさすがに知らねえが、似たようなものだろう。一万年という時は軽い物ではない。


 戦争は強欲にとって一つの転機だ。きっきっき、宝箱をひっくり返すようなもんだからなあ。

 下級悪魔も中級悪魔も上級悪魔も魔王ですら流れるように死んでいく。

 それだけの財がばら撒かれる。敵は天使だけじゃねえ。渇望故に同じ強欲の悪魔はそれ以上に敵となり得る。


 俺の求める物――リソースは有限だ。俺が手に入れりゃ他の奴らに手に入らねえ。他の強欲が手に入れりゃあ俺の手には入らねえ。


 奪い合おうじゃねえか。天使の、悪魔の宝を。


 そのために必要な力が今の俺にはある。

 リベルはもういねえが、代わりにゼータがいる。経験としては当時のリベルと同じくらいだが、是非もない。


 まず必要なのは敵を見極める事だ。

 天使の数、力、目的を識ること。奴らの行動は神の意志によって目的付けられている。それを知ってるのと知らねえのとじゃ勝率が違う。


「その五体の天使はどうなった……?」


「逃げられたらしいです。魔王の軍が姿をとらえた瞬間に逃げられたのだとか」


「神の尖兵が引くたあ珍しいな……。奴ら教義のためなら死すら厭わねえはずだが……」


 天使は魂でできた長久の命だ。奴らの死生観は俺たちとほとんど変わらねえが、一つの法則、教義に従い動くだけあってその力は悪魔のそれと比べて酷く縛られている。


 一人でも多くの悪魔を殺すために。


 だが、今回のパターンはそれとは明らかに異なっている。やっかいだねえ。前だけを向いていればいいものの。

 何を考えている……?

 奴らに悪魔討伐よりも高い目標が現れたのか……?


 ……まぁいい。どちらにせよ、結論は決まっている。

 俺は強欲(アワリティア)の悪魔、なればこそすべきことは唯一つ。


 それは多分、言うまでもないことだった。

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