第二話:まだこの世界に満足していない
「とても……憂鬱だ」
細かい音をたて、空気が温度を失い瞬時に凍りつく。
寒い。ただひたすらに寒い。身体の底、心の底から熱が奪われていくかのように。
だが、同時に怠惰の耐性はこの程度の氷結に突破できるレベルではない。
それは銀麗の世界だった。
何もかもが白く凝固し凍りつき、塵一つなくなった空気は高山の頂上のように澄み切っている。
目の前で、男が完全に凍りついていた。
黒髪の長身の男。服の上からでもはっきりわかる鍛えあげられた肉体に魔力。はっきりと見開いたまま停止しているその瞳に映るのは諦観と憂慮、そして同時に強い歓喜。口元には歪んだ笑みが張り付いている。
安楽椅子から脚を伸ばし、そっと立ち上がる。足元から突き上げてくる未だかつて感じたことのない突き刺さるような冷たさを、歯を食いしめて我慢した。
怠惰の力が低下する。怠惰は立つことすら許さない。
立たないのではない。立てない。動けない。それこそが怠惰の真相。
だが、力などどうでもいい俺に取ってそんな理屈もまたどうでもいい話だ。
力の源泉が憂鬱に傾いたせいか、心がただただ重かった。
男に張り付いた表情にそっと手で触れる。
見知った顔だ。随分と昔から俺の下に付いていた男だ。名前は覚えていないが、その姿形は俺の頭の中にはっきりと刻み込まれている。
「……満足はしたか……」
「…………」
ありとあらゆる努力を苦にしない悪魔。
それでいて、何も得られなかった哀れな男だ。
ものも言わず時を止める男をただ思う。
「……俺はまだこの世界に満足していない」
ぴしぴしと指を伝わり、右胸に内蔵する、憂鬱を得た際に発生した二つ目の魂核から流れた力が広がる。
ただ、そのままの姿で固まっていた男の周囲に水が渦巻き、氷と化す。
氷の棺を生み出す『憂鬱』のスキル。
『氷の咎』
完全に氷柱と化した男の隣を通り過ぎる。
俺は生まれ落ちてからおよそ百年、未だかつてまともに戦ったことも鍛錬した事もない。
それなのに、何故この弱肉強食とされる魔界で僅か一敗もしないのか。
俺は寝るのが好きだ。
何の意味もなくベッドの上に寝転がり、ただ無為に時を過ごすのが好きだ。
行動の一つも起こさなくとも食事ができるのは素晴らしいし、掃除が勝手に行われるのも割りと気に入っている。
まだ日本で生きていた頃には手に入らなかったものだ。
それでも、俺は割りと努力というものが好きだった。好きというより、信じていた。
いや、俺はしないけど?
それでも、信じることくらいは自由だろう。
「下らない世界だなあ……魔界は……」
いや、魔界と言うよりは、この世界が下らない。
この世界は酷く残酷だ。
地球もそれはそれでなかなか残酷だったが、力がまかり通っているだけこの魔界はより惨たらしい。
俺は、ただ気に入らなかった。
いや、許せなかった。
魔王を討伐するために険しい鍛錬を繰り返し牙を研ぎ澄ましたセルジュが、何もしていなかった俺に敗北するのが。
砕かれた怠惰の魂核がゆっくりと治癒していく。それに比例するように、頭が重くなっていく。
憂鬱だ。ただただ憂鬱だ。
鬱屈した心の奥底に積もる冷たい闇。
眠りの間にもたまに感じたそれは、恐らく俺が憂鬱を得てしまった理由なんだろう。昔から会社行く前とか学校行く前とかに憂鬱になっていたので、もしかしたらそっちの方が原因かもしれないけど、そんな事確かめる術はないのでどうでもいい。
視界が昏い。
開かれたまま凍りついた扉を潜る。
僅かに霜の降りていた床が一瞬で完全に氷結し、ぴしぴしと音を立てて通路を疾走していく。
領地全土に広がった知覚は酷く煩わしく、いつまでたっても慣れる事がない。
感情の濁流に、立ちくらみで壁に腕を突く。触れた箇所を中心に白の力が広がる。音一つ立てず、何もかもが常世の氷に覆い尽くされていく。
かつて、この世界に転生したばかりの頃、スキルについて教えてくれた奴がいた。
正直に言わせていただくと、意味がわからなかった。
悪魔の持つ力には、スキルそれ自体をコピーしたり奪ったり、無効化させたり食らったり消滅させたり、訳の分からない力があるらしい。それこそ一撃受けただけで全てが終わってしまうような訳の分からない力が。インフレしすぎだと思う。
ありえないと思った。
ナンセンスだった。俺はまだ死にたくない。
誰だって死にたくはないはずだ。なんたって、死後の世界が今よりも楽とは限らない。
その気持ちは前世でも少なくとも死ぬ直前まではそうだったし、悪魔として生を受け長い年月存在した今も変わらない。
だから、負けなかった。だから、まだ生きている。意味の分からない力の全てをただ無為のままに下して。
時の流れから乖離し引きこもり身を護る怠惰のカードと、自他無差別に停止した昏き世界に引きずり込む憂鬱のカード。
その二枚の切り札に望む事はたった一つだけ。
――ただ、俺を孤独に眠らせてくれ。ただ、静寂に。ただ、怠惰に。
「な……レイジィ……様? これ……は……」
「ああ……」
角から現れたのは、憤怒の悪魔だった。リーゼ・ブラッドクロス
恐らく、俺と最も対極にある存在でもある。烈火の如く光り輝く炎をまき散らす属性。
ジメジメして暗い所に好んで潜む俺とは相容れない存在。
「何故……レイジィ様が……歩いて……」
「俺だって歩く事くらい……ある」
こんなんでも、だいたい午後からだったが毎日電車に揺らされて会社に通っていたのだ。
立てないと思うほうが……おかしい。そもそも、悪魔の身体能力は人のそれを大きく上回っているのは周知の事実で、人間だった頃の俺に歩けたのに今の俺が歩けないわけがないだろう。
全身に纏う炎の鎧。
不可思議な憤怒の力でこの極寒の中、なんとか保っているのだろう。
視線を左下にずらす。影に隠れるようにしてこちらを伺う金髪碧眼の悪魔。
一歩一歩、静かに足を前に進める。
三十センチ程の至近距離。リーゼが忘我の表情で俺を見上げていた。
「ちょ……リーゼさん! あぶな――」
「え……?」
少女に突き飛ばされ、俺の手が空を切る。
だが、代わりに俺の手は金髪碧眼の悪魔の髪に触れていた。
「なんで……動いて……詐欺ですね……くすく――」
一瞬で少女の姿がそのまま時を止めた。
今にも泣きそうな瞳と、無理やり笑おうとしたかのような歪んだ唇。
「……そうか」
そりゃ俺だって気分次第では……少し散歩に出ようと考える事くらいある。
それに詐欺? 何故詐欺だ?
怠惰の悪魔が動いてはいけないなどと、誰が決めた?
リーゼが慌てて凍りついた悪魔に駆け寄る。
「ヒイロ!? レイジィ様……な、何故……仲間を――」
何故? どうして? そんなの簡単だ。
「ゆっくり眠りたいからな」
「は!? え? 眠り……たい?」
「……後、これ……割りと制御効かないんだ」
「え? なんて迷惑な――」
俺の差し出した手にリーゼの肩が引っかかる。
リーゼの炎が一瞬で沈み、そのまま停止する。
憤怒を司るとは思えない間抜けな表情のまま、もう動く事はない。
それが、自分のしでかしたことなのに無性に悲しく虚しい。そして、同時に憂鬱のスキルが成長するのを感じる。
この世界のなんと儚い事か。
この世界のなんと脆い事か。
それこそが、どんな時にでも俺の中にある憂鬱のツリーが少しずつ成長していた理由なのだろう。
醜い感情だ。ただ自堕落のままに生きてきた俺には、世を儚む権利などないというのに。
どこか、静かな所で一人になりたい。
この砦の中でもう動く悪魔はいない。だが、その氷柱となった存在すら煩わしい。
そうだな……塔に登ることにしよう。
この砦で最も高き場所に。
かつて一度、誰かに背負われて登ったことがあったはずだ。多分十年くらい前かな。
その前後はもう何も覚えていないが、ただ塔のてっぺんで望んだ風景だけは覚えている。
遮るもののないどこまでも広がる砦に遠き地に引かれた一本の真っ赤な水平線。
きっと今見てもさぞ、感傷的な気分になるだろう。




