第一話:一人の勇者と出会った
最終章です
多分、それは俺が知る最も古い記憶だ。
俺がまだ、魔王ですらないただのちょっと怠惰な悪魔だった頃の話。
一人の勇者と出会った。とても美しい銀色の髪をした勇者で、強さこそ、今で言えばそれほど強くなかったものの、金剛のような透き通った勇気、刀のように研ぎ澄まされた強靭な意志の込められた瞳は前世を含めて最も美しいものだった。
銀碧のセルジュ。それがその勇者の名前。
ちょっとだけ他者よりも強く、ちょっとだけ才能があって、ついでにちょっとだけ勇気があった、ただそれだけの少女の名前。
最下級の悪魔を倒すのすらやっとだった癖に、無謀な夢だけを抱えて魔界にたった一人で降りてきた英雄の名前。
人と比較して魔界の悪魔は超越して強い。
故に、まだ人で言う十代半ばだった少女が魔界に挑むのは無謀か論ずるまでもなく愚かで、そして多分俺に第一に出会ったのは非常に運がいいことだった。
俺は動かない。
俺とセルジュの戦いは熾烈を極めた。
ただその場でぐったり寝そべる俺に、ただ一人聖剣を振るう孤高の勇者。
その意志、気合だけは十分で、だけど力の差は歴然で、その攻撃力は俺にちょっとの傷しか付けられず、その傷も一瞬で消える。俺にはセルジュを殺せる攻撃のスキルはなく、その気もなく、そしてセルジュには俺のVITをちょっとばかり突き破る程度の力しかなかった。
それはイタチごっこと呼ぶも愚かな、永遠に終わることのない殺し合いで、もしかしたら戦闘とすら呼べないのかもしれない。どちらかというと俺が有利だがそれすらも決定打には成り得ない。
それでも、どう考えても永遠に終わらない状況を目の前にして一歩も引かないその少女の在り方は明らかに勇者をしていて、ああ、ここは異世界なんだなーと思わせた。
そして同時に思った。俺はいつか血の滲むような努力を、鍛錬をこなし、強くなったこの勇者に殺されるのだろうと。
それもまた、いいのかもしれないと。
魔王はいずれ勇者に討伐されるものだ。前世でもゲームを碌にやらなかった俺にだってそのくらいわかる。それこそが恐らくはハッピーエンドなのだろう。どうせ俺は好きで生きているわけではない。死ぬのが嫌だから生きているだけで――
――それさえも、この勇者のためならば我慢できるはずだ。
再会したのはそれから五年後だ。数えていたからはっきり覚えている。
セルジュは成長していた。
人としては強くとも、悪魔と比べるとそれほど強くなかった、怠惰の悪魔一人殺せぬ、突出したものはその勇気しかないちっぽけな人間だったセルジュは、戦国時代さながらの戦争を年がら年中続ける魔界の将軍級の悪魔すら一対一で打倒しうる、人類のくくりの中でもトップクラス――至高の剣となっていた。
ゲーム的に言えば彼女はチートキャラだったのだろう。
いや、それは彼女に対する侮辱だ。そこにどれだけの鍛錬があったのか俺は知らない。血の滲むような、惰弱な俺なんぞが受けたら数分で音を挙げるような修行を繰り返してきたに違いない。その五年で、どれだけの冒険があったのか、ただずっと寝ていた俺に知る由はない。
俺が知っているのはたった二つだけだ。たった二つの事実だけだ。
彼女は将軍級の悪魔とすら対等に打ち合える勇者となっていた。
そして、俺は魔王となっていた。
この世は、世界は残酷で儚くそして下らない。
魔界は弱肉強食。俺の怠惰がセルジュの努力を超えた。ただ、それだけの事。
セルジュの研鑽された戦意は、かつて俺に僅かな傷を付けられた刃は、再会した時には既に俺に髪の毛程の傷すら付けられなかった。付けられないほどに差が広がっていた。
努力は報われるとは限らない。
その、やるせない前世の法則は異世界でも適用されていた。
これは、結果を見た後だからこそ言える事だ。
セルジュは初戦でほとんど傷つけられなくても、撤退すべきではなかった。まだ傷付けられるうちに俺を殺すべきだった。それが最初で最後のチャンスだったのだ。そして、人であるが故に寿命という名の枷から逃れられない彼女はその機会を永遠に失ってしまった。
涙を流しながら剣を振りかぶるその勇者の眼は初めて会った時と同じく極めて美しく、そして儚く、まるで流星のようにきらめくその切っ先を見て、俺はちょっと眠くなって眠った。
起きた時に、俺の目に入ってきたのは跪きぽろぽろ涙を零す勇者の姿だった。
聖剣は光を失い、ただの鉄の棒となって無造作に地面に突き刺さっていた。
セルジュには傷ひとつない。当たり前だ。俺が指一本触れていないのだから。だが、どんな重傷を負おうと、手足の一本や二本吹き飛ぼうと、泣き言一つ言わずに戦い続けようとしてきた勇者が、まるで唯の女の子のように泣きじゃくっていた。
戦意の欠片すら浮かばない虚ろな瞳。
まるで俺が何かを壊してしまったかのように。
初めて出会ったその時に、俺が感じていたのは恋だったはずだ。多分、もう覚えていないけどそうだったんじゃないのかなあと思う。
でも、結局その勇者がどうなったのか俺は覚えていない。わかっているのは、唯一、銀碧のセルジュと呼ばれる地上の希望の星の活躍がその時を持って終わったということだ。
――堕落の王。
いつもいつも不思議だった。
それは、転生してからの俺の疑問の一つだった。
何故他の悪魔はその、黒く燃え上がるような魂の輝きを持って、怒り求め見下し犯し喰らい妬むのか。
何故、ただ黙って寝ていられないのか。
悪魔としての力が欲しいのならば――ただ眠っているだけでいいというのに。
どうしてそんなにアクティブに動こうとするのか。
悪魔の身体は、ただ眠っているだけならば、長くてもせいぜい百年が寿命の人間と違って、何千何万の途方もなく長い時を生きていけるらしいというのに。
それが勘違いだと気づいたのは大分後になった頃だ。
数えきれない程の年月がすぎ、数えきれない悪魔や勇者、天使をも寝てやり過ごし、やがて誰かが呼び始めた『堕落の王』なんていう下らない呼称が広まり、広く認知されるようになったその時になって、俺はようやく気づいたのである。
ああ、これは性なのだ、と。
彼らにとって怒り求め見下し犯し喰らい妬む事は生きている存在意義であり、その証明でもあるのだと。
とても下らない話だ。寝ないのではない。寝ていられなかったのだ。その魂を精錬するために。
つまりそれは、そもそもの覚悟が違っていたということで、何の覚悟もなく怠惰の魔王になった俺にはけっこう長い人生を掛けても理解できないことなのだろう。
俺は何も考えていない。力なんて、どうでも良かった。存在なんて証明するつもりもなかった。
平和な日本に暮らしていた頃から欲はほとんどなかった。趣味もなかった。欲を除いて空いた空隙を埋める睡眠だけが心の支えだった。
尤も、これは現代社会に生きる若者としてはけっこうありがちな話らしい。きっと彼らがこの世界に転生したらみんな俺と同じ怠惰の悪魔になる事だろう。
目的などなかった。強いていうのならば、怠惰こそが俺の目的で、きっと渇望の先に力を求める悪魔との感覚の差異が俺が魔王にさっさと至ってしまった理由なのかもしれない。
つまらない話だ。
怠惰が努力になりうる世界。
ただ寝ているだけの俺に、ただ何の意味もなく寝ているだけの俺に、悪魔も人も天使も膝をついた。その中には怠惰の悪魔さえいた。
堕落? 違う。これは俺にとってのただのライフスタイルだ。
俺だってやる時はやる男だ。ただそのやる時が来ないだけで。
目をつぶっているだけでどんどん自らの力が増えていった。どうでもいい話だった。
使えるスキルが、できる事がどんどん増えていった。それと比例して、俺の活動範囲がどんどん狭まっていった。スキルの力で食事も排泄も必要ない。呼吸すら必要ない。だが、それさえもどうでもいい話だった。
――ただ、俺を眠らせてくれ。
一週間の長期休みですら曜日の感覚が狂う。少なくとも俺はそうだった。
一週間が一日になり、一秒に感じるのに時間はいらない。年だけが過ぎていく。周りの面々が敵も味方も変化する。
数えてないからわからないが、多分八十年くらいたった頃だろうか。
眠ることさえ面倒くさく感じてきたその時、俺は気づいた。いや、その時に新たに発生したのかもしれない。
自らに眠る力。
怠惰のスキルツリーに派生するように、寄り木されたかのように接続された一本の新たな系統樹。
『憂鬱』
冷たい失望と憂慮を司る怠惰のサブツリーに。
そしてまた、再び意味のない敗北者がまるで塵屑のように降り積もっていく。
努力も鍛錬も感情すら何の意味もない暗闇に包まれた世界。
それはまるで、薄氷のように冷たく儚くそして美しい。




