第四話:……下らない話だ
この世の何もかもは些事に過ぎない。
カノンの小娘が大魔王になるなど世も末だし、天界は愚か魔界の制圧にさえ手間取っている今の状況も最低だ。
我が至高の主さえ下した僕に敵などいない。当たり前の話だ。
今ならば神でさえ、殺せる。
力の増加した手の平を握る。
今まで魔王に上がれなかったせいで滞っていた傲慢のツリーが凄まじい勢いで成長していた。
増大する知覚。新たに得たスキル、『混沌の王領』が一気に主のいなかった影寝殿を満たす。
父上が放っていた怠惰のそれそれとは異なる、上から押しつぶすような傲慢の力。
だが、そこには高揚も何もなかった。達成感すら。
既に僕の上には何者も立っていないというのに。
「……ふん、何もかもくだらんな」
我が敵は既にこの魔界に存在しない。
今最も強力な魔王とされる破滅のカノンでさえ――幼少期を知っているこの僕には敵わないだろう。それは傲慢にとって圧倒的な優位性だ。
すれ違う悪魔共が僕を見て、跪き頭を下げる。
下らない奴らだ。渇望を進める事もなく、他者の与えるものにのみ満足する愚物。
傲慢を達成した後、目指す場所はたった一つだった。
王の間に歩みを進める。未だ誰も座ったことのない玉座がそこにはひっそりとあった。
魔界でも極めて希少な金属を、熟練の職人が長い年月を掛けて構築された漆黒の玉座だ。
掃除は定期的にされているのだろう。埃一つ存在しないそこは、我が父上と同じく眠っているかのように静かで静謐な空気に満ちていた。
躊躇いもせず、誰も腰を掛けたことのないそこに腰を下ろす。玉座はただ硬く、冷たかった。
魔界に既に敵はいない。カノンの小娘を虐める趣味もない。
手すりに肘をついて、じっと考える。
「魔界に敵はいない……ならば天界に攻め込むか……」
小憎たらしい純白の翼を持った神の尖兵の記憶。
奴らは性質的に悪魔に対して大きな優位性を持っている。それを正面から叩き潰す。暇つぶしくらいにならなるだろう。
そして、天界にまで、四方万里に轟かせよう。
この僕の名を。そして、偉大なる堕落の王の名を。
扉が乱暴に開かれる。
入ってきたのは紅蓮の髪をしたリーゼ・ブラッドクロスと呼ばれる悪魔だった。同時に曾てのカノンと同じく、父上の監察官だった女でもある。
烈火を具現化したかのような炎の眼差しに、怒気迫る容貌。
任務に失敗したデジとミディアの延命を、こともあろうに傲慢の僕に命令した愚かな女悪魔。
「……ッ! ハード・ローダー。これは一体……」
「……ふん、父上は崩御なされた」
「崩御!? 怠惰のレイジィが!? 一体何が――」
下らない事をいう女だ。
父上がこの僕以外の存在に破れるわけがない。
「僕が殺した。カノンの小娘に伝えろ。レイジィ様の威光は……僕が継ぐ」
魔眼を使用する。
リーゼの身体が硬直する。
なるほど、これが『魔王の魔眼』か。初めて使用したが下らないスキルだ。
敵対勢力はこの腕で屈服させてこそ意味がある。
「これは……魔王の!? ぐっ……ハード・ローダー。まさか主君を殺して――」
主君殺し。それこそが傲慢の本懐。
上位者を優越してこその傲慢。
「物分かりの悪い女だ。そうだと言っている。二度目はないぞ? カノンに伝えろ。この僕の手を煩わせるな」
「……何故レイジィ様が貴方のような者に」
しつこい女だ。
立ち上がり、スキルを使用した。
魔王となって得たスキルは間違いなくこれからの戦争で重要な役割を持つだろう。鍛錬しておくにこしたことはない。
思考が加速する。世界が一瞬停止する。
身体が軽い。
僅か一歩で接近、そのままリーゼの首元を掴んで持ち上げた。
首を締められて初めてリーゼの顔が驚愕に染まる。
「ぐっ……な――ご……」
「二度目はない、と言ったはずだ。……ふん、その程度で監察官筆頭とは質も落ちたものだな」
脆い。脆すぎる。レイジィ様と比べてどれだけこの世界の脆い事か。
少し力を入れただけでぽっきり折れてしまいそうなほどに。
リーゼの顔が紫色に染まる。憤怒の炎が腕を舐めるが、カノンの炎さえ優越している僕に通じるわけがない。
……ふん、下らない。殺す価値もないな。
そのまま片腕だけで壁にぶん投げる。手加減はしてある。死にはしないだろう。
貴様にはまだカノンに通達するという役目がある。
何もかもが遅い。
これこそが傲慢の魔王のスキル。
『孤高の地』
知覚速度を大きく向上させ、世界を己のものとするスキル。
鍛えあげられた肉体があるからこそ意味を成す傲慢の極地。
玉座に腰を下ろすのと、投げたリーゼが壁を突き破るのはほぼ同時だった。
部屋が大きく揺れ、石屑が落ちてくる。
影寝殿は我が父の墓標だ。
建てなおさせねばなるまい。影寝殿に代わる城を。
軍も編成し直す必要がある。
ミディアもデジもいなくなった。
尤も、今となっては僕が一人出れば足ることだ。
軍が三軍も存在していたのは、父上が自ら出ることがなかったという理由が大きいのだから。
「……世界を我が手に、か」
世界にいかほどの価値があるのか。
手に入れてしまえばそれがわかるのか。曾ての傲慢の大魔王は何を考えて世界を手に入れようとしたのか?
僕にはまったくもって取るに足らない話のように聞こえるが、いいだろう。
世界全てを制覇し、名を知らしめるのも一時の目的としては悪くない。
「……ハード様……」
「入れ」
扉が控えめにノックされる。既にその存在は認識していた。魔王の知覚は悪魔よりも遥かに広い。だがもし魔王に至ってなかったとしても、気づいていただろう。
そのくらい、その気配は動揺していた。
若干引きつった表情で入ってきたのはヒイロだ。
傲慢の悪魔。色欲を司るローナの妹にして、この僕とは異なる手法で傲慢を突き進める女だ。
扉が開いたせいか、壁に穴が空いているせいか、冷たい空気が入ってくる。
「……レイジィ様を下されたのですね」
「ああ。レイジィ様は強かった」
「……おめでとうございます。魔王閣下。このヒイロ、精一杯奉仕させていただきます」
「……ふん、下らない話はよせ。僕に何か用か?」
「はっ……はい!」
目の前で跪くその表情は真っ青で、眼には涙が滲んでいる。見るまでもなく、手足ががたがたと小さく震えていた。
恐怖……か。
下らない悪魔だ。上位者に畏敬を抱いても、恐怖を抱いてしまえば優越できない。
それは傲慢に取っての一つの禁忌もである。
「実は……その……」
「簡潔に述べろ。次はないぞ」
「……ミディアを逃してしまいました」
「……そうか」
ヒイロを睥睨する。下らない女だ。
あれほど弱っていた嫉妬の悪魔を見逃すとは、どこまでも度し難い。
失態。それは、この僕にとって一番許しがたい物だった。それは、相手が自身と同じ傲慢の悪魔でも変わらない。
ヒイロの目の前に立つ。
その表情に浮かぶ恐怖の正体がわかった。
長き生で数えきれない程見てきた……捕食者を見る非捕食者の目。
敏い女だ。
姉よりもよほど考えている。
そして、それは恐らく正しい。
もしこの僕を謀り逃亡したのならば、例え地獄の果てに逃げても追いかけて殺す。
確実に殺す。凄惨に殺す。生まれたことを後悔させてやる。
だが、自ら申告するのならば、一撃で葬ってやれる。
「最期の言葉を聞いてやろう」
僕の問いに返ってきたヒイロの答えは、命乞いではなかった。
震える声で僕を見上げる、
「……一つだけ教えてください。レイジィ様さえも優越した今、ハード様は何をするつもりですか?」
「……ふん、そんなの決まっている。この――」
――世界を我が手に下し、僕とレイジィ様の名を轟かせるのだ。
そう述べようとした瞬間、ヒイロが小さくくしゃみをした。
眉を潜める。ヒイロが僕の表情を見て、慌てて言い訳する。
「も、申し訳ございません。何かここ――寒くて……」
ヒイロが自らの腕を抱えて僕への恐怖ではなく、身体を震わせる。
確かに寒い。いつの間にか、床に霜がびっしりと降りている。室温は既に氷点下を下回っていた。
季節は冬だが、まだ真冬までは遠く、室内がここまで寒くなったこともない。
壁に穴を開けたせいか?
いや、玉座の間は穴からは遠く、さっきまではここまで寒くなかったはずだ。
それは明らかに異常事態だった。
「……おかしい。何が起こっている?」
ここ数十万年の生を顧みても、こんなことはなかったはずだ。
ヒイロと違い、魔王となった僕には寒さに対して耐性がある。この程度ならば問題ない。
だが、原因がわからないのが気味が悪い。
再びヒイロがくしゅんとくしゃみをして、再び言い訳するように言う。
「……きょ、今日は冷えますね……」
「……馬鹿を言うな。真昼にこんなに気温が下がるわけがないだろ」
そもそも、並の悪魔でさえ、自然現象程度の気温の高低ならば歯牙にもかけない程度の耐性は持っている。
ゾーンの中をくまなく探る。
だが、扱い始めたスキルはさすがにまだ手にしっくり来ない。遠くなればなるほど感覚が希薄になっていく。
異常気象? 確かに冬だがしかしこれは――
壁をぶち破ったリーゼがようやく起き上がる。頭から流れた血で髪が張り付き、しかしその隙間から鋭い眼光が覗いていた。
「ハード・ローダー。私は認めない。主君を殺すなど――」
「……ふん。貴様に認めてもらうつもりはない」
全ての決定権はカノンにある。
そして、別段カノンに認めてもらえなくても、ならば僕が全てを支配すればいいだけの話。
リーゼの身体が紅蓮の炎を纏う。霜が一瞬で蒸発し、空気に消える。
憤怒の上位スキル。
『炎神の加護』
下らない力だ。所詮魔王にさえ至っていない貴様にこの僕は傷ひとつ付けられない。
それは、単純な魔力の差だ。優越のスキルは相当な差がなければ覆らない。
視線と視線がぶつかる。カノンと比較してその憤怒のどれだけ薄い事か。矮小な事か。貴様の憤怒には重さというものが欠けている。
猛るリーゼの側に、ヒイロが震えながら近づく。
立場的に、助けでも求めるのかと思えば、そのまま暖を取り始めた。
あっけにとられて見る。それはリーゼも同じ。目を丸くして足元にうずくまるヒイロを見た。
「……何やってるの?」
「……う……寒いです……」
ぶるぶる震えながら手の平を炎で炙るヒイロの姿は、状況的にふざけているようにしか見えないが、本人は必死だった。
だが確かに――先ほどよりもさらに気温が下がっている。
リーゼはもういい。一瞬で殺せるし、その攻撃も全てはカノンの劣化でしかない。優越している。
だが、この寒さは何かがやばい。それは、蓄積された経験によって研ぎ澄まされた勘だった。
ヒイロがまだ震えながら、僕を見上げる。
「……ハード様、ちゃんとレイジィ様にトドメ刺したんですか?」
「魂核は砕いた。間違いなくレイジィ様は崩御なさった」
心臓である魂核を砕かれては悪魔は存在できない。
「じゃあなんでこんなに寒いんですか……絶対何か関係あると思いますけど……」
だがヒイロの言うこともわかる。
是、也だ。
このタイミング、関係がないとはとても思えない。
だが、怠惰のスキルに気温を低下させるスキルなどないはずだ。少なくとも、この僕が今まで生きてきた中ではなかった。そもそも、悪魔の渇望に憤怒の炎はあっても氷など存在しない。
眉を顰めた瞬間、僕は信じられないものを感知した。
氷柱を背筋に入れられたかのような冷たい衝撃が身体を駆け上がる。
「……この僕の『王領』が破られた、だと……」
「……くすくす、ほーら、ちゃんとレイジィ様の最期を見届けないから……くしゅん」
「……貴方、よくこのタイミングで笑えるわね……」
気配が塗り替えられる。
圧迫するような重たい空気から――凍えるような鬱屈した昏い空気へ。
それは間違いなく、見知った父上の『怠惰』のものではない。
強欲でも色欲でも憤怒でも暴食でも嫉妬でも傲慢でもない。
リーゼが顔を歪める。
「な、に……この気配……」
「何の魔王だ……いや、魔王なのか?」
悟った瞬間、脚は勝手に駆けだしていた。
視界が翔ぶように流れる。
リーゼもヒイロも興味はない。
いつでも殺せる存在に興味などわくわけもない。
影寝殿は銀幕の帳に降ろされていた。
白く積もった雪に、天井にずらっと並ぶ巨大なつらら。
そして――停止した臣下たちの姿。
青褪めて恐怖の表情で固まっている臣下の身体に触れる。
冷たい――完全に凍りついている。
「……ふん、自然のものではないな」
そこに潜む魔力はゾーンを破ったそれと同じ質のものだ。
怠惰も強欲も色欲も暴食も嫉妬も傲慢も、対応する炎を持つ憤怒までも、何もかもが無差別に。
力の塊に近づけば近づく程に気温はどんどん低下していった。
進んでいく途中で見知った悪魔を見つけ、一瞬立ち止まる。
ローナが穏やかな顔でカートを押したまま凍りついている。
そこに恐怖はない。恐怖すら感じないままに、一瞬で凍結されたのか。
凄まじい威力だ。
憤怒の炎に匹敵する威力。
暴食の波動に匹敵する範囲。
その力に、魂が戦意で満たされる。
面白い。
魔王としての我が第一の敵に相応しい。
力の在る先はとうに解っていた。
分からざるを得なかった。
ヒイロの言葉ではないが、ここまでの威力を誇るスキルを使える可能性のある相手は、外部の可能性を除けばこの影寝殿にはたった一人しかいない。
いや……たった一人だけいたはずだ。
扉は青白く凍りついていた。
父上の寝室の扉を無理やり開く。
まるで時が停止した一室。
目に入ってきた光景に、自身の心がざわめくのを感じる。
全てに霜が降り、その気温は僕の耐寒すら突き抜けるその極寒の地の中でたった一人の男が安楽椅子の上で膝を抱えていた。
確かに魂核を握り砕いたはずの父上が。生きているのか死んでいるのかすら定かではないほどに静かに。
一歩踏み出しかけ、反射的に脚を引く。
脚を見下ろし、目を見開いた。
「……これは……一体……」
脚が完全に凍りついていた。
感覚がない。痛みすらない。まるで無機物のように、滑らかな面が光を怪しく反射している。
手の平でそっと触れる。極めて固く、そして冷たい。鈍い痛みが手の平に奔った。
耐性系のスキルは基本的にその属性のダメージを受ければ受ける程に成長する。憤怒で炎の耐性はついていたが、氷の耐性は低レベルのものしか持っていない。
何故ならば――悪魔の有する七つの原罪のスキルに、未だかつて氷属性の攻撃はなかったのだから。
思わずため息をつく。
「父上……これまた酷い切り札を持っていたものだ」
今の今まで想定していなかった力。
吐息が一瞬で氷結し、細かい氷の粒となって床に落ち、微かな音を立てた。
室内に一歩踏み入れる。絶対零度に近い銀幕の世界。音もなく、埃も何もかもが存在しない清廉な空気。
地に半分凍りついた脚がついた瞬間に、氷が一瞬で侵食を始める。
やはり想定した通り、室内の温度は部屋の外の比ではない。ここはさしずめ、結界と言ったところか。
「……だが、それでこそ我が主君に相応しい」
そうだ。あまりにもあっさりと勝てたと思っていた。この程度ではないはずだと思っていた。
何しろ、終わってみれば僕の身には傷ひとつ、ついていなかったのだから。
氷結の侵食が止まる。
この僕が、ただの結界などにやられるわけがない。
その傲慢だけがこの死の世界で唯一僕を成す者だった。
踏み出す度にその力の波動が皮膚を焼く。
その威力は憤怒の炎にすら劣らない。ゾーンは抵抗すら許されず、何もかもが凍りつき停止したこの世界はまさに父上の世界にほかならない。
速度も力も通用しない残酷な世界。
全気力を込めなければ一瞬で氷像と化すだろう。室外にいる悪魔たちのように。
「……やれやれ……下らない話だ……」
だが、それを正面から打ち破ってこその我が傲慢。
策など我が傲慢の前に不要。
想起される記憶。
ただたった一人、我が上に立つ絶対的な創造主。
如何に容姿が、仕草が怠惰であろうと、そんなのは関係のない事だった。
怠惰の力。ただそれだけがあればいい。
ああ、なんと力強く、美しきことか。
魔界広し、天界まで含めど、これ以上の完成した美しさは存在しまい。
だからこそ、それ故に意味がある。
「――それをこの僕が越える」
往生際の悪い事だ。
如何なる摂理で魂核を砕かれて生きているのかは知らないが、今一度、冥府の底に沈めてやろう。
膝を抱え込んだまま顔を伏す主に宣言する。
ピクリとも動かないその腕はただでさえ白かった曾てを超越して、もはや氷のように透き通っている。
僕と同じ黒髪に降りた白い霜。
あまりに生気のない姿に、一瞬手を出しあぐねる。
距離は既に半メートル。手を伸ばせば十分に届く距離。だが、それは触れてしまえば崩れてしまうような儚さに満ちていた。
その瞬間、父上の顔がゆっくりと上がった。
ガラス球のように感情のない眼が僕をただ意味もなく見る。怠惰のレイジィの眼光よりも遥かに色があり、遥かに昏い絶望の眼。
それはずっと付き従ってきた僕でさえ初めて見る表情。
そして、父上のほとんど仕事をしていない口が小さく開き、僅かに動いた。




