第四話:こんなのあんまりだ
身を切る思いをして全てを捧げても、嫉妬の感情はごく僅かに収まっただけだった。多分そこは、ローナに対して抱いていた嫉妬の分なのだろう。
根源を成す巨大な奈落は微塵も埋まっていない。
焦燥感は微塵も収まっていない。私は呆然と行為の跡を拭き取り、手早く脱ぎ捨てた衣類を身につけた。
「ありがとう……ございました……」
「…………」
レイジィ様は微塵も動かない。行為の最中すらもほとんど動かなかった。
私が頭を深く下げても、答えすら返さない。目をつぶったままだった。私は泣きそうだった。
この魔王様に性欲はあるのだろうか? いや、あるのだろう。
だからこそ、ちゃんと事を成せたのだから。
無為の王。
改めて感じるその異常な在り方に、とんでもない喪失感と絶望を感じる。もはや乾いた笑いすら出ない。
しかし、これが違うのならば、私がここに来て得た嫉妬は果たして何が原因なのだろうか。
ずっとレイジィ様に対する慕情が原因だと思っていた。色欲に感じた嫉妬もレイジィ様に目をつけてもらうためだと思っていたし、だからこそずっと色欲を装っていたのだから。
ありえない。もう思いつかない。
自分が嫉妬を抱いた対象がわからない。それは、司る罪として選択されるほどの大きな感情だったはずだ。
これからどうすればいいのだろうか。
揺れる視界。思考のまとまらないまま、おぼつかない足元で扉に向かう。
鍵を外し、扉を開ける。
「……ふん、もういいのか」
「……ああ……なるほど……」
その声で悟った。
……もう時間切れという事か。
壁に身体を預け、こちらを睥睨する黒髪の男。
ハード・ローダー総司令官。
レイジィ配下のトップ。
悟ると同時に、強烈な怒りで目の前が紅蓮に染まる。
……いいだろう。私の邪魔をするというなら、私の『嫉妬』と、貴方の『傲慢』、どちらが強いか比べてみるのも悪くない。
積年の手がかりが綺麗さっぱりなくなり、無性に八つ当たりしたい気分だった。
息を整える。
「くすくす、ミディアさん、渇望は満たせましたか?」
隣に立つヒイロ。意地の悪い満面の笑顔で私を見下している。
満たせない。満たせるワケがない。
まだ、私には悔いが残っている。いや、むしろ悔いがより深くなった。
唇を舐める。幸いな事に、涙はもう止まっていた。まあ、ひどい表情をしているのは間違いないとは思うけど。
震える手足を叱咤する。
頭二つ分背の高い傲慢の悪魔を見上げた。
もちろん、油断はしないが、傲慢の悪魔は基本的に不意打ちなんてしない。格下ならば尚更のこと。
念のために最後に一度だけ確認する。
「ハード・ローダー……私と戦う気……?」
「……僕に殺意を向けるなんて、いい身分になったじゃないか。戦う? 非、これはただの……処分だよ」
相変わらずの鼻持ちならない言葉。
だがそこで、ハードがふと思いついたように言う。
「……ふん、だが、貴様にはレイジィ様の手を煩わせ、弱体化させたという『功績』がある」
「……は? 一体何を――」
レイジィ様を……弱体化?
功績?
こいつ……何を言って……。
デジの言っていた台詞が脳裏に蘇る。
嫌な予感。そう、嫌な予感と言っていたのだ。
ただそこにいるだけで感じる重圧。圧迫感。
まるで空気に押しつぶされるかのような巨大なプレッシャーは、ゼブルを目の前にした時と何ら変わらない。
確かに、ハード・ローダー総司令官はこの軍の中でレイジィ様に次いで強力な悪魔だった。だが、ここまで突出した空気を、プレッシャーを持っていただろうか?
傲慢独尊。
かつて、たった一人でレイジィの軍を支えた最大の功労者にして、軍の支配者。
ハードが、石ころでも見るかのような視線で私の全身を検分する。
「……そうだな、特別だ。貴様の功績を認め、元同軍のよしみとして、特別に軍の『慰安』用に飼ってやってもいい」
「は……?」
「くすくすくす、よかったですね、ミディアさん。殺されずに済んで。くすくす、『色欲』として、本望なんじゃないですか?」
ヒイロがくすくすと笑う。
ああ、もうだめだ。
憤怒じゃなくても、私はこいつを殺さなくてはいけない。
おかしい? 違和感? 強い?
そんな事知っている。
だが、ここまで言われて黙っていたら一人の悪魔として失格だ。
傲慢を司らなくてもプライドはある。
憤怒を司らなくても、怒る事くらいある。
もはや『嫉妬』すらも浮かばない。
「……ハード、貴方には感謝してる。唯の悪魔だった私に仕事をくれて」
「……ふん、感謝などいらん。僕が欲しいのは結果だけだ」
そして、貴様は結果を出せなかった、とでも言うかのように、ハードが私を鼻で笑った。
だが、その眼に傲慢な光はあっても油断はない。
万が一にも躓かないように。プライドを護るための病的なまでの修練。
それこそが傲慢として君臨し続けたハード・ローダーの本質。
それ故に、彼はずっとレイジィ軍の総司令官として輝き続けた。
存在の底から魔力を、渇望を汲み上げる。
ゼブル戦から既におよそ三日が過ぎている。体調はともかく、魔力は万全だ。
「……場所を変える?」
私がイエスと答えるわけがないとわかっていたのだろう。
ハードはつまらなさそうに、レイジィ様にそっくりな表情で私を見下した。
「場所? ……ふん、必要ない。いや、むしろ『ここ』の方が手間が省ける」
「都合が……いい?」
「いや、こちらの話だ。……さぁ、ミディア・ルクセリアハート。かかってくるといい」
ヒイロが大人しく道の端に身を寄せる。
ハードは至ってリラックスしていた。戦闘態勢に入っている様子もなく、その表情は平時と同じように憎たらしい。
舐められてる。
……いいわ。貴方を噛ませ犬にしてあげる。
油断なくハードの挙動を注視しながら、息を大きく吸い――
――私は『模倣』のスキルを使用した。
思考が稲妻となって身体を駆け巡る。
脳裏に浮かぶのは緑髪の少女。ただの一人で軍を率い、大魔王様に弓引いた強力な魔王。
嫉妬の炎が目の前に燃え上がる。
溜めに溜めた魔力が惜しげも無く消費される。
膝が笑う。身体ががくりと一瞬下がる。恐ろしい魔力の消費量。その消費量は、色欲の魔王を嫉妬したSS級のスキル『分装幻舞』すらも超える。
それは、まさしく魔王の技なのだろう。
本来ならば、数千、数万年の渇望に身を捧げた結果として得られる極地なのだろう。
それを、私は嫉妬した。何の責任も敬意もなく。
手の中に重さが発生する。
嫉妬した他者の保持スキルを完全に模倣する『嫉妬』のスキル。
『模倣』
それは、『強欲』の『簒奪』と同様に、それまでの経験により構築される嫉妬の嫉妬たる所以。
簒奪とは異なり、成長させる事はできないが、簒奪とは異なり、模倣した状態で使用できる。
本人が使った時の状態で。
『原初の牙』
それは、かつてレイジィ様との争いでゼブルが使ったスキル。
私の身長ほどもある純白の三日月刀が、飢餓を思わせる黒の霧を纏って今、顕現した。
ハードの眉が顰められる。しかし、明らかに色欲ではないそのスキルを見ても、驚きはない。
ヒイロが教えたのだろう。傲慢を司る悪魔は、その渇望故に、絶対的な上下関係を持っている。
忘れていた。いや、結びつかなかった。総司令官とメイド見習いの二人が。
だが、もはやどうでもいいことだ。そんな事で、魔王のスキルは破れない。
「それは……ふん、悪食のゼブル……暴食のスキルか」
「……」
重圧。恐ろしい飢餓。刀から栄養が吸われ、視線が霞む。足元がふらつく。
それを完全に無視して、身を低くして、床を蹴った。下に構えた剣の切っ先が床を舐め、何の抵抗もなく、空虚を作り出す。
レイジィ様が避けなければならなかった、レイジィ様を殺すために悠久の生を生きたゼブルが選択した、怠惰の王を殺すための突出した攻撃力。
僅か一歩で懐に飛び込み、逆袈裟に切り上げる。
ハードがその切っ先を見て明らかな侮蔑の表情で嗤った。
建物が揺れるかのような振動。床が陥没する。刃がハードを喰らい尽くす直前にその姿が掻き消えた。
キバが結界のかかった壁を容易く結界ごと喰らい破る。
「……ふん、やはり……つまらんな」
背後から声が聞こえた。慌てて振り向こうとした所で、脇腹が撃たれる。痛みを感じるまもなく、目の前が壁で埋まった。
痛み。身体全体を揺らす衝撃。判断する。生命力の減少を確認。脇腹の激痛。骨が数本逝っている。
背中から首元がぎりぎりと締め付けられる。
「魔王のスキルを持っていようが、所詮、嫉妬なんぞには使いこなせん」
剣を握った右腕が潰される。手が力を入れて開く。キバがさらさらと砂になって消えた。
レイジィ様が見せた馬鹿げた瞬間移動などではない。純粋な身体能力による移動。その速度は単純だが、私の動体視力ではまさしく『瞬間』に見えた。
静のレイジィ。
動のハード
凄まじい膂力。躊躇のない戦闘行為。壁から頭が一瞬離され、再び頭に衝撃が奔った。
轟音。三半規管が揺らされる。何が起こっているかわからないが、ダメージが蓄積されていることだけがわかる。
目の前にが真っ赤になる。
「……ふん、やはり、たかが『嫉妬』か……デジがこいつのどこに目をつけていたのか……理解できん」
「……デ……ジ……」
その言葉、名前に、朦朧とした意識が反応した。
反射的に『模倣』を発動させる。対象は『強欲』の悪魔、『簒奪』のデジ・ブラインダーク。
妬む。妬まざるをえない。
その『身体能力』
力が入らなかった腕に力が戻る。熱い血潮が。魔王と撃ちあったデジの経験が。
後ろ手で首根っこを掴まれたハードの腕を握る。力の限り。握り砕くべく。
だが、ハードの手は些かも緩まない。
「……ほぅ、それがデジの『腕力』か……ふん、貴様なんぞに貸してやるには勿体無い力だな」
身体が浮く。気づいた時には、片手だけで投げ飛ばされていた。
脳内がシェイクされる。一瞬のそれを状態異常耐性がかき消す。動体視力は迫る壁を完璧に捉えていた。だが、何もできない。
頭だけ庇い、壁に激突する。身体を通り抜ける衝撃。デジの耐久性故か、ダメージはさほどでもない。
それでもふらつく膝に力を入れ、ゆっくりと歩みを進めるハードを睨みつける。
散歩でもするかのようにこちらに近づく傲慢の悪魔を。
「ふん……大したことないな。『嫉妬』、レイジィ様を嫉妬すればよかろう」
「……何を……」
ハードが口元に歪な笑みを浮かべる。
「嫉妬したんだろう? レイジィ様の上で腰を振りながら。ふん、それを使えと言っているんだ、僕は」
こいつ……どこまで私を馬鹿にしているんだ。
怒りのあまりに真っ赤になりそうな頭。
唐突にデジの言葉が蘇る。
『まぁ、せいぜい頑張りなよ。一応、元同じ司令官として、嬢ちゃんが生き残れる事を祈っといてやろう』
そうだ。私は何としてでも、生き残らなくてはいけない。
――渇望を満たすために。
身体能力の模倣をやめる。
全身から抜ける力。だが、立てるくらいの力は残っている。そして、魔力もまた同じ。
不幸中の幸い、数秒しか『原初の牙』を顕現できなかったおかげで。
唇を舐めた。嫉妬を舐めるな。何もかもを妬み、羨み、成り代わらんとする我が嫉妬を。
「……ならば、見せてあげる。怠惰の王の力を!」
想起するのは王。常にベッドの中で、床の上で、荒野の荒い地面で、寝そべり面倒くさそうに片手間で蝿でも叩き潰すように外敵を討滅するただ一人存在する怠惰の王。無為の王を。
思う。
その力を。その在り方を。
――そして、私はそのスキルを嫉妬した。
私は、手を軽く振った。
ハードの身体が唐突に壁に叩きつけられる。
まるで、私の手に押しつぶされているかのように
なんという……無為な使用感。
私はあまりに『ない』手応えに、あっけにとられて、自分の手を見る。
まったく、何一つ私の手には感触がない。ただ振っているだけだ。音を立てて結界が張ってあるはずの壁に罅が入る。
ただ、何も考えずに手を握る。
それだけで、ハードの黒の衣に『握られている』かのような皺が寄った。
『不可思議で便利な空の右手』
それがこのスキルの名前。レイジィ様を通じて伝わってきたスキルの真名。
確かにミラクルでワンダーだがさすがにこれはないと思う。だけど、確かに強い。一方的に強い。
デメリットがほとんどない上に遠くから一方的に攻撃できる。
だが、しかし、ゼブルを屠ったほどのスキルをその身に受けても、傲慢の悪魔に焦りは見られない。
「『空の手』か……つまらんな」
ハードが締め付けられながらも、私を見下す。
その瞬間、スキルが強制的に消え去った。
浮き上がっていた身体、地面にたんと降り立つ。その身体に、表情にダメージはない。
皺のついた服をパンパンと手でならす。つまらなさそうに。
信じられない……馬鹿な、何をした? 怠惰の王のスキルを消し去る?
いや、違う。そうじゃない。何をしたかくらいわかる。
ハード・ローダーは傲慢の悪魔。
それならば自ずと出る答えはたった一つ。
これは――『傲慢』の『優越』のスキルだ。
心の底から超えたと判断した――優越したスキルを無効化する効果と、優越した相手に対する絶大な補正を齎す傲慢が傲慢たる所以の一つ。
だが、ありえない。仮にも主のスキルを優越するなど、普通じゃない。
「馬鹿な……何故、貴方がレイジィ様のスキルを……」
「……ふん、くだらんな、嫉妬。僕は、『使え』といったんだ。『模倣』しろといったんだ。怠惰のレイジィの――」
一瞬の動揺。
床が踏み抜かれ、ハードの高く伸ばされた脚が上から襲いかかる。
気づいても、知っても避けられない疾風迅雷の速度。
身体が地面に叩きつけられる。同じ将軍級とは思えぬ、馬鹿力。
頭が地面に叩きつけられる。
龍革でできているのだろう靴がぐりぐりと私の頭をまるでごみでも踏みつけるように踏みにじった。
見なくてもわかる。叩きつけられるような冷たい視線。身を切るような鋭い研ぎ澄まされた戦意。
ハード・ローダーが吐き捨てるように言う。
「――『VIT』を」
その言葉に込められた力。私は理解した。
こいつ……格が違う。
年齢が高くとも、力を持っていない悪魔を私は今まで腐るほど見てきた。だが、こいつは違う。
何年生きているのかしらないが、歩んできた年月を彷彿とさせる戦闘経験、魔力、威圧が感じられる。
何故、どうして。このランクの傲慢が魔王の配下なんて地位に甘んじているのか?
――勝てない
ぎりぎりと強く踏みつけられる顔を動かし、ハードを見上げる。
「あな……た……何をするつもッ!?」
「……僕は、『模倣』しろといったんだ。口を開けなんていっていない」
脚が一瞬上がると、顎が踏み抜かれ、砕かれた。
激痛、口の中に広がる血、微かに感じられる硬い感覚は歯か骨か。どくどくと地面を流れる血液がぼやけた視界で何故か妙にはっきりと映った。
朦朧とする意識の中、判断すらつかない。
視界が僅かに薄黒くなる。誰かが、見下ろしてる。
「……くすくすくす……ハードさん、この子、もう意識ないみたいですよ?」
「……ふん……まぁ、コレに期待するのは間違い、か。レイジィ様の力を削ってくれただけまだマシ……ということか」
「……まぁ、そういう事ですね。くすくすくす、もともとコレは司令官のうち最弱とされてましたから」
何も聞こえない。何も見えない。
魂核が急速に力を失うのを感じる。
ダメージを受けすぎた。身の丈に合わないスキルを使いすぎた。
そして、それでも敵わなかった。
視界が昏くなる。何も見えない。何も感じない。
その時に鮮やかな映像が流れた。
今まで生きた数千年の時ではない。
レイジィ様に枕代わりに抱きしめられここに連れられた時の映像が。
その感情までも鮮明に。無為の表情。温もりすら感じない腕。目を閉じたまま動かないレイジィ様。
帰ってベッドに乱暴に敷き詰められるレイジィ様。私に気づき眉を釣り上げるカノン様。
レイジィ様が眠そうな眼で見比べる。初めて胸中に発生する強い不安。
そして、レイジィ様が、私を離した。
そして代わりに抱きしめたのは――
衝撃が脳内を揺さぶった。死にそうとかもうどうでもいい。
如何なる摂理か、視界が色を取り戻す。
し、死んでも死にきれない……こんなのあんまりだ。
枕!? ……ちょ……私の嫉妬のげんい――
思わず叫ぶが、喉が砕かれていて変な声しか出ない。
「ふぁ……ひょ……」
「……あれ? まだ意識あるんですか? くすくす、頑丈ですね。えいっ!」
白魚のような指、尖らせた手の平が容赦なく両の眼に突き刺された。
眼が潰され物理的に視界が真っ暗になる。声にならない悲鳴が喉から搾り出された。ぐりぐりと眼の中で指が動く。
あまりの激痛に意識が今度こそ飛びそうになる。
もう何もかもどうでもいい。殺して……
感覚が麻痺した。ぐりぐり眼窩で動く指の感覚。もはや痛みは感じない。ただ、眼で動き回る感覚だけが凄まじく気持ちわるい。
意識が闇に飲まれる寸前に、声が微かに聞こえた。
「くすくす、ハードさん。コレ、もういらないですよね? 私が、もらっちゃっていいですか?」
「……ふん、僕はいらないが……何に使うつもりだ……」
身体が揺れる。感覚がずれる。
「コレ、優越……できると思うんですよね、私にも。ちょっと『実験』させていただこうかと……」
「……ふん、いいだろう。それもまた『傲慢』の一つの進め方。だが、一応言っておく。どう扱おうと構わないが、最終的には処分しろ」
「くすくすくす、わかっています、ハードさん。コレの始末は私にお任せください。ハードさんは……レイジィ様を」
「……是、也だ。些事にかまってる暇はない……ふん、くだらない時間を使ったな。堕落のレイジィ……か。我が父上も落ちたものだ。最後のご挨拶をすることにしよう」
気配が消えるのが、微弱に鼓動する魂核にも感じられた。
それよりも……
微かに聞き取れたハードの言葉が気になる。
気を抜くと引きずり込まれる奈落。
必死に意識を集中する。
父……上? どういう事だ?
ハード・ローダーの父親がレイジィ様?
初耳だ。所属してから長いが、そんな話聞いたこともない。うわさ話ですら。
何かが不味い。このままハードを行かせてはまずい。
だが、身体が動かない。意識も。
走馬灯が強心剤的な効果をもたらして意識を浮上させたが、もう限界だ。
ぴくりとも動かない腕。ただ、動かない感覚のみが空を掻く。
そこに未練があるかのように。
「はぁ……お姉ちゃんもですけど、ミディアさんも大概頑丈ですね……そんなに現世に未練があるんですかぁ? くすくす、本当、色欲も嫉妬も頑丈すぎ……レイジィ様の事言えないですよ?」
身体全体を衝撃が揺らした。息が一瞬止まる。
それが収まる前に、視界にぼんやりとした光が戻る。
真っ先に入ってきたのは、小さなガラス瓶を逆さにして私を見下すヒイロの姿。
水滴が頬を流れる。唐突に復活した激痛に思わず唸りそうになった口に、ヒイロが靴を差し込んだ。
「ごッ……」
「やれやれ、手間かけさせないでください、ミディアさん。くすくす、ハードさんにバレたらまとめて殺されちゃうじゃないですか。ちょっと静かにしててくださいね?」
何が面白いのか、笑ったままヒイロが二度三度嫌がらせのように靴を動かすと、ようやく靴を脱いた。
そのままポケットから新しいガラス瓶を取り出す。
瓶に入ったロゴ――生命力を回復するための妙薬。見覚えのあるそれは、軍の倉庫に常備されているものだ。
キャップを外すと、再びかなり高い所から私に向けて振りかける。
ポーションは超高級品だ。部位欠損すら回復する魔法の薬。
普通、戦争ではポーションなんて使う余裕はないので、それは非常事態のために、いざというときのために取っておいた品だった。
ポーションの効果で痛みが和らぐ。砕けた顎が修復される。
「あらら、二本でもダメですかぁ。ほんっとう、HP高いですね……三本目いきますか……」
「い、いらない……もう、大丈夫だから!」
「くすくす、無茶しちゃだめですよ? ほら、ほら」
「ぐっ……」
肋をぐりぐり脚で踏みつけられる。
腹の中で何かが暴れているかのような痛み。
もう私は何がなんだかわからなかった。いたぶりたいのか、それとも回復させたいのか。
口を開いた瞬間に、瓶を喉に突っ込まれた。
液体が喉の奥に直接流し込まれる。咳き込みそうになった所を、無理やり手で口を閉じさせられた。
鼻の穴からポーションが逆流する。それを見て、ヒイロは小さく上品に『けたけた』と笑った。
「ごほ、ごほ、ど、どういうつもり?」
「んー? どういうつもり? 助けてあげたんですから、まず言うことがあると思うんですけど?」
腹の立つ言い方だ。
だが……助けた?
慌てて周囲を見渡す。壁に入った罅、崩壊した床、意識を失った場所からまったく変わっていない。
狐に包まれた気分だった。
「ほら、ミディアさん……お・れ・い・は?」
ニコニコ笑いながら言う。
私は歯を食いしばった。
「………ありがとう。助かった」
「くすくす、どういたしまして。これからはちゃんと分を弁えて逃げるんですよー? ハードさんにミディアさんが敵う訳がないじゃないですか。そもそも、『傲慢』は相性的に『嫉妬』に強いんですから」
まるで犬でも撫でるかのように髪を撫でられる。
いらいらするが、命があるだけラッキーだ。
それよりも、どうして、何故の気持ちの方が強い。
私の視線を受けて、ヒイロがため息をつく。
通路――レイジィ様の部屋に続く通路の角を見つめて、得も知れぬ視線で私を見下ろした。
「いやー……もしかしたらレイジィ様がもう一度ミディアさんを抱きたいって言うかもしれないじゃないですか? もしかしたらのもしかしたらの万が一のですけど……くすくす……」
理解……理解できない。
得体が知れなさすぎる。なんでローナの妹でこんなのができるんだ。
意味がわからない。理解できない。
ハードの力は恐ろしかったが、ヒイロは精神が恐ろしい。
そんな理由で――場所すら変えずにその場で治療?
もし、ハードが戻ってきたらどうするつもりだったんだ?
思考が渦巻く。あまりの理由に私はたった一言しか言えなかった。
「……ありえないと思うけど」
「私もそう思います。ミディアさんの身体貧相だし……お姉ちゃんならわかりますが……」
喧嘩売ってるのか?
「いやー、でも、ちゃんとレイジィ様に閨に呼ばれたら答えるんですよ? 『傲慢』のヒイロに助けられました、この貧相な身体をご賞味くださいって」
もし仮にほぼ100%ないことだが、そんな機会が来てもそんな台詞は出さない事を私は決意した。
命救ってもらったとかそういうレベルじゃない。
「くすくすくす、まー、冗談はこの辺にしておいて――」
……冗談だったのか。
いつも笑顔なので本音なのかふざけているのかさっぱりわからない。
ヒイロが真面目な表情に改め、通路を見た。レイジィ様の部屋を見通すかのように、儚い眼差しで。
「ハードさんは、レイジィ様を殺すつもりです。魔王との戦闘直後で弱ったこの隙を狙って」
「……は? な、どうして……いや、違う。……そう」
正気じゃない。
魔王との戦闘直後とは言え、レイジィ様はほとんど傷を負っていなかったし、スキルもほとんど使っていなかった。弱った様子もない。いや、寝ているから分からないけど。
だがしかし、ハードが殺すつもりというのならば……何かしらの手があるのだろう。
そもそも、主君殺しとは傲慢のある種のステータスでもあった。
ハードの意味深な言葉もそれならば納得がいく。
続いて、大きく伸びをしてヒイロがため息をついて言った。
億劫げにふせられた瞳が幼さに見合わぬ色気を醸し出している。
「私は、賭けたんですよね。確かに同じ傲慢ですけど、そんな事無関係にハードさんは多分『負ける』って。まぁ、ただの勘なんで、もしハードさんが勝利したら私はこの場でミディアさんを殺します。くすくすくす……実は私、強い方の味方なんですよ」
「……そう」
ダメだ、こいつ。ナチュラルでクズだ。
だが、助かったことも確かな話。私は口に出さない事にした。
立ち上がって大きく身体を動かす。魔力はほぼ空っぽだが、痛みはもうない。
私の傷は完全に回復されていた。
「……なら、なんで私を完全に治したの? 死なない程度に治すとか、あるはずじゃ……」
いくら魔力まで回復していないとは言え、私とヒイロでは力量差があるはずだ。
完全に治療してしまえば、逃げられる可能性も高くなる。
私の疑問に、ヒイロが事も無げに答えた。
「……そーれーはー、十中八九レイジィ様が勝利するからですよ! ハードさんは確かにデタラメに強いですが……レイジィ様の力は理解不能です。傲慢は正体不明に滅法弱いですからねえ……相手が弱ければまだ何とかなりますが、レイジィ様は魔王で第三位ですし。初見のスキル使用されて終わりじゃないですか? きっと」
また、えらく辛辣な言葉だ。だが、同じ傲慢の言葉はどこか説得力があった。
私は不安を押し殺し、ヒイロと一緒に角を見つめた。
……枕、渇望、どうしよう。




